春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2)

今回は東周恵王二十二年の続きです。
 
[] 晋献公が虢国(西虢。または黄河南にあるので南虢)を攻撃するため、再び虞国に道を借りようとしました(東周恵王十九年、前658年参照)
虞の宮之奇が虞公を諫めて言いました「虢は虞の表(表面。外周)です。虢が滅んだら虞もそれに従うことになるでしょう。晋のために道を開いてはならず、他国の兵を軽視してはなりません。一度でも充分です。二度も貸すことはありません。諺にこうあります『車輔(車輪が重荷に堪えられるようにするため、車輪につける二つの補助木)と車輪は互いに頼り、唇が亡んだら歯が寒くなる(輔車相依,唇亡歯寒)。』これは虞と虢の関係を表しています。」
虞公が言いました「晋は我が国の宗室だ。なぜ我々を害すというのだ。」
宮之奇が答えました「大伯(太伯)、虞仲は大王(古公亶父)の子でしたが、大伯は大王に従わず、周の後継者になりませんでした(太伯と虞仲は弟の季歴に周を継がせるため、南方に出奔しました。周王朝建国前の事です。虞仲は虞国の始祖のようです)。虢仲(西虢の祖)、虢叔(東虢の祖。東虢は鄭に滅ぼされました)は王季(季歴)の子で、文王の卿士を務め、王室に功績を残しました。その記録は盟府に保管されています。晋はこれから虢を滅ぼそうというのに、なぜ虞を惜しむというのですか(晋の始祖である唐叔・虞も西周武王の子なので、虞、虢と同じく王族出身です)。そもそも虞と晋侯の関係は桓・荘(曲沃桓叔・荘伯。晋献公の曽祖父と祖父)よりも親しいというのですか。桓・荘の一族に何の罪があって晋侯に殺されたのですか。誅滅されたのは彼等が晋侯の脅威となったからです。たとえ親族でも尊重される地位に登って晋侯を脅かしたから滅ぼされたのです。他国ならなおさらです。」
虞公が言いました「わしが神を祀る祭品は清く豊かだ。神がわしを必要としている。」
宮之奇が言いました「鬼神は特定の人に親しくなるのではありません。徳がある者の傍にいるのです。だから『周書』には『天にかたよりはない。徳を持つ者だけを助ける(皇天無親,惟徳是輔)』とあり、『祭祀の穀物は香ることがない。明徳だけが香りを放つ(黍稷非馨,明徳惟馨)』とあり、『民が祭物を変えることはできない。徳だけが祭物となる(民不易物,惟徳繄物)』とあるのです。もしも徳がなければ、民が和さず、神も助けに来ません。晋が虞を奪った後、明徳によって芳香のする祭物を捧げても、神は虞のためにそれを吐き棄てるとでもいうのでしょうか。」
虞公は諫言を聞かず、晋の要求に同意しました。
 
退出した宮之奇が自分の子達に言いました「虞はもうすぐ滅ぶ。忠と信を守る者だけが外寇(外国の兵)を国内に留めても害を受けないものだ。自分の愚昧を除いて外に対応することを忠という。自分の身を正して事を行うことを信という。今、我が君は自分には受け入れることができない悪(晋に道を貸して虢を攻めること)を人に施そうとしている。これは愚昧を除くことができない証拠だ。また、賄賂によって親しい国を滅ぼそうとしている。身を正すことができないからだ。国が忠を失ったら立たず、信を失ったら安定できない。忠も信もないのに外寇を国内に入れたら、外寇は我が国の欠点を知り、帰国の際に謀を行うだろう。自ら立国の根本を失っているのに、長く生き延びることはできない。今のうちに去らなければ禍が訪れるだろう。」
宮之奇は一族を連れて西山に出奔し、こう言いました「虞が今年の臘祭(十二月の祭祀)を行うことなない。晋の出兵もこれが最後だ。」
 
