春秋時代165 東周霊王(二十八) 斉荘公の死 前548年(1)

今回は東周霊王二十四年です。三回に分けます。
 
霊王二十四年
548年 癸丑
 
[] 春、斉の崔杼(崔武子)が魯の北境を攻めました。前年、魯の仲孫羯(孟孝伯)が斉を攻めたためです。
魯襄公は斉を恐れて晋に報告しました。
魯の大夫・孟公綽が言いました「崔子(崔杼)は大志を持っているから、我が国を相手にせず、すぐ還るはずだ。恐れることはない。彼は今回、略奪をせず、民にも厳しくない(民心を得ようとしているからです)。以前の戦い方と異なる。」
崔杼は暫くすると得る物もなく引き返しました。
 
[] 斉の棠公(棠邑大夫)の妻・棠姜は東郭偃の姉でした。東郭偃は崔杼の家臣です。
棠公が死んだ時(具体的にいつの事かは分かりません。本年のことではありません)、東郭偃が崔杼の車を御して弔問に行きました。そこで崔杼は棠姜(東郭偃の姉)の美貌を知ります。
崔杼は帰ってから東郭偃を派遣して棠姜を娶ろうとしました。しかし東郭偃はこう言いました「男女は姓を別けなければなりません(同姓は結婚できません)。あなたは丁公の子孫で、臣は桓公の子孫なので(どちらも姜姓です)、婚姻はできません。」
そこで崔杼は筮を使って占わせると、「困」が「大過」に変わると出ました。「困」は「坎下兌上」の卦で、「大過」は「巽下兌上」の卦です。「坎」は中男(壮年の男)を象徴し、兌は少女若い女性)を象徴するため、太史達は「坎下兌上」の卦を見て、「壮年の男と若い女性の婚姻なら健全なので吉」と判断しました。
崔杼は陳無須(陳文子)にも見せました。陳無須はこう言いました「夫(中男。坎)が風(「巽」の卦は風を象徴します)に従い(「夫従風」。坎がある「困」の卦が「巽」がある「大過」の卦に変わったので、「夫が風に従う」という意味になります)、その風が妻を落とす(「風隕妻」。「大過」の卦は「巽下兌上」、つまり風である巽の上に少女である兌がいます。少女は妻となる人なので、妻は風の上におり、いずれ落とされることになります)という意味です。(不吉なので)娶ってはなりません。そもそもこの卦の繇辞は『石に困惑し、蒺棃(棘を持つ植物の名)に拠り、その宮に入って妻に会えない。凶(困于石,據于蒺棃,入于其宮,不見其妻,凶)』とされています。石に困惑するというのは前に進めないという意味です。蒺棃がある場所にいれば必ず自分を傷つけます。宮に入って妻に会えず凶というのは、帰る場所がなくなるということです。」
しかし崔杼はこう言いました「彼女は嫠寡婦に過ぎない。何を恐れるのだ。凶兆は先夫の身に起きたのであろう。」
崔杼は棠姜を娶りました。
 
ところが、斉荘公が棠姜と私通しました。荘公はしばしば崔氏の家を訪れるようになります。荘公が勝手に崔杼の冠を持ちだして、他の者に下賜したこともありました。侍者が諫めましたが、荘公はこう言いました「崔子の冠を使わなければ、他の冠はないというのか(不為崔子,其無冠乎)?」
少し難しい言い回しですが、崔杼の冠を使わなくても他にも冠はある、という意味で、崔杼の冠も他の冠も同じだから気にすることはない、ということになります。この一件から、崔杼の家に出入りして棠姜と姦通していた荘公は、崔杼の私物にも手を出して平然としていたことがわかります。
崔杼は荘公を憎みました。二年前に荘公が晋を攻撃した時には、「晋は必ず報復に来る」と言い、荘公を殺して晋の歓心を買うという手段を考えるようにもなりました。
 
