西漢時代293 哀帝(八) 朱博の死 前5年(3)
秋七月、渭城西北にある原上(高知。山上の平らな部分)の永陵亭一帯を初陵(皇帝陵)にしました。この陵は義陵と呼ばれます。
郡国の民を初陵に移住させるという命令は出さず、人々を安心させました(または「自然に安定させました」「自由に移住させました」。原文「使得自安」)。
哀帝が年号を改めて一月余が経ちましたが、状況は変わらずやはり病床にいました。
また、夏賀良等が妄りに政事を改変しようと欲しましたが、大臣達が争って反対しました。
そこで夏賀良等が上奏しました「大臣は皆、天命を知りません。丞相、御史を退けて、解光、李尋に輔政させるべきです。」
八月、哀帝が詔を発しました「待詔・夏賀良等が、改元易号して漏刻を増やせば国家を永安にできると建言した。朕は道を信じても厚くなかったため(天道への信奉が厚くなかったため。原文「信道不篤」)、誤って賀良等の言を聴き、海内の百姓のために福を獲ようと望んだが、結局、嘉応(良い反応、結果)は現れなかった。全て経に違えて古に背くことであり、時宜に合わない。過ちを犯して改めないことを本当の過ちという(「夫過而不改,是謂過矣」。『論語』の言葉です)。よって六月甲子(初九日)の詔書で赦令以外の内容は全て蠲除(削除)する。賀良等は道に背いて衆を惑わしたので有司に下す。姦態(奸悪な状況)を窮竟(追及)するべきである。」
夏賀良等は全て獄に下されて誅に伏しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、これは漢法における「減死徒辺(死罪を減らして辺境に徒刑する)」という判決です。「減死」とは罪が死罪に当たるものの、減刑して命を助けることで、「減死罪一等」は城旦(城壁の修築や警護などの苦役。男囚の刑です)・舂(官府等で米を挽く女囚の刑です)に処されました。
哀帝は病が善くならないため、前世に興された諸神祠およそ七百余個所を全て恢復しました。
これらの祠は匡衡等の進言によって成帝時代までに廃されていました。
趙玄が言いました「事は以前に決しました(既に封国に送り帰されています)。(これ以上罪を追求するのは)相応しくないのではありませんか?」
朱博が言いました「既に孔郷侯と約束してしまった。匹夫でも約束したら互いに死力を得るものだ(死力を尽くすものだ。原文「匹夫相要尚相得死」)。(相手が)至尊(傅太后)ならなおさらだろう。博(私)には死があるだけだ(太后のために死力を尽くすだけだ。原文「博唯有死耳」)。」
趙玄も同意しました。
胡三省はこう書いています「大臣とは道によって君に仕えるものだ。しかし朱博は死によって私属(個人的な願い)に奉じた。貪権藉勢(権力を貪って威勢を借りること)の心がそうさせたのである。」
朱博は傅喜だけを排斥する上奏は避けて、元大司空・氾郷侯・何武も状況が似ているので、併せて弾劾することにしました(傅喜だけを弾劾するのは不自然だからです)。何武も成帝綏和二年(前7年)に封国に帰されています。
朱博と趙玄が言いました「傅喜と何武は以前、位(高位)にいましたが、どちらも政治において益がありませんでした。既に退免されましたが、爵土の封があるのは相応しくありません。二人とも(爵位を)免じて庶人にすることを請います。」
『資治通鑑』胡三省注によると、丞相と御史が共に上奏したのに、趙玄だけを召して審問したのは、朱博は強毅なうえ権詐(権謀詐術)が多く、すぐに実情を得るのが難しいと判断したのに対し、趙玄は容易に窮詰(追及)できると考えたからです。
彭宣等は朱博等を弾劾する上奏をしました「朱博、趙玄、傅晏は皆、不道不敬です。彼等を召して廷尉の詔獄に赴かせることを請います。」
傅晏は封戸の四分の一を削られます。
朱博は自殺し、封国(陽郷侯国)が除かれました。
冬十月甲寅(初一日)、平当が丞相になりました。
冬月だったため、とりあえず関内侯の爵位を与えました。
この年、策書によって左将軍・淮陽の人・彭宣を罷免し、関内侯として家に帰らせました。
代わりに光禄勳・丁望を左将軍に任命します。
『漢書・雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』に策書の内容が書かれています「有司(官員)がしばしば上奏してこう言った『諸侯国の人は宿衛(皇宮の警衛)になってはならず、将軍は兵馬を掌握して大位に就くべきではない。』朕は将軍(彭宣)が漢将の重(重任)を負い、(彭宣の)子も以前、淮陽王の娘を娶っており、婚姻(関係)が絶たれていないので、(諸侯王の親族が京師の重職に就くのは)国の制ではないことを考慮した。よって、光禄大夫・曼を送って将軍に黄金五十斤、安車(座って乗る小車)・駟馬(四頭の馬)を下賜するから、(将軍は)左将軍の印綬を返上し、関内侯として家に帰れ。」
単于はこれを受け入れてから漢に状況を報告しました。
次回に続きます。