八月甲午(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、晋が使っていた夏暦で八月甲午。周暦では十月十七日)、晋献公が上陽(南虢。虢都)を包囲しました。
献公が卜偃に聞きました「成功すると思うか。」
卜偃が答えました「勝てます。」
献公が続けて聞きました「それはいつだ。」
卜偃が答えました「童謠にはこうあります。『丙子の朝、龍尾が辰(朝)に伏す(龍尾星が朝の陽光で見えなくなる)。軍服が武威を振るわせ、虢の旗を奪う。鶉火星は大鳥のようで、天策星(伝説の星)は光がない。鶉火星の下で軍を整え、虢公が出奔する(丙子之晨,龍尾伏辰,均服振振,取虢之旂。鶉之賁賁,天策焞焞,火中成軍,虢公其奔)。』これは九月と十月が交わる時です(晋は夏暦を使っていたので、夏暦の九月と十月が交わる時、つまり十月初一日になります。周暦では十二月初一日です)。丙子旦(丙子の日で初一日)はまさに日が龍尾星の近くにあり、月が天策星の近くにあり、鶉火星が日月の間にある時になります。」
 
[] 九月戊申朔、日食がありました。
 
[] 冬十二月丙子朔、晋が虢を滅ぼしました。虢公・醜は出奔します。『春秋左氏伝(僖公五年)』は「京師(周都・洛邑に奔った」としていますが、『竹書紀年』(古本・今本)は「衛に奔った」と書いています(東周恵王十九年、前658年参照)。『史記・晋世家』は『春秋左氏伝』に従っています。
晋献公は兵を還して虞に駐留し、隙を見つけて虞も滅ぼしました。虞公と大夫・井伯、百里百里傒)が捕虜になります。
虞の滅亡は晋から得た璧玉と名馬の賄賂が招いたものでした(東周恵王十九年、前658年参照)。荀息が璧玉と名馬を献公に返すと、献公は笑って言いました「璧は以前のままだ。しかし馬は歯が延びてしまった(年老いてしまった)。」
晋は周王室が虞に命じていた祭祀(虞境内の山川の祭祀)を継続して行わせ、虞領で得られる税収は周王室に納めることにしました。
 
[十一] 前年、秦穆公(繆公)が晋献公の娘を娶りました。
晋献公は捕虜にした虞公と井伯、百里奚を辱めるため、娘(秦穆公夫人)(侍臣)として秦に送りました。
百里奚は秦から逃走して宛に奔りましたが、そこで楚の鄙人(里人)に捕えられます。
秦穆公は百里奚が賢人だと聞いたため、重財を投じて引き渡しを要求しようとしましたが、楚が返さないことを心配しました。そこで使者を楚に送ってこう伝えました「わが媵臣・百里奚が貴国にいるので、五羖(五頭の黒い牝羊)の皮と交換していただきたい。」
楚は同意して百里奚を秦に返しました。
この時、百里奚は既に七十余歳でした。
 
穆公は百里奚を自由の身にして国事を語ろうとしました。しかし百里奚は辞退して言いました「臣は亡国の臣です。何を問うというのですか。」
穆公が言いました「虞君は子(あなた)を用いなかったから滅んだのだ。子の罪ではない。」
穆公は三日間に渡って百里奚と語り、大喜びして国政を任せることにしました。人々は百里奚を「五羖大夫」と号すようになります。
大任を受けた百里奚はこう言いました「臣の能力は友人の蹇叔に及びません。蹇叔は賢人ですが、世の人はそれを知りません。かつて臣は斉に遊歴して困窮し、(または「銍」。地名)で食を乞いましたが、その時に蹇叔が臣を養ってくれたのです。臣は斉君・無知に仕えようとしましたが、蹇叔が臣を止めたので臣は斉の難から逃れることができました。その後、臣は周に入りました。周の王子頽は牛を好むと聞いたので、臣は牛を養う技術で仕官しようとしました。ところが、王子頽が臣を用いようとした時、蹇叔がまた臣を止めました。そのため臣は周を去り、誅殺から免れることができました。虞君に仕える時も蹇叔は臣を止めました。臣も虞君が臣の意見を用いないと知っていましたが、禄爵の利のために暫く留まりました。臣は蹇叔の言を二度聞き入れて難から逃れ、一度聞かなかったばかりに虞君の難に及んでしまいました。そのおかげで蹇叔の賢を知ることができたのです。」
穆公は蹇叔に幣物を贈って迎え入れ、上大夫に任命しました。
 
以上、百里奚の部分は『史記・秦本紀』を参考にしました。百里奚の登用に関して異なる逸話も残されています。別の場所で紹介します。
 
[十二] 『史記・秦本紀』によると、秋、秦繆公(穆公)が自ら晋を攻撃し、河曲(晋地)で戦いました。しかし穆公は晋献公の娘を娶ったばかりです。なぜ戦闘が起きたのかは分かりません。



次回に続きます。