春秋時代194 東周景王(十六) 晏嬰と叔向 前539年(1)

今回から東周景王六年です。二回に分けます。
 
景王六年
539年 壬戌
 
[] 春正月、鄭の游吉(子大叔)が晋に入り、少姜(前年参照)の葬礼に参加しました。
晋の大夫・梁丙と張趯が游吉に会いました。
梁丙が問いました「子(あなた)がここに来たのは(卿が妾の葬礼に参加するのは)、度を越えていませんか。」
游吉が言いました「仕方がないことです。昔、(晋の)文公と襄公が霸を称えた頃は、諸侯を煩わせることがなく、諸侯には三年に一回の聘(聘問)と五年に一回の朝(朝見)を命じ、事があれば会し、不協なら(諸侯が不仲になったら)盟を結びました。国君が薨じたら(死んだら)大夫が弔問し、卿が葬事に参加しました。夫人が死んだら士が弔問し、大夫が送葬しました。ただ礼を明らかにし、命令を発し、不足を補う相談をするだけで足りていたのです。それ以外の命が加えられることはありませんでした。しかし今は、嬖寵(寵姫)の喪事でも適切な人選が許されず、守適(正夫人)に対する礼を越えても、ただ罪を得ることを恐れるだけで、それを煩いと思うこともありません。少姜が寵を受けて死んだので、斉は続けて室(妻妾)を送ります。そうなったら私は祝賀のためにまた来なければなりません。今回だけでは済まないはずです。」
張趯が言いました「素晴らしい(善哉)。私は礼数(聘問・朝見・弔問・葬送の礼)について聞くことができました。但し、今後、子(あなた)に煩わしいことは起きないでしょう。例えば火(大火。火星)が天中に昇ったら、寒暑が減退します(大火の星は、夏の終わりになると夕方の天中に昇り、その後、暑さが減退しました。また冬の終わりになると早朝の天中に昇り、寒さが減退しました)。これは極(極限。頂点)というものです。極に至ったら減退しないはずがありません。晋はやがて諸侯を失い、諸侯はたとえ煩いを望んでも得ることがなくなるでしょう。」
二大夫が退いてから、游吉が人に言いました「張趯はよくわかっている。君子の後(列。類)に並ぶべき人物かもしれない。」
 
[] 丁未(初九日)、滕子・原(または「泉」。成公)が死に、子の悼公・寧が立ちました。
 
[] 斉景公が晏嬰を晋に派遣して新たに妻妾とする女性を送ることを請いました。
晋に入った晏嬰が言いました「寡君(斉景公)が嬰(私)を派遣してこう伝えさせました『寡人は貴君に仕えて朝夕も倦むことなく、時を失わずに質幣の奉献を行おうと思っていますが(定期的に朝見を行うつもりですが)、国家が多難なため、自ら来ることができません。幸いにも先君の適(少姜。先君は荘公で、適は嫡夫人の子。少姜は荘公の正夫人が産んだ子だったようです)が内官(晋平公の後宮に入り、寡人の望を明らかにできたと思っていましたが、禄(福)がないため早逝してしまい、寡人の望が失われました。貴君が先君の誼を忘れず、斉国に恩恵を与え、寡人を受け入れ、大公(太公。斉の祖)、丁公の福を求め、敝邑に光を与え、社稷を鎮撫しようというのなら、敝邑にはまだ先君の適(先君の正夫人が産んだ娘)と遺姑姊妹(先君の妾妃が産んだ娘。ここでいう先君は霊公と荘公)がいます。貴君が敝邑を棄てず、使者を送って慎重に選び、嬪嬙(姫妾)に加えるとしたら、それは寡人の望です。』」
晋の韓起(韓宣子)が叔向を送って答えました「それは寡君の願いでもあります。寡君は社稷の大事を一人では担えず、まだ伉儷(正妻)もいませんが、縗絰の中(喪中)なので、敢えて請いませんでした。貴君にそのような命(意見)があるのなら、これ以上の恵はありません。もしも敝邑に恩恵を与え、晋国を鎮撫し、内主(正夫人)を賜るようなら、寡君だけでなく、群臣を挙げてその貺(賞賜)を受け入れ、唐叔(晋の祖。斉の大公・丁公に対応しています)以下、それを寵嘉(光栄として称賛すること)します。」
 