荘公は侍人(宦官)・賈挙を鞭打ったことがありましたが、その後も近くに置きました。賈挙も荘公を憎んでいたため、崔杼と交わり、荘公を殺す機会を探すようになります。
 
夏五月(ここから本年の事です)、且于の役(二年前)によって斉と講和した莒子が斉に入朝しました。
甲戌(十六日)、北郭で宴が開かれます。崔杼は病と称して欠席しました。
乙亥(十七日)、荘公は崔杼の見舞いを口実に崔氏の家を訪れました。姜氏(棠姜)に会うためです。姜氏は一度部屋に入ると、崔杼と共に横の戸から外に出ました。
姜氏がいないことを知らない荘公は、部屋の外で柱を軽く叩きながら歌を歌いました。歌で室内の姜氏に命に従うように伝えたようです。
その間に侍人・賈挙は他の従者が屋敷の中に入ることを禁止し、自分だけ門内に入って扉を閉めました。
準備が整うと甲士が現れて荘公を襲います。荘公は楼台に登って命乞いしましたが、甲士達は拒否しました。荘公が改善を約束する盟を望んでも、甲士達は拒否します。荘公が宗廟での自刃を願っても、甲士達はやはり拒否し、こう言いました「国君の臣・杼(崔杼)は疾病のため、あなたの命を聞くことができない。ここは公宮に近いので、陪臣(崔杼の臣。甲士達)は淫者を取り締まるように命じられている。それ以外の命は知らない。」
荘公が壁を乗り越えようとすると、甲士が矢を射ました。矢は荘公の股に命中します。荘公は壁の内側に落ちて殺されました。在位年数は六年になります。
賈挙(崔杼に協力した賈挙とは別人)、州綽、邴師、公孫敖、封具、鐸父、襄伊、僂堙も殺されました。八人とも勇力の士で、荘公に気に入られていました。
 
祝佗父は高唐にある斉の別廟で祭祀を行い、復命したところでしたが、弁(祭服の冠)を脱ぐ前に崔氏の屋敷で殺されました。
 
侍漁(漁業を管理する者)の申蒯は家に帰ると宰(家臣の長)に言いました「汝は私の妻子を守って逃げろ。私はここで死ぬ。」
しかし宰はこう言いました「私が逃げたら、子(あなた)の義に反することになります(主人が義によって国君のために死ぬのに、その家臣が逃げたら、家臣が主人の義に背くことになります)。」
二人とも自殺しました。
 
申蒯に関しては『太平御覧』にも記述があります。
『人事部七十九(巻四百三十八)』からです。
崔杼が荘公を殺した時、申蒯は海で漁をしていました。乱を知って国都に戻ろうとすると、御者が言いました「国君の無道は天下が知っています。死ぬ必要はありません。」
申蒯が言いました「汝はなぜもっと早くわしに忠告しなかったのだ。わしは乱君の食(俸禄)を得てきた。死ぬ時は治君(名君)に仕えよというのか。汝は努力せよ。汝まで死ぬことはない。」
しかし御者はこう言いました「あなたには乱主がおり、それに仕えて死ぬのです。私には治長(優れた主)がいるのに、生き永らえることはできません。」
申蒯は門に到着すると「国君の死を聞いた。中に入れよ」と言いました。
門衛が崔杼に報告します。崔杼が「入れるな」と命じたため、申蒯はこう言いました「汝はわしを疑うのか。汝にわしの臂(腕)をやろう。」
申蒯は崔杼を襲うつもりがない姿を見せるため、自分の腕を切って門衛に与えました。門衛が崔杼にそれを見せると、崔杼は八列の陣を敷いてから「中に入れろ」と命じました。
門を入った申蒯は剣を抜くと天に向かって叫び、三踊(何回も跳びはねること。悲痛が極まった感情を表す動作です)してから七列の士を殺しました。しかし崔杼に達することなく、最後の一列と戦って殺されました。
御者も門外で殺されました。
 
