西漢時代175 昭帝(十九) 劉病已 前74年(5)

今回も昭帝元平元年の続きです。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前、衛太子劉據武帝の太子)は魯国の史良娣を娶りました。
資治通鑑』胡三省注によると、史氏は西周の史佚(史官)の子孫です。
良娣というのは太子の妃妾の階級です。妃、良娣、孺子の三階級がありました。
 
史良娣は劉進という子を産みました。史皇孫武帝の孫)とよばれます。
皇孫劉進は涿郡の王夫人を娶りました。『資治通鑑』胡三省注によると、王夫人の名は翁須です。
王夫人は劉病已という子を産みました。皇曾孫武帝の曾孫)と呼ばれます。
 
皇曾孫劉病已が産まれて数カ月後に巫蠱事件が起きました武帝征和二年91年)
衛太子の三男一女(三人の息子と一人の娘。史皇孫劉進を含みます)および諸妻妾(史良娣と劉進の妻王夫人を含みます)が害に遭い、皇曾孫だけは生き残りましたが、逮捕されて郡邸獄に繋がれました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡邸獄とは天下郡国から上計(財政や戸籍の状況等を朝廷に報告すること)に来た者を裁く獄で、大鴻臚に属します。巫蠱事件で逮捕された者が多かったため、皇曾孫は郡邸獄に入れられたようです。
 
元廷尉監で魯国の人丙吉は詔を受けて巫蠱の獄を調査していました。
丙吉は心中で太子の無罪を知っており、また皇曾孫劉病已の無辜(無罪)を哀れんでいたため、謹厚な復作(官府で労役する軽い刑)の女徒を選んで劉病已を養わせることにしました。渭城の胡組と淮陽の趙徵卿(または「郭徵卿」)に劉病已を交替で乳養(授乳して養うこと)させます。劉病已は閒燥(広く静かで湿気がないこと)な場所に置かれました。
丙吉自身も一日に二回状況を伺いました。
 
巫蠱事件が数年経っても収束しない中、武帝が病を患い、長楊宮と五柞宮を訪ねました。
資治通鑑』胡三省注によると、二宮は厔にあり、どちらも川の名が元になっています。
 
望気の者(気を観測する者)が「長安の獄中に天子の気があります」と言ったため、武帝は使者を分派し、中都官(京師の官)が詔獄(皇帝が管理する獄)に逮捕した者を全て記録させ、刑の軽重を問わず皆殺しにしようとしました。
 
内謁者令(『資治通鑑』胡三省注によると、謁者令は少府に属し、秩は千石です)郭穰が夜のうちに郡邸獄に来ましたが、丙吉は門を閉じて使者(郭穰)を中に入れず、こう言いました「皇曾孫がいる。他人でも無辜(無罪)で死ぬのは許されないのだから(普通の人でも無罪なのに死刑にするのは許されないのだから)、親曾孫(皇帝の実の曾孫)ならなおさらだ。」
郭穰は丙吉と夜が明けるまで対峙し、結局中に入れませんでした。
郭穰は還って武帝に報告し、丙吉を弾劾しました。
しかし武帝は過ちを悟って「天がそうさせたのだ」と言い、天下に大赦しました。
こうして郡邸獄に繋がれた者だけは丙吉のおかげで生き延びることができました。
 
暫くして丙吉が守丞誰如に言いました「皇孫が官(郡邸獄)にいるべきではない。」
資治通鑑』胡三省注によると、「守丞」は「郡守丞(郡丞)」を指し、京師に来て郡邸獄を管理していたという説と、郡丞ではなく「守獄官(獄を守る官)の丞」を指すという説があります。
「誰如」は「誰」が姓、「如」が名という説と、「譙如」が正しく、人の名で姓は不明という説があります。
 
丙吉は誰如を派遣して京兆尹に書を届け、劉病已と胡組を京兆尹に送ろうとしました。しかし京兆尹は拒否して郡邸獄に還らせます。
 
後に胡組の刑期が終わって去ることになりましたが、劉病已が思慕したため、丙吉は私銭(自分の金)で胡組を雇って留め、郭徵卿と一緒に引き続き劉病已を養わせました。
数カ月が経ってから胡組を獄から去らせます。
 