(婚約)が成立すると、晏嬰は賓享(賓客のための形式的な宴)の礼を受け、その後、叔向に従って酒宴に参加しました。
叔向が「斉はどうですか?」と問うと、晏嬰はこう答えました「季世(末世)です。斉は陳氏に代わられるでしょう。公はその民を棄て、陳氏に帰させています。斉には元々四量(四種類の量器)がありました。豆・区・釜・鍾です。四升を豆といい、それぞれを四倍にすると一釜になり(一豆は四升。四豆は一区で一斗六升。四区は一釜で六斗四升)、十釜で一鍾(六斛四斗)になります。陳氏はこのうちの三量(豆・区・釜)をそれぞれ四分の一ずつ増やしたので(五升を一豆、五豆を一区、五区を一釜にしました。一区は二斗、一釜は八斗です)、鍾が大きくなりました(一鐘が八斛になりました)。家では大きな量器を使って貸し出す時に使い、公では小さい量器を使って徴収に使っています(貸し出す時は出す量を多くし、徴収する時は受け取る量を少なくしています)。また、山木が市に運ばれても山中と同じ値で売られ、魚・塩・蜃蛤(貝類)が市に運ばれても海と同じ値で売られています(このようにして、陳氏によって人心が収攬されています)
ところが、例えば民に三つの力(賦税・労役等)があるとしたら、二つは公のために使われ、一つだけが陳氏の衣食を確保するために用いられています(人心を得ている陳氏よりも、斉の公室の方が多くを搾取しています)。公が集めたものは無駄が多く、朽蠹(腐ったり虫が喰うこと)しているのに、三老(国の模範となる三人の老人)でさえ飢えと凍えに苦しみ、国内の諸市では履物が安く踊(義足。または脚が不自由な人が使う杖)が高く売られています(刑罰によって脚を失った人がたくさんいるためです)。人々が疾病に苦しんだ時は、陳氏が民を厚く看病し、父母のように民を愛しているので、民は水が流れるように帰心しています。このような状況で、陳氏が民を得たくないと思っても、避けることができるでしょうか。
箕伯、直柄、虞遂、伯戲(帝舜の子孫。陳氏の先祖)は胡公(陳国の祖)と大姫(太姫。胡公の正夫人。西周武王の娘)に従い、既に斉にいます(陳氏の先祖の霊が既に斉におり、陳氏を守っています)。」

以上は『春秋左氏伝(昭公三年)』を元にしました。『史記・斉太公世家』は簡潔に書いています。
晏嬰叔向に言いました斉の田氏(陳氏)に帰すでしょう。田氏には徳はありませんが、事を利用して恩を施し、民に恩徳をもたらしています。は田氏を愛しています。」

