春秋時代82 東周襄王(四十二) 秦穆公の死 前621年

今回は東周襄王三十二年です。
 
襄王三十二年
621 庚子
 
[] 春、晋襄公が夷(晋の地名)で蒐(狩猟。閲兵。軍事訓練)を行い、二軍を廃しました。五軍から三軍に戻ります。
狐射姑が中軍の将となり、趙盾(趙衰の子)が佐となりました(中軍の将は先且居、佐は趙衰でしたが、二人とも前年死んだため、軍が再編成されました)
 
陽処父が温から晋に帰りました。襄公は改めて董で蒐を行い、中軍を再改編します。陽処父は成季(趙衰。成は諡号、季は字)の推挙によって用いられたため、趙氏と深い関係にありました。そこで趙盾を中軍の将に推して言いました「賢能を用いるのは国の利となります。」
襄公は趙盾を将にしました。中軍の将は正卿として政治を行います。ここから趙宣子(趙盾)の国政が始まります。
趙盾は条例規定を作り、刑罰法令を定め、獄刑訴訟を整理し、逃亡する者を調査監督しました。財物の出し入れには質(契約)を用い、政治の旧弊を除き、秩礼(等級制度)を正し、廃止された官職を恢復し、才能ある者を抜擢していきます。
政令が正されると、大傅(太傅)・陽処父と大師(太師)・賈佗に委ね、晋国内に施行させて常法としました。
 
[] 許が僖公を埋葬しました。
 
[] 陳と衛の関係がよかったため、魯の臧文仲は陳と友好関係を結ぼうとしました。
夏、季文子(季孫行父。行父が名)が陳を聘問し、妻を娶りました。
 
[] 秦穆公が在位三十九年で死にました。
穆公は雍に埋葬され、百七十七人が殉葬されます。秦の大夫で良臣として名を知られていた三人、奄息・仲行・鍼虎も殺されました。秦人は三人の死を悲しみ、『黄鳥詩経・秦風)』の詩を作りました。
世の君子(知識人。見識がある者)が言いました「秦繆公(穆公)は領土を拡大し、東は強晋を服し、西は戎夷に覇を称えた。しかし諸侯(中原)の盟主になれなかったのも当然だ。死んで民を捨て、良臣に殉死させたのだから。古の聖王は死んでも遺徳を施して子孫の模範になり、百姓が哀れみ惜しむような善人や良臣を奪うことはなかった。」
君子達は今後、秦に東進の機会がないと判断しました。
果たして、春秋時代を通して秦は中原に覇を称えることができませんでした。
 
穆公には四十人の子がいました。
太子・罃が位を継ぎます。これを康公といいます。

秦穆公の大勢の子の中に、弄玉という娘がいたといわれています。『帝王世紀』に簡単な記述があります。
秦穆公の娘は名を弄玉といい、簫の演奏が得意でした。
ある日、蕭史と共に楼に登って簫を吹き、鳳凰の音(声)を奏でました。すると鳳凰が感応して天から降りてきました。後に二人はそろって天に昇りました。
 
漢代の劉向が編纂した『列仙伝』にも弄玉について書かれています。以下、『列仙伝上巻蕭史』からです。
蕭史は秦穆公の時代の人で、簫を得意としました。蕭史が簫を奏でると孔雀や白鶴が庭に舞い降りたといいます。
秦穆公には娘がおり、字を弄玉といいました。弄玉が蕭史を気に入ったため、穆公は蕭史に弄玉を娶らせました。
蕭史は日々、弄玉に鳳鳴を教えました。
数年後、弄玉が吹く簫の音色が鳳の声のようになりました。それを聞いた鳳凰が屋根にとまります。
そこで穆公は鳳台を築きました。蕭史と弄玉の夫婦は鳳台に住み、何年も台から降りませんでした。
ある日の朝、二人は鳳凰に乗って飛び去りました。
秦人は雍宮に鳳女祠を建てました。その後もしばしば簫の音色が聞こえてきたといいます。
 
明清時代に書かれた小説『東周列国志』はこれらの話に肉付けしています。
第四十七回 弄玉が簫を吹いて二人で鳳に跨り、趙盾が秦に背いて霊公を立てる(弄玉吹簫双跨鳳 趙盾背秦立霊公)」に弄玉について書かれています(『東周列国志』は別途簡訳しています)
[] 秋、魯の季文子が聘問のため晋に向かいました。
晋に入る前に季文子は使者を魯に送り、万一葬儀に遭遇した時にどうすればいいかを確認しました。
従者が言いました「葬礼の知識を求めて何の意味があるのですか?」
季文子が答えました「不虞(不測の事態)に備えるのは古の善教(教え)だ。突然求めても得ることができなかったら本当の苦難に陥る。あらかじめ求めても害はない。」
 