更に後に少内(『資治通鑑』胡三省注によると、掖庭の府藏を管理する官)の嗇夫(小吏)が丙吉に言いました「皇孫を食べさせるための詔令がありません。」
丙吉は俸禄として米や肉を得ていたため、毎月、劉病已に提供しました。
劉病已が病にかかったことがあり、しばしば命を落としそうになりましたが、丙吉は何度も劉病已を保養している乳母に命じて医薬を与えさせました。
丙吉は個人的に衣食を与えて世話をし、深い恩惠を施します。
 
やがて大赦がありました。
丙吉は史良娣の母貞君と兄史恭が生きていると聞き、劉病已を車に載せて貞君と史恭に託しました。
貞君は年老いていましたが、孤児となった孫を見てとても哀れみ、自ら養育しました。
 
暫くして武帝が詔を発し、掖庭に劉病已を養育させました。宗正に籍が置かれます。
資治通鑑』胡三省注によると、掖庭は宮人の官で、令丞がいて宦者が担当しました。
 
当時の掖庭令は張賀で、かつて衛太子に仕えていたため、旧恩を想って曾孫(劉病已)を憐れみ、とても慎重に養いました。私銭によって必要な者を供給し、書を教えます。
漢書張湯伝(巻五十九)』によると、張賀は張安世の兄で、衛太子に寵信されていました。太子が敗れた時、賓客が全て誅殺されましたが、張安世が張賀のために上書したため蚕室に下され(蚕室は宮刑を受けた囚人が入ります)、後に掖庭令になりました。
 
劉病已が成長すると、張賀は孫娘を嫁がせようとしました。
当時は昭帝が冠礼を行ったばかりで身長が八尺二寸もありました。
張賀の弟張安世は右将軍として輔政していました。張賀が皇曾孫を褒め称えて孫娘を嫁がせようとしていると聞き、怒ってこう言いました「曾孫は衛太子の後代です。幸いにも庶人として衣食を県官(朝廷)から得ているだけで充分です。どうしてまた孫娘を与えようなどと言うのですか。」
張賀はあきらめました。
 
この時、暴室の嗇夫(小吏)許広漢(宦官)にも娘がいました。
資治通鑑』胡三省注によると、暴室は掖庭令に属し、織物や染物をする官署です。職務が煩雑なためしばしば宮中の罪人が配置されました。
許広漢は法に坐して宦者になり、嗇夫として働いていました。許氏は高陽(顓頊)の子孫で元は姜姓です。炎帝の後代、太嶽の後裔に当たります。後に許国に封じられて国名を氏にしました。
 
ある日、張賀が酒宴を開いて許広漢を招きました。
酒がまわってから張賀が言いました「曾孫の身は近いので(曾孫劉病已と陛下の関係は近いので)、下でも(位が低くても)関内侯にはなれる。妻を取らせるべきだ。」
許広漢は同意しました。
翌日、嫗(母の意味。娘の母(許広漢の妻)か許広漢の母かははっきりしません。恐らく娘の母です)がそれを聞いて怒りましたが、張賀は許広漢の上司なのでどうしようもありません。
許広漢は介(媒。媒酌人)を選んで娘を劉病已に嫁がせ、張賀が家財を使って聘礼にしました。
 
劉病已は許広漢兄弟と祖母の家史氏に頼って成長し、また、東海の澓中翁(『資治通鑑』胡三省注によると、澓は姓で中翁は字)から『詩』を学びました。
劉病已は高材(能力があること)好学でしたが、游俠の事や闘鶏走狗(「走狗」は『資治通鑑』の記述で、犬の競争です。『漢書帝紀』では「走馬」です)も好みました。そこから閭里の姦邪や吏治の得失について詳しく知るようになります。
しばしば諸陵を上り下りし、三輔(近畿)を遍く周遊しました。
かつて蓮勺県の鹵中(塩池)で困窮(原文は「困」です。『資治通鑑』胡三省注は「人から困辱された(追いつめられ辱しめられた)」と解説しています)したこともありました。
劉病已は特に杜県と鄠県の一帯が好きで、よく下杜に住みました。
朝請(宗室の朝会。春の朝見を「朝」、秋の朝見を「請」といいます)の時は長安の尚冠里(地名)に住みました。
 
劉病已は全身から足の下まで毛が生えていました。寝ている時はしばしば光彩を放っています。
いつも餅(小麦をねって焼いた物)を買いに行くと、その買家(店)は必ず繁盛したため、自分でも不思議に思いました。
 
 
 
次回に続きます。

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