春秋時代38 東周恵王(十七) 首止の会盟 前655年(1)

今回は東周恵王二十二年です。二回に分けます。
 
恵王二十二年
丙寅 前655
 
[] 春正月辛亥朔、冬至(日南至)と重なりました。
僖公が太廟で朔(毎月初一日、宗廟に報告する儀式)を行い、宮門前の観台で雲物(雲や風、気、日、月、星)を観察しました。
 
[] 『春秋』は本年春に「晋侯が世子・申生を殺した」と書いています。しかしこの事件は前年末に書きました。
晋の事件が魯に報告されたのが本年春だったため、ここに記述されたという説と、晋は夏暦を使っており、夏暦の冬十二月は周暦の春二月にあたるため、周暦を使う魯の史書『春秋』とでは差が生まれたという説があります。
 
史記・秦本紀』もこの年に「晋で驪姫が乱を起こし、太子・申生が新城で死に、重耳と夷吾が出奔した」と書いています。恐らく『春秋』の記述を元にしています。但し『史記・晋世家』『史記・十二諸侯年表』は太子・申生の自殺を前年のこととしています。
 
晋献公が魯に使者を送って太子・申生を自殺させた理由を釈明しました。
 
[] 以前、晋献公が士蔿を派遣して二公子(重耳、夷吾)のために蒲と屈の城を造らせました。しかし士蔿は注意不足のため過ちを犯します。『春秋左氏伝』は「寘薪焉」と書いています。「薪を置いた」と読み、「城壁の工事に使うべきではない薪を使った」という意味にとれると思いますが、詳細はわかりません。
怒った夷吾が士蔿を訴えたため、献公は使者を送って士蔿を譴責しました。士蔿は献公に謁見し、稽首して言いました「喪事もないのに憂いたら、憂いは本当になり、兵事がないのに城を築いたら、敵がそれを守りにする(無喪而慼,憂必讎焉。無戎而城,讎必保焉)」といいます。敵(夷吾。驪姫にとって邪魔な存在です)のために城を築くのに、注意を払う必要はありません。官を与えられて命に背くのは不敬なので命令に従い城を築きましたが、敵のために守りを作るのは不忠です。忠と敬を失ってどうして国君に仕えることができるでしょうか。『詩』にはこうあります『徳を抱けば安寧になり、宗室の子弟がいれば城となる(『詩経・大雅・板』「懐徳惟寧,宗子惟城」)。』主君が徳を修め、宗子(宗室の子弟)の地位を固めることができれば、城など必要ないでしょう。そもそも、三年後には兵を用いることになります。今回の築城を重視する必要はありません。」

以上は『春秋左氏伝僖公五年)』の記述です。『史記・晋世家』にはこう書かれています。
士蔿が二公子のために築城を命じられました。しかし士蔿は工事を開始しません。夷吾がこれを報告したため、献は怒って士蔿を譴責しました。すると士蔿はこう言いました「辺(辺境の城)を侵す(外敵)はほとんどいないのに、城を築いて何の役に立つのですか?
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
士蔿は退席してから賦を詠みました「狐裘(狐の皮で作った外衣)の毛が乱れた。一国に三公が並ぶ。誰に仕えればいいのだろう(狐裘尨茸,一国三公,吾誰適従)。」
 
重耳と夷吾が別れを告げずに逃走したため、献公は二公子が申生と共謀していたと信じました。そこで寺人(宦官)・披(字は伯楚。「勃鞮」ともいいます)に命じて蒲の重耳を襲わせます。
重耳は「君父の命に抵抗してはならない」と言い、「わしが抵抗するのはわしの讎人(敵)だ」と宣言してから逃走しました。披が重耳の服の袖を切りましたが、重耳は塀を越えて逃げのびます。
 
重耳は柏谷に入ると斉に行くべきか楚に行くべきかを卜わせました。すると狐偃が言いました「卜う必要はありません。斉と楚は遥か遠く、野望が大きい(覇者となって諸侯の朝貢を求めている)ので亡命した公子を憐れまないでしょう。困窮した時に行くべきではありません。道が遠ければたどりつくのが難しく、野望が大きければ離れることが難しくなります。困窮している今、斉や楚に行ったら必ず後悔します。困窮し、しかも後悔するようなら、我々が帰国する時に助けを得ることも難しいでしょう。私が思うには、狄(翟)こそがふさわしい亡命の地です。狄は晋の近くにありますが、交わりがありません。その風俗は遅れており、隣国から嫌われています。近いので行きやすく、晋と交わりがないので隠れることができます。隣国の怨みが多いので、我々も共にそれを憂いて協力することができます。狄で休養して態勢を整え、晋国の様子を観察し、諸侯の動きを監視すれば、必ず成功できます。」
重耳は翟に入りました。
 