史記・田敬仲完世家』はこれを田乞の時代の事としていますが、当時の田氏の主は田乞の父・田無宇桓子です。

『春秋左氏伝』に戻ります。
叔向が晏嬰に言いました「我々の公室も、また季世です。(公室の)戎馬(軍馬)は兵車を牽くことなく、諸卿は公の軍を率いることなく、公乗(公室の車)には人(御者と車右)がなく、卒列(歩兵の列)には長官がいません(公室の軍備は退廃しています)
庶民は疲弊しているのに、宮室はますます贅沢をしており、道には餓死者が並んでいるのに、女(姫妾とその家族)の富はますます増えています。そのため、民は公の命を聞くと寇讎が来た時のように逃げ隠れするようになりました。
欒・郤・胥・原・狐・続・慶・伯の八氏(全て姫姓出身)は皂隸(奴隷。下級官吏)に落ちぶれ、政権は家門(韓氏・趙氏等の諸卿)にあり、民は頼る者がいません。それでも国君は日々改めることはく、娯楽によって患憂をごまかしています。公室の衰亡まで日はありません。『讒鼎(鬵鼎。鼎の名。かつては魯にあり、後に斉に移ったようです。晋にも同じ物があったのかもしれません)』の銘にはこうあります『日が明けた時、名声が明らかにされる。しかし後世は怠惰して名声を失う(昧旦丕顕,後世猶怠)。』日々反省しなければ、長く続くことはありません。」
晏嬰が問いました「子(あなた)はどうするつもりですか?」
叔向が答えました「晋の公族は終わります。公室が衰退する時は、その宗族(支族)がまず枝葉が落ちるように没落し、公室がそれに続くといいます。肸(私)の宗は十一族がいましたが、羊舌氏だけが残りました。肸には子もいません。公室に節度がない今、普通に死ぬことができるだけで幸せです。死後に子孫の祭祀を受けようとは思いません。」

史記・晋世家』が叔向の言葉を簡潔に書いています。
叔嚮(叔向)が言いました晋は季世です。国君はを厚くして台を築き、政事を心配していません。政治は私門にあります。久しいはずがありません。
晏子な納得しました。

史記・趙世家』は少し異なります。
景叔(趙成。趙武の子)の時代、斉景公晏嬰を晋に派遣しました。
晏嬰が晋の叔向と話をした時、晏がこう言いました斉のは今後、田氏に帰すでしょう。」
叔向もこう言いました晋国の六卿に帰すはずです。六卿(奢侈・驕慢)ですが、我ががそれを憂慮することはありません。」
 
次は『春秋左氏伝(昭公三年)』から晏嬰に関する故事です。
かつて斉景公が晏嬰のために家を建て替えようとして言いました「子(あなた)の家は市に近く、湫(土地が低く湿気が多い)・隘(狭い)・囂(騒がしい)・塵(塵埃が多い)なので、住むのに不便だ。爽(明るい)・塏(土地が高く乾燥している)の地に移った方がいい。」
しかし晏嬰は辞退して言いました「あの地は主君の先臣(晏嬰の先祖)が受け入れてきたのです。臣には先臣を受け継ぐ能力も無いので、今の家に住めるだけで充分です。また、小人が市の近くにいれば朝夕に求める物を得ることができます。これは小人の利です。敢えて里旅(大夫の住居を管轄する官)を煩わせることはありません。」
景公が笑って言いました「子は市の近くにいるが、貴賤(物価の高低)を知っているか?」
晏嬰が言いました「それを利としているのです。知らないはずがありません。」
景公が問いました「何が貴(高い)で、何が賤(安い)だ?」
当時、景公は刑罰を頻繁に用いており、踊(義足。または杖)を売る者が市に増えたため、晏嬰は「踊が貴であり、屨(履物)が賤です」と答えました。叔向との話に出た踊はこの事を指しています。晏嬰の言を聞いて景公は刑を少なくしました。
君子(知識人)は「仁人の言とは、広く利をもたらすものだ。晏子の一言が斉侯に刑を省かせた」と言って称賛しました。
 
晏嬰が晋に行った間に、景公は晏嬰の家を建て替えました。場所は遷さず、近所に住む者を引っ越させて建物を大きくします。
家が完成してから晏嬰が帰国しました。しかし晏嬰は景公に拝謝すると、新居を取り毀して隣人を呼び戻し、元の姿に戻しました。
晏嬰が言いました「諺にこうある『卜うのは家ではない。隣人を卜うものだ(非宅是卜,唯鄰是卜)。』二三子(彼等。隣人)は元々卜って隣人となった。卜いに背くのは不祥だ。君子は非礼を行わず、小人は不祥を行わないのが古の制だ。私にはそれに逆らうことはできない。」
晏嬰の家が元に戻されます。景公はそれに同意しませんでしたが、晏嬰が陳無宇(陳桓子)を通じて請願したため、やっと許可されました。
 
 
 
次回に続きます。