春秋時代106 東周定王(十一) 邲の戦い(後) 前597年(3)

今回も邲の戦いの続きです。
 
[(続き)] 乙卯(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の六月は乙卯の日がないので、恐らく秋七月十三日ではないかとしています)、まず魏錡が楚陣に入りました。しかし楚の潘党が魏錡を追い返して熒沢まで追撃します。
そこで魏錡は六頭の麋鹿に遭遇したため、一頭を射殺すると振り返って潘党に献上し、こう言いました「あなたには軍事があって忙しいので、獣人(狩猟の官)が新鮮な獲物を献上することがないでしょう。よって私があなたの従者のためにこれを献上します。」
叔党(潘党)は兵を還らせました。
 
魏錡は既に潘党に追い返されましたが、同日夕方、趙旃が楚陣に接近し、軍門の外に席を設けると部下を営内に入れさせました。
楚荘王の右広は早朝の鶏が鳴く時間