[] 八月乙亥(十四日)、晋襄公が在位七年で死にました。
 
太子・夷皋はまだ乳児だったため、晋人は年長者を国君に立てようとしました。
趙孟(趙盾。趙衰を継いで晋の国政を行っていますが言いました「公子・雍(文公の子。襄公の庶弟)は善を好み年も上で、先君(文公)にも愛されていた。また、彼は秦に近い存在であり(この時、秦にいます)、秦は旧好の国でもある。善良な者を置けば地位が固まり、年長者を選ぶのは順(秩序)であり、先君に愛された者を立てるのは孝であり、旧好と結べば国が安定するという。国難にあたっては年長者を立てるべきだ。この四徳をもった公子・雍なら難を抑えることができるだろう。」
賈季(狐射姑。賈は食邑、季は字)が言いました「公子・楽を立てるべきではありませんか。辰嬴(公子・圉と文公に嫁いだ懐嬴。辰は恐らく字。公子・楽の母)は二君(懐公と文公)に愛されました。その子を立てれば必ず民を安定させることができます。」
趙孟が言いました「辰嬴は地位が低く、九位だった(文公の後宮での順次です)。その子には国君としての威信がない。また、二君に愛されたというのは淫だ。先君の子でありながら、大国ではなく小国に住むのは(公子・楽は陳にいます)(陋。劣る)だ。母が淫で子が辟では威厳がない。陳は小さく遠いので我が国の援けにもならない。どうして国を安定させることができるだろうか。杜祁(公子・雍の母。祁姓の国・杜の出身)は主君(襄公)のために偪姞(姞姓・偪国の女性。襄公の実母)に地位を譲り、狄のために季隗(文公の妻。狄出身)の下に立った。だから四位になったのだ(公子・雍の母は本来二位になる人格者だったが、襄公の母・偪姞と狄から嫁いだ季隗に譲って四位になったという意味です。一位は秦から嫁いだ女性で文嬴といいますが、詳細は不明です。文嬴は懐嬴と同一人物という説もありますが、懐嬴は九位とされているので序列が合いません)。先君は杜祁の子を愛したから秦に仕えさせ、公子・雍は秦で亜卿になった。秦は大きくて近いから我が国の援けにもなる。母に義があり子も愛されていたのだから、民に対しての威信もある。公子・雍を立てるべきだ。」
趙盾は公子・雍を迎え入れるために先蔑と士会(随会。随は食邑の名)を秦に送りました。
賈季も人を送って陳から公子・楽を迎え入れようとします。しかし趙盾が人を送って郫(晋邑)で公子・楽を殺してしまいました。
 
[] 晋の狐射姑は中軍の将に任命されましたが、陽処父によって趙盾と換えられたことを怨んでいました。また、晋国内では賈季を支持しようとする者もいません。
九月、狐射姑は続鞫居(狐鞫居。狐射姑の一族)を使って陽処父を殺しました。
 
[] 冬十月、魯の公子・遂が晋に入り、襄公の葬儀に参加しました。
襄公が埋葬されました。
 
[] 十一月丙寅(楊伯峻『春秋左伝注』によると、この年の十一月には丙寅がないので誤りのようです)、晋が続簡伯(狐鞫居)を殺しました。
狐射姑は狄に奔ります。
趙宣子(趙盾)は臾駢に命じて狐射姑の妻子や財産を狄に送り届けさせました。
 
夷で蒐を行った時(本年春)、狐射姑が臾駢を辱めました。そのため臾駢に従っている者達は報復のため賈氏(狐射姑の一族)を殺すように勧めました。
しかし臾駢はこう言いました「それはならない。『前志(詳細不明)』には『人に恵んでも人を怨んでも、その後嗣には関係がない。これが忠の道である(敵恵敵怨,不在後嗣,忠之道也)』と書かれている。夫子(趙盾)が賈季に礼を施そうとしているだから、わしが夫子の寵を利用して私怨に報いるのは間違いだ。人の寵を利用して報復するのは非勇だ。自分の怨みを減らすため逆に仇を増やすのは非知だ。私情によって公事を害すのは非忠だ。勇・知・忠の三者を棄てたら、今後、夫子に仕えることができなくなる。」
臾駢は狐射姑の家族や財産を守って国境まで運びました。
 
[] この年は閏月がありましたが、魯文公は告朔の儀式を行わず、太廟を祀りました。これは非礼といわれました。
「告朔」とは毎月初一日、神に朔日を報告する儀式です。「告朔」の後、国君は群臣から一カ月の政事を聴きました。これを「聴朔」といいます。「告朔」も「聴朔」も太廟で行い、二つの儀式が終わってから廟を祭るのが正しい礼とされていました。