春秋時代284 東周敬王(五十三) 西狩獲麟 前481年(1)

今回は東周敬王三十九年です。三回に分けます。
 
周敬王三十九年
481年 庚申
 
[] 春、魯が西方の大野(大野沢)で狩りをしました。
この時、叔孫氏の車子鉏商(車は御者の意味で、子鉏が氏、商が名。一説で車子が御者・従者の意味で鉏商が名)が麟を得ました。麟は伝説の仁獣といわれており、牡は麒、牝は麟、併せて麒麟とよばれています。
西方で狩りをして麟を得たこの出来事を「西狩獲麟」といいます。
 
叔孫氏は自分が得た動物が何か分からず、不祥なものだと思って虞人(山林を管理する官)に与えました。後に仲尼孔子がこれを見て「麟だ」と言い、受け取りました。
 
『春秋公羊伝』と『春秋穀梁伝』はこの「西狩獲麟」の記述が最後となっています。
『春秋』経文は孔子が編纂したといわれています。当時は世が乱れて道徳が失われていました。そこで孔子は歴史の教訓から善悪を明らかにするために『春秋』の編纂を始めました。しかし明王が存在しない世なのに、吉祥である麒麟が現れるという道理から外れた事件が起きたため、孔子は自分がやってきたことが無意味だったと思い、『春秋』の執筆を止めたといいます。
但し『春秋』経文は「獲麟」の後も記述があり、二年後の哀公十六年(東周敬王四十一年・前479年)孔子が死ぬところで終了します。これは孔子の弟子が加筆したようです。
『春秋左氏伝』の記述は更に長く、魯哀公二十七年(東周貞定王元年・前468年)まで続きます。
 
以下、『史記孔子世家』を元に「獲麟」と史書『春秋』に関して書きます(上述の内容は『春秋左氏伝(哀公十四年)』からです)
魯哀公十四年春、大野で狩りをした時、叔孫氏の車子鉏商が獣を得ました。叔孫氏はそれが何か分からず、不祥の物と思っていましたが、仲尼孔子が見て言いました「これは麟です。」
孔子は麟を受け取りました。
 
以前、孔子はこう言いました「河黄河が図を出すことなく、雒(洛水)が書を出すこともない(『河図』と『雒書』は聖人が天命を受けた時に現れる吉祥です)。私も終わりだろう。」
顔淵が死んだ時、孔子はこう言いました「天が私を滅ぼした。」
顔淵が孔子の優秀な弟子だったためです。
今回、麟を見た時にはこう言いました「私の道は窮してしまった。」
麒麟は太平の世に現れる吉祥です。それを乱世で見たため、孔子は不吉なことだと思ったようです。あるいは麟を得たのに死んでしまったという説もあります。
『拾遺記(巻三)』には孔子が産まれる前にも麟が現れたと書かれています。老年になって再び麟が現れ、それが死んでしまったため、孔子は自分の死を覚ったのかもしれません。
 
孔子が嘆いて言いました「誰も私を理解できないのか。」
子貢が「なぜ誰も子を理解できないのですか?」と問うと、孔子はこう答えました「私は(天にも人にも受け入れられなかったが)天を怨まず人も怨まず、下は人事を学び、上は天命に達した。私を知るのは天だけだろう(人には私を理解することができない)。」
 
孔子が言いました「自分の志を下げることなく、自分の身に辱めを受けることもなかったのは、伯夷と叔斉だろう。柳下恵と少連は志を下げてその身を辱めた。虞仲と夷逸は隠居して世事を語らなくなり、行動は中清(純潔でいること)であり、中権(権力と関係すること)を廃した。私は彼等の誰とも異なり、志を下げて進むことなく、隠居して世俗から去ることもなかった。可も無く不可も無い(無可無不可)。」
 
