東漢時代241 桓帝(十九) 五侯 159年(3)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
桓帝が詔を発して梁冀誅殺の功を賞しました「梁冀は姦暴で王室を濁乱させた。孝質皇帝は聡敏早茂(「早茂」は幼い頃から能力が突出していることです)だったが、梁冀が心中に忌畏を抱き、秘かに行動して毒で殺した(私行殺毒)。永楽太后(『孝桓帝紀』の注によると皇太后は永楽宮に住んだので「永楽太后」と呼びました。ここでは桓帝の母匽氏を指します。匽氏は桓帝元嘉二年152年に死にました)はまたとなく親近尊敬する関係であったのに(親尊莫二)、梁冀が遏絶(隔絶)して京師に帰ることを禁じ、朕を母子の愛から離れさせ、顧復の恩(父母による養育の恩。「顧復」は繰り返し顧みるという意味です)から隔てさせた(『孝桓帝紀』の注によると、太后は常に博園桓帝の父劉翼の陵園)におり、雒陽には住めませんでした)(梁冀の)禍害は深大であり、罪悪が日々増大した(罪釁日滋)。しかし宗廟の霊に頼り、また中常侍単超、徐璜、具瑗、左、唐衡、尚書尹勳等が激憤(憤激)建策したおかげで、内外が協同(協力)し、漏刻の間(わずかな時間)に暴虐を誅滅できた(原文「桀逆梟夷」。「桀逆」は「凶暴叛逆」、「梟夷」は「誅滅」の意味です)。これは誠に社稷の祐(助け)、臣下の力なので、慶賞を頒布して忠勳に報いるべきである(宜班慶賞以酬忠勳)。よってここに単超等五人を封じて県侯とし、尹勳等七人を亭侯にする(実際には郷侯、都郷侯もいます。下述します)。」
 
こうしてまず単超、徐璜、具瑗、左、唐衡が県侯に封じられました。単超は食邑二万戸、徐璜等はそれぞれ一万余戸です。当世の人々はこれを「五侯」といいました。
後漢書宦者列伝(巻七十八)』によると、単超は新豊侯で二万戸、徐璜は武原侯、具瑗は東武陽侯でそれぞれ一万五千戸、左は上蔡侯、唐衡は汝陽侯でそれぞれ一万三千戸です。
 
小黄門史と唐衡はこの時に中常侍になりました。
単超と徐璜は既に中常侍になっています。具瑗は、『後漢書宦者列伝(巻七十八)』では桓帝初年に単超、徐璜と共に中常侍になっていますが、『梁統列伝(巻三十四)』ではこの時はまだ「黄門令」で、『資治通鑑』も「黄門令」としています。後に王甫が黄門令のまま中常侍になるので霊帝建寧元年・168年)具瑗も中常侍と黄門令を兼任していたのかもしれません。
後漢書百官志三』によると、中常侍は秩千石でしたが、後に比二千石になりました。皇帝の左右に仕えます。
黄門令は秩六百石で、省中(宮中)の諸宦者を管理しました。
小黄門史は『資治通鑑』胡三省注が「小黄門の掌書の者(符節や文書を管理する者)」と解説しています。小黄門の秩も六百石です。
 
尚書尹勳等七人も封侯されました。
後漢書桓帝紀』の注によると、尹勳は宜陽都郷侯、霍諝は鄴都亭侯、張敬は山陽西郷侯、欧陽参は脩武仁亭侯、李瑋は宜陽金門侯、虞放は冤句呂都亭侯、周永は下邳高遷郷侯です(『補後漢書年表』では宜陽郷侯尹勳、鄴都亭侯霍諝、西郷侯張敬、仁亭侯欧陽参、金門亭侯李瑋、呂都亭侯虞放、高遷郷侯周永です)
 
[十一] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司農黄瓊を太尉に、光禄大夫中山の人祝恬を司徒に、大鴻臚梁国の人盛允を司空に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、祝恬の字は伯休で盧奴の人です。盛允の字は伯代です
盛氏について『資治通鑑』胡三省注が解説しています。以前、北海太守盛苞の姓が奭でしたが、元帝の諱(実名)を避けて盛に改姓しました(胡三省は『西羌伝』に記述があるとしていますが、『後漢書西羌伝』を探しても見当たりません)。但し戦国時代には秦に盛橋という者がいたので、盛氏は漢代以前にも存在しています。
 
当時は梁冀を誅殺したばかりで、天下が異政(政治改革)を望んでいました。
黄瓊は公位の筆頭に立ってから、州郡で素行が暴汚な者を検挙上奏しました。死徙(死刑や徒刑)に至った者は十余人に及び、海内がそろって称賛します。
 
黄瓊が汝南の人范滂を招聘しました。
范滂は若い頃から清節を磨き、州里の人々に敬服されていました。
 
范滂はかつて清詔使として冀州を案察(調査・視察)しました。
資治通鑑』胡三省注によると、三公府には「清詔員」がおり、詔を受けて使者になりました。これが「清詔使(清詔の使者)」です。当時の冀州は飢饉に襲われて荒廃しており、盗賊も群起していたため、范滂が巡視することになりました。
 
范滂は車に乗って手綱を操り(登車攬轡)、意気軒高として天下を清めようという志を抱いていました(慨然有澄清天下之志)。守令(太守県令)で臧汙(貪汚)の者は皆、范滂が来たと聞くと印綬を解いて去りました。
范滂が検挙上奏した者は全て衆議を満足させました(其所挙奏莫不厭塞衆議)
 
後に桓帝が詔を発して三府(『資治通鑑』は「三戸」としていますが、『後漢書党錮列伝(巻六十七)』では「三府」です。『資治通鑑』の誤りです)の掾属に謠言を挙げさせました。
「謠言」というのは民間で流行っている政治を批判風刺した言葉です。『資治通鑑』胡三省注によると、三公が長吏(県官)の善悪や民が苦としていること等を聞き取り調査して、條奏(箇条書きにして上奏すること)しました。これが「挙謠言(謠言を挙げる)」です。
 
范滂はこの機に刺史二千石や権豪(豪強、豪族。権貴の者)の党二十余人を上奏しました。
范滂が弾劾した者が多すぎるので、尚書が「私的な理由による疑いがある(疑有私故)」と譴責しました。
范滂が答えました「臣が挙げた者が叨穢姦暴(貪婪卑怯で姦悪暴虐)で深く民の害になっていないのなら、どうして簡札(文書を書く木の札)を汚す必要があるのでしょう(原文「豈以汙簡札哉」。二つの解釈ができると思います。一つは「彼等が民の害になっていないのなら、どうして私が敢えて簡札を汚して上奏文を書く必要があるのでしょう」という解釈、もう一つは「彼等が民の害になっていないのなら、どうして彼等が私の上奏文を汚して否定する必要があるのでしょう(罪を犯しているから私の上奏文を恐れて批難するのです)」という解釈です)。最近は会の日(三府の掾属が朝堂に集まる日)が迫促(切迫)していたので、先に急とする者(急いで処罰しなければならない者)を挙げました。まだ明らかになっていない者は改めて考察追及します(其未審者方更参実)。臣が聞くに、農夫が草を除いたら嘉穀が必ず茂ります。忠臣が姦を除いたら、それによって王道が清まります。もしも臣の言に貳(不実。偽り)があったら、甘んじて顕戮(死刑)を受けます。」
尚書は詰問できなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。