『人事部十(巻三百六十九)』と『人事部五十八(巻四百十七)』にもほぼ同じ記述があります。
『太平御覧』によると、三つとも出典は『新序』となっていますが、現在の『新序』にこれらの故事は収録されていません。
 
『韓詩外伝(第八巻)』には荊蒯芮(『資治通鑑外紀』では「蒯聵」)という人物が紹介されています(『説苑・立節』にも同じ故事が書かれています)。上述の申蒯と同一人物かもしれません。
崔杼が荘公を殺した時、使者として晋に派遣された荊蒯芮はすぐ引き返しました。僕人が言いました「崔杼が荘公を殺しましたが、あなたはどうするつもりですか。」
蒯芮が「急いで帰れ。国都に入り、死んで主君に報いるつもりだ。」
僕人が言いました「国君の無道は四鄰の諸侯も皆知っています。夫子(彼)のために死ぬのは、相応しくないのではありませんか。」
蒯芮が言いました「汝がそれを早く言っていれば、わしは国君を諫めることができた。諫言を用いられなかったら、わしは去ることができた。しかし今まで諫めることも去ることもしなかった。主君の食を食べたら(俸禄を受け取ったら)、その主君に仕えて死ぬという(食其食,死其事)。わしは乱君の食を食べてきた。治君に仕えて死ぬことはできない。」
蒯芮は車を駆けさせて帰国すると、荘公に殉じて死にました。
僕人が言いました「人に乱君がおり、たとえ乱君であってもそのために死んだ。私には治長(優れた主)がいた。死なないわけにはいかない。」
僕人は車の上で自刎しました。
 
『新序・義勇』には陳不占という人物も登場します。『太平御覧・人事部五十九(巻四百十八)』にもほぼ同じ話があります。
崔杼が荘公を殺した時、陳不占が国君の難を聞いて駆けつけようとしました。しかし出発する前に食事をしようとしましたが、匕(さじ)を持てません。車に乗ろうとしても軾(車の前にある横木)をつかむことができません。御者が言いました「このように怯えていて、役に立つのですか。」
陳不占が言いました「国君のために死ぬのは義だ。勇がないのは私(個人の事)だ。私によって公(公の事。義)を害してはならない。」
陳不占は車を走らせましたが、戦闘の声や音を聞くと、恐怖のため死んでしまいました。
人々は「陳不占の勇は仁者の勇だ」と噂しました。
 
[] 異変を知った晏嬰が崔氏の門外に来ました。従者が晏嬰に聞きました「(国君を追って)死ぬつもりですか?」
晏嬰が言いました「私の死(命)は、我が君一人だけのためにあるのではない(独吾君也乎哉,吾死也)。」
従者が問いました「それでは去るつもりですか?」
晏嬰が言いました「私に罪があるというのか。私が亡命しなければならないのか(吾罪也乎哉,吾亡也)。」
従者が問いました「それでは帰りますか?」
晏嬰が言いました「国君が死んだのに、どこに帰るのだ。民の君となる者は、民を虐げてはならず、社稷を主持しなければならない。国君の臣となる者は、俸禄のためにいるのではなく、社稷を守らなければならない。だから国君が社稷のために死んだら、臣下も共に死に、国君が社稷のために亡命したら、臣下も共に亡命するのだ。逆にもしも国君が自分のために死んだり亡命したのなら、国君の私暱(寵臣)でなければ、敢えてその責任を負う者はいないだろう。そもそも、国君は人(崔杼)によって立てられ(東周霊王十八年・前 554年参照)、その人に弑された。私が死んだり亡命する必要はない。しかしこのまま帰ることもできない。」
晏児は門を開いて入ると、荘公の死体を膝の上に置いて号哭し、立ち上がってから三踊して去りました。
崔杼の部下が「晏子を殺すべきです」と言いましたが、崔杼は「かれは民の望(人望)を得ている。生きて帰らせれば民を得ることができる」と言って自由にさせました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代166 東周霊王(二十九) 崔杼専権 前548年(2)