西漢時代187 宣帝(十一) 路温舒の上書 前67年(3)

今回も西漢宣帝地節三年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
武帝の時代は徵発が頻繁に行われたため百姓が貧困になり、窮民が法を犯して姦軌(違法。犯罪)が数え切れないほどになりました。
そこで武帝は張湯や趙禹といった酷吏に法令を細かく制定させ、犯罪を知りながら故意に逃がした者を罰し、罪を犯した官吏の監督部門の長(監臨部主)連座するという法(原文「見知故縦、監臨部主之法」。後半は「長官が罪を犯したら部下も連座する」という意味かもしれません。「見知故縦之法」と「監臨部主之法」という二つの法を指すのか、「見知故縦、監臨部主之法」で一つの法なのかもよく分かりません)を作りました。
官吏が刑罰を過度に厳酷にしたり故意に人を罪に陥れても軽い処罰で済まされましたが、罪人を逃がしたり赦したら厳しく罰せられました。
そのため姦猾(狡猾)な官吏は巧妙に法を操り、敢えて苛酷な法を用いた前例を引用して案件を処理しました(転相比況)。その結果、禁罔(禁令法令)がますます厳密になり、律令が煩雑苛酷になります。文書が几閣(書棚)を満たし、典者(主管)も全てには目が通せないほどでした。
法令が混乱したため、郡国によって解釈や引用に差ができ、罪が同じでも判決が異なることもありました。
更に姦吏は法を利用して財を為しました(賄賂を得たら刑を軽くしました)。囚人を活かしたい時は活かすことができる法令前例を引用し、罪に陥れたい時には死刑にできるような法令前例を探します。
法について議論する者は皆、このような状況を怨んで悲傷しました。
 
廷尉史を勤める鉅鹿の人路温舒が上書しました「臣が聞くには、斉は無知の禍があって桓公が興隆し(斉襄公が公子無知に殺され、無知も雍廩に殺されたため斉国が大乱に陥りましたが、その機に桓公が即位して斉を興隆させました)、晋は驪姫の難があって文公が伯(覇)を称えました(晋献公が驪姫の讒言を信じて太子申生を殺し、公子重耳と夷吾を国から出しました。献公死後、驪姫の子奚斉が後継者に立てられましたが、里克に殺されました。夷吾が帰国して即位しましたが、晋国の混乱は続きます。文公重耳が帰国してからやっと乱が収まり、文公は諸侯の覇者になりました)。近世においては趙王が終わりを全うできず、諸呂が乱を為しましたが、孝文が太宗になりました呂氏の乱を経て文帝が立ちました)。これらの前例を観ると、禍乱が起きることによって聖人(の道)が開かれます。変乱の後を継いだら必ず異旧の恩(以前とは異なる恩恵)があり、これによって賢聖が天命を明らかにするのです。以前、昭帝が即世(逝去)して後嗣がなく、昌邑(劉賀)は淫乱でした。まさに皇天が至聖(の道)を開こうとしているのです。臣が聞くに、『春秋』は即位を正し、大一統によって始めを慎重にしました(原文「正即位,大一統而慎始也」。『春秋』の教えでは国君の即位を重視し、正統な者が君位を継承しなければ即位を認めませんでした)。陛下は至尊に登ったばかりで、天と合符(符合)しているので、前世の過失を改め、天命を受けて得たばかりの統(正統)を正し(正始受命之統)、煩文(複雑な法令)を削除し、民の疾(苦難)を除くことで天意に応じるべきです。
臣は秦に十失があったと聞いていますが(十失が何を指すかは分かりません。『漢書』に秦の過失について書かれているので下述します)、その一つはまだ存在しています。治獄の吏がそれです。獄とは天下の大命(大事)です。死者は再び生きることができず、(四肢を)絶たれた者は再び繋げることができません。『書尚書大禹謨)』にはこうあります『無罪の者を殺すくらいなら、常から外れるという過失(法から外れるという過失)を犯した方がいい(與其殺不辜,寧失不経)。』しかし今の治獄の吏はそうではありません。上下が互いに駆り立てて刻(苛酷)を明(英明)とし、深者(刑罰が厳しい者)が公名(公正の名)を獲得して、平者(公平な者)の多くが後患を得ています。だから治獄の吏は皆、人が死ぬことを欲するのです。人を憎んでいるのではありません。自安の道(自分を守る道)が人の死の上にあるのです。その結果、死人の血が市に流離(淋漓。滴り流れること)し、被刑の徒が肩を並べて立ち、大辟(死刑)の計(合計)が歳(年)に万を数えています。これは仁聖が心を痛めることであり、太平の世が至らないのは、恐らくここに原因があります。
人の情とは、安んじたら生を楽しみ、痛苦したら死を思うものです。棰楚(鞭や棍棒。刑具)の下で求めて得られないことがあるでしょうか(拷問を加えれば何でも自供します)。囚人は痛苦に勝てない時、辞を飾って(偽りの供述をして)それを示します。吏治の者はそのような状況を利とし、指導して明らかにします(囚人に指示して罪を明らかにさせます。どのような供述をするべきか、明確に指示します)。上奏してから退けられることを畏れるので、鍛練(人を罪に陥れること)したら内容を周到にします。奏当(上奏する罪名)が完成したら、たとえ皋陶(堯舜時代の法官)が聴いたとしても、死罪にしてもまだ余辜(余罪)があると思うでしょう。それはなぜでしょうか。成練(人を罪に陥れること)の者が多く、文(法)を操って作った罪状が明らかだからです。そのため、俗語ではこう言われています『地面に描いた獄でも入らなくてすむように議し、木に彫刻された獄吏でも対面しないように望む(画地為獄議不入。刻木為吏期不対)。』これらは全て吏(官吏獄吏)の風(気風)を憎む悲痛の辞です。よって、陛下が法制を省き、刑罰を寛大にすることを願います。そうすれば太平の風が世に興るでしょう。」
宣帝はこの上書を称賛しました。
 
秦の過失に関して、『漢書賈鄒枚路伝(巻五十一)』から引用します。路温舒はこう言いました「秦の時代は文学(経学)を辱め、武勇を好み、仁義の士を賤しめ、治獄の吏を貴び、正言の者を誹謗とみなし、遏過の者(過失を止める者)を妖言とみなしました。そのため盛服先生(衣冠を正した文人が世に用いられず、忠良切言は全て胸に積まれ(表に出ず)、誉諛(阿諛)の声が日々耳を満たすようになりました。虚美が心を惑わして実禍が蔽塞されたのです(実際に存在する禍が隠されたのです)。これが秦が天下を失った理由です。」
 
 
 
次回に続きます。