重耳に従っているのは狐偃、趙衰、顛頡、魏犨、胥臣、狐毛、賈佗です。
趙衰は趙成子とよばれますが、その父ははっきりしません。公明が共孟と趙夙(献公から耿に封じられました。東周恵王十六年、661年参照)を産み、趙夙が趙衰を産んだという説、公明の子で趙夙の弟とする説、趙夙が共孟を産み、共孟が趙衰を産んだとする説があります(『史記・趙世家』は「共孟趙衰を産んだ。子餘という」と書いていますが、『索隠』には「公明共孟趙夙を産み、成季を産んだ」という説と、「趙趙夙」というを紹介しています)
史記・趙世家』によると、趙衰は晋献諸公子に仕えることを卜いましたが、「莫吉(不吉)」と出ました。改めて公子重耳に仕えることを卜うと「」と出たため、重耳に従いました

魏犨は畢(献公から魏に封じられました。東周恵王十六年、661年参照)の孫で芒季の子です。畢万の子とする説もあります。当時、畢万の子孫が興隆し、国名から魏氏を名乗っていました。魏犨は魏武子とよばれます。魏犨は魏氏を挙げて重耳に仕えました。

史記・晋世家』は「献公が兵を送って屈城の夷吾を攻撃させたが、攻略できなかった」と書いています。『春秋左氏伝』では翌年に屈攻撃が始まります。

[] 杞の伯姫(杞成公の夫人。魯荘公の長女。東周恵王八年、前669年)が自分が産んだ子を魯に入朝させました。
資治通鑑外紀』はこの年に杞の徳公(または「恵公」)が在位十八年で死に、子の成公が継いだとしています。関係があるのかもしれません。
 
[] 夏、魯の公孫茲(公孫戴伯)が牟国に入りました。婚姻のためです。
 
[] 斉侯桓公と魯公釐公)宋公桓公、陳侯(宣公)、衛侯(文公)、鄭伯(文公)、許男(男爵・僖公)、曹伯(昭公)が首止で東周恵王の太子・鄭と会見しました。周王室の安定が目的です。
恵王に嫁いだ恵后(陳の公女。東周恵王元年、前676年参照)には太子・鄭と少子・帯という子ができました。『史記・周本紀』には「太子・鄭の母は早く死に、後に娶った恵后が王子帯を産んだ」とありますが、恐らく誤りです。恵后は少子の帯を寵愛し、恵王も太子・鄭を廃して帯を太子に立てようと考え始めていました。そこで斉桓公は周王室の王位継承権を確定させるため、諸侯を集めて太子・鄭と会見しました。
 
陳の轅宣仲(轅濤塗)は鄭の申侯の裏切り(前年)を怨んでいたため、申侯にこう勧めました「あなたの封邑(虎牢)に城を築くべきです。城が立派なら名声が大きくなり、子孫もその功績を忘れることがありません。私があなたのために申請しましょう。」
こうして轅濤塗は諸侯に協力を求めて申侯のために大きな城を築きました。
その後、轅濤塗が鄭文公に言いました「自分の邑に立派な城を築くのは、謀反の準備のためでしょう。」二年後、申侯は鄭文公に殺されることになります。
 
秋八月、諸侯が首止で盟を結びました。
その直前、東周恵王が周公・宰孔を派遣して鄭文公を招き、こう伝えました「汝を楚に従わせ、また晋にも汝を補佐させよう。そうすれば汝の国も少しは安定するはずだ。」
恵王は太子・鄭を廃そうと思っていたため、斉の会盟に反対でした。そこで鄭を斉から離して会盟に参加していない楚や晋に近づけようとしました。
鄭文公は王命を喜びましたが、斉に逆らうことを恐れ、会盟に参加せず秘かに逃げ帰ることにしました。孔叔が諫めて言いました「国君が軽率な行動を取ってはなりません。軽率な行為は親しい者を失い、親しい者を失ったら必ず禍が訪れます。禍を受けてから盟を請うても、失うものが多くなります。逃げ帰ったら後悔することになります。」
文公は無視して帰国しました。
 
[] 当時、江国、黄国、道国、柏国(または「栢国」)が斉と同盟しており、弦国(姫姓。または隗姓)はこれらの国と婚姻関係を結んでいました。弦子は周辺国との関係に頼って楚に従わず、備えもしませんでした。
そこで、楚の於菟が氏。穀於菟は名)が弦国を滅ぼしました。弦子は黄国に出奔しました。