春秋時代41 東周襄王(一) 洮の会盟 前652年

今回から東周襄王の時代です。
 
 
襄王
恵王が死んで子の鄭が立ちました。襄王といいます。
 
 
襄王元年
652年 己巳
 
東周恵王は在位二十四年(前年。前653年)閏十二月に死にました。この年(前652年)は襄王元年になります。『春秋左氏伝』『帝王世紀』とも在位二十四年としています。
しかし襄王は内乱を恐れて恵王の喪を発しませんでした。そのため、本年を恵王二十五年とし、翌年(前651年)を襄王元年とすることもあります。『史記・周本紀』『史記・十二諸侯年表』『竹書紀年』(今本)等です。
資治通鑑外紀』は恵王の死を二十四年に書いていますが、襄王が正式に即位していないため、本年を恵王二十五年としています。この一年は王が存在しなかったことになります。
資治通鑑前編』は『史記』に従って恵王が死んだ年を二十五年としていますが、『春秋左氏伝』の内容(恵王は二十四年に死に、翌年、襄王の王位が安定してから喪を発した)も併記しています。
ここでは『春秋左氏伝』に従って本年を襄王元年とします。『史記』等の記述とは一年のずれが生じますが、いちいち説明は入れません。
 
[] 春正月、斉侯桓公と魯公(釐公・僖公)、宋公桓公、衛侯(文公)、許男僖公)、曹伯(共公)および陳世子・款が洮(曹地)で会盟しました。前年、鄭文公が会盟を望んだためです。
併せて周王室の安定について相談しました。
周襄王が正当な周王であることを確認し、恵王の喪を発することが決められました。
 
[] 前年、晋の里克が師を率いて狄(翟。亡命した重耳がいます)を攻撃しました。梁由靡が戦車を御し、虢射が車右を務め、采桑(または「齧桑」)で狄を破ります(前年、東周恵王二十四年、前654年参照)
梁由靡が言いました「狄は恥を知らないので逃げることを屈辱としません。敗れて遁走する敵を追撃すれば大勝できます。」
里克が言いました「狄の侵攻を防ぐことができれば充分だ。敢えて狄の大軍を招くことはない。」
虢射が言いました「期年(一年後)、狄が必ず反撃してくるでしょう。今追撃しないのは我々の弱さを示すことになります。」
 
一年が経ちました。
夏、狄が報復のために晋を攻撃しました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。
『竹書紀年』(今本)は晋献公二十五年(本年)、「春正月、狄人が晋を攻撃した」としています。
資治通鑑外紀』は『竹書紀年』(今本)と『春秋左氏伝』の両説を採り、「春正月、翟が晋を攻撃した」「夏、狄が晋を攻撃した」と書いています。「翟」と「狄」は同じです。
史記・晋本紀』は『春秋左氏伝』と異なり、「晋がを攻め、重耳のために齧桑で晋を攻めた。晋は兵を還した」としています。
 
史記・晋世家』によると、当時、晋の国境は、西は河西に至って秦と接し、北は翟に面し、東は河内に至りました。
 
[] 秋七月、魯が大廟(周公廟)で禘(大祭)を行い、荘公夫人(哀姜)の位牌を宗廟に入れました。哀姜は政変に関係し、東周恵王十八年(前659年)に斉で殺されました。
諸侯の夫人が寝室で死ななかった場合、太廟で夫人として祭祀を行うことは非礼とされていました。
 
[] 冬十二月丁未(十八日)、周王室から魯に使者が来て、天王(周王。恵王)崩御が伝えられました。周王室が安定していなかったため、一年経ってやっと訃報が発せられました。
 
[] 宋桓公が病になりました。太子・茲父(または「茲甫」)が跡を継ぐことを辞退して言いました「目夷は年長で仁があります。彼を国君に立てるべきです。」
目夷は太子の庶兄(妾が産んだ兄。太子は正妻の子です)で、字を子魚といいます。
桓公が目夷に国を継ぐよう命じると、目夷は「国を譲ることができるということほど、大きな仁があるでしょうか。臣は太子に及びません。そもそも、臣が継いだら立君の秩序を乱すことになります」と言って退出しました。
 
[] 『古本竹書紀年』『資治通鑑外紀』は、この年「周陽の市で白兔が舞った」と書いています。『今本竹書紀年』は恵王元年(前676年)のこととしています。

[] 『史記・晋世家』はこの年に晋の姫の妹が悼子を産んだと書いています。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代42 東周襄王(二) 葵丘の会 前651年(1)