孔子が言いました「君子は死んでから名を残せないことを心配する。私の道は行われなかった。私は何をもって後世から見られるだろう。」
そこで孔子は魯国の史記史書を元に『春秋』を編纂しました。魯隠公元年から哀公十四年まで、十二公の歴史になります。魯国を中心に記述していますが、周王室を尊重し、三代(夏・商・西周の事も参考にしました。
『春秋』の文辞は簡潔ですが内包された意義・教訓は遠大です。周王を尊び、三代の徳に則ったため、王を自称した呉楚の地位を認めず、『春秋』は王の位を落として「子」と称しました。また、践土の会では晋文公が周の天子(襄王)を招きましたが、諸侯が天子を招くのは非礼とされていたため、『春秋』は「天王が河陽で狩りをした(天王狩於河陽)」と書きました。このようにして当時の人々の行為が礼に則っているかどうかを判断し、評価していきました。
後世の王者が『春秋』による貶損の義(褒貶の義。礼に従えば褒め称え、礼に背いたら糾弾すること)を天下に拡めたため、「春秋の義(春秋の教え)」が知れ渡り、天下の乱臣・賊子が不忠不義を恐れるようになりました。
 
孔子はかつて司寇として訴訟を処理していた頃、辞の内容に他の者と相談するべき内容があると思ったら一人で決断を下すことはありませんでした。しかし『春秋』を書くときは、孔子が書く必要があると判断したら書き、削る必要があると判断したら削りました。
その結果、子夏孔子の優秀な弟子)ですら『春秋』に一字一句の建議をすることができませんでした。
弟子が『春秋』の教えを受ける時、孔子はこう言いました後世、丘孔子の名。私)を知る者は『春秋』によって知り、丘を批難する者も『春秋』によって批難することになるだろう後世知丘者以春秋,而罪丘者亦以春秋。」
孔子の独断によって史書が編纂されたからです。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで孔子に関する故事を紹介しています。
まずは『孔子家語・正論解(第四十一)』からです。
魯哀公が孔子に問いました「東益(家の東を拡張すること)は不祥(不吉)だと聞いたが、本当だろうか?」
孔子が言いました「不祥のことは五つありますが、東益はその中に含まれません。人を損なって自分の益とすることを身(自身)の不祥といいます。老を棄てて幼を取ること(老齢者をないがしろにして子供だけを顧みること)を家の不祥といいます。賢人を棄てて不肖(不才)を用いることを国の不祥といいます。老者(老人)が教えず、幼者(若者)が学ばないことを俗(世俗。風俗)の不祥といいます。聖人が隠れて愚者が専権することを天下の不祥といいます。不祥にはこの五種類がありますが、東益は含まれません。」
 
『孔叢子・記問(第五)』からです。
孔子が隠居してから、嘆息したことがありました。それを見た子思孔子の孫)が再拝して問いました「子孫が徳を修めず、祖先の業を損なうと思っているのですか?堯舜の道を羨み、そこに至らないことを恨んでいるのですか?」
孔子が言いました「孺子(子供)がなぜ私の志を知ることができたのだ。」
子思が答えました「伋(子思の名)は膳を進める時、しばしば夫子(先生。孔子の教えを聞きました。父が薪を伐っても、その子が手伝って背負おうとしなかったら、それを不肖(品行が悪いこと)といいます。伋はいつもこの事を思い、不肖になることを恐れて努力しています。」
孔子は喜んで笑い、こう言いました「私に憂いはなくなった。代々業を廃することがなければ、子孫はきっと興隆するだろう。」
 
 
孔子の子について『孔子家語・本姓解(第三十九)』からです。
孔子は十九歳の時、宋の官氏(または「丌官氏」)の女性を娶り、一年後に子が産まれました。この時、魯昭公が孔子に鯉を下賜したため、孔子は国君の貺(賜)を記念して鯉と命名し、字を伯魚としました。
(伯魚)は五十歳の時、孔子よりも先に死にました。
子思は伯魚の子にあたります。
 
 
 
次回に続きます。