春秋時代42 東周襄王(二) 葵丘の会 前651年(1)

今回は東周襄王二年です。四回に分けます。
 
襄王
651 庚午
 
[] 春三月丁丑(十九日)、宋桓公が在位三十一年で死にました。太子・茲父(または「茲甫」)が即位します。これを襄公といいます。
史記・宋微子世家』によると、襄公は庶兄目夷に任命しました。
 
[] 夏、魯釐公僖公)が宰周公(宰孔。周の太宰で周公)、斉侯桓公、宋子(襄公)、衛侯(文公)、鄭伯(文公)、許男僖公)、曹伯(共公)と葵丘で会しました。
 
『春秋』には宋襄公が公爵なのに「宋子」と書かれています。これは年を越えて正式に即位していないためです。諸侯が位を継いだばかりの時は、年を越えるまでは「子」と書き、年を越えて正月に即位の儀式を行ってから爵位が書かれるようになります。尚、『春秋左氏伝僖公九年)』には、「王は喪の間『小童』と称した」とありますが、『春秋左氏伝』の中で実際に「小童」が使われている例はないようです(楊伯峻『春秋左伝注』参考)
 
葵丘に集まった諸侯は過去の盟約を確認し、改めて友好関係を強化しました。
周襄王は宰孔に命じて斉桓公に胙(祭祀で用いる肉)を下賜させました。宰孔が桓公に言いました「天子が文武(文王・武王)の祭祀を行った。その胙を伯舅(異姓の諸侯)に下賜する。」
宗廟の胙は本来、同姓の諸侯に配る物だったため、異姓の斉に下賜したというのは大きな意味をもちます。
桓公が階を降りて拝礼しようとすると、宰孔が言いました「天子はこうおっしゃった。『伯舅桓公は老齢であり、大きな功労も立てたので、一級を賞賜して下拝(階を降りて拝礼すること)を免じる。』」
桓公管仲に意見を求めると、管仲はこう言いました「君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくないことが乱の原因となります。」
桓公は恐れて宰孔に言いました「天威が目前にあるのに、天子の命に甘えるわけにはいきません。下拝しなければ諸侯の中において大きな過ちを犯し、天子を辱めることになります。」
桓公は階を降りて拝礼し、改めて階上に登って胙を受け取りました。
周王室は桓公に大輅(車)とそれを飾る龍旗九旒(九本のふき流しがついた旗)渠門赤旂(赤い大旗。「渠門」は旗の名)を下賜しました。
諸侯は桓公の礼儀を称賛しました。
 
[] 秋七月乙酉(二十九日)、魯の伯姫が死にました。伯姫は公女のはずですが、具体的に誰を指すのかは分かりません。
『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』(どちらも「僖公九年」)によると、伯姫は結婚が決まっていましたが、嫁ぐ前に死んでしまったようです。
 
[] 九月戊辰(十三日)、諸侯が葵丘で盟を結びました。夏は葵丘で会見しただけで、盟を結んではいません。
 
この会盟の様子を『孟子・告子下(第七節)』が書いています。
諸侯は犠牲にする動物を前に盟を結びましたが、犠牲を殺さず、歃血(盟約を結んだ者が犠牲の血を口に含んだり口の近くに塗る儀式)も行いませんでした。
盟文は五回に分けて宣言されます。
一回目「不孝な者を誅滅すること。また、太子を換えてはならず、妾を妻(正妻)にしてはならない。」
二回目「賢人を尊んで人材を育て、徳を表彰すること。」
三回目「老人を敬い幼少を慈しみ、賓客・旅人を大切にすること。」
四回目「士は官を世襲せず、官事(公職)を兼任してはならない(一つの官が複数の職を担当してはならない。または士が大夫の職を行うというように、立場を越えた職を担当してはならない)。士を用いる場合は的確に選考すること。みだりに大夫を殺してはならない。」
五回目「勝手に堤防を築いて川の流れを変えてはならない。穀物の売買を妨害してはならない。封爵されたら報告すること。」
最後に斉桓公が諸侯に宣言しました「わしと同盟した者は、今後、友好を守ることになる。」
 
『春秋穀梁伝僖公九年)』に記述されている盟約の内容は『孟子』と若干異なります。
「泉(水源)を塞いではならない」「食糧を留めてはならない(食糧の流通を妨害してはならない)」「嫡子を換えてはならない」「妾を妻にしてはならない」「婦人を国事に関与させてはならない。」
 
周は諸侯ではないため、宰孔は会盟に参加せず先に帰りました。途中で葵丘にむかう晋献公に会います。献公は病のため出発が遅れたようです。宰孔が献公に言いました。以下、『春秋左氏伝僖公九年
』から宰孔の言葉です「会盟に参加する必要はない。斉侯は徳に務めず遠略(遠征)に励み、山戎に北伐して楚に南伐した。その後、西に向かってこの会を開いた。東略(東方経営)をするかどうかは分からないが、これ以上、西()に向かうことはできないはずだ。逆に貴国(晋)は乱を招いている。君はそれを鎮めるべきだ。会盟に向かうことはない。」
 
『国語・晋語二』の記述は少し異なります。宰孔はこう言いました「会盟に参加する必要はない。斉侯は自分の功績を誇示し、施しを与え武力を用いることに務めているが徳を修めようとしない。諸侯は何も持たずに参加し、厚い礼物を与えられて帰国しているが、これは会盟に参加した者を奨励し、逆らう者を動揺させるためだ。法令盟約によって諸侯を安心させ、儀式を簡略にして諸侯を利したのは、信義を示したいからだ。三回諸侯を集め(三度の「乗車の会」。前657年の陽穀、前655年の首止、本年の葵丘)、滅亡に瀕した三国(衛・邢・魯。魯は政争を鎮めました)を存続させたのは、恩恵を示すためだ。こうして山戎を北伐し、楚を南伐し、西に至って今回の会を開いた。一軒の家に屋根が作られたのに、それ以上高さを加える事は出来ない(斉侯もこれ以上、やるべきことはない)。恩恵をあまねく普及させることは難しく、施しに報いることも難しい。公平に普及することができず報いることもできないようなら、いずれ怨みを生むだろう。斉侯は恩恵を債のように与えて見返りを望んでいるが、このような考えがうまくいくはずがない。彼には晋国を観ている暇もないだろう。今後、会盟が行われるとしても、東方で開かれるはずだ。君が恐れることはない。自国の事に努めよ。」
 
史記・晋世家』に書かれている宰孔の言葉はこうです「斉侯はますます驕慢になり、徳を修めず遠略に励んでいる。諸侯はこれに不満だ。君が行く必要はない。斉侯も晋に対して何もできないはずだ。」
 
それぞれの内容に差がありますが、宰孔は斉が頂点に達して下り坂に入ることを見抜いていたようです。献公は宰孔の言葉を聞いて退き返しました。
 
『国語・晋語二』には献公と別れた後の宰孔の話しも書かれています。宰孔が御者にこう言いました「晋侯はもうすぐ死ぬ。晋は霍山を城とし、汾水・黄河・涑水・澮水を渠(堀)とし、戎・狄の民が周りを囲んでいる。確かにその地は広大だが、道義に背いたら誰も晋を恐れなくなる。今、晋侯は斉の徳が本当に厚いものかどうかを判断することなく、諸侯の形成を観察することもなく、内政を捨てて軽率に会盟に向かおうとした。これは平常な心を失っているからだ。君子が心を失って死なないはずがない。」
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代43 東周襄王(三) 晋献公の死 前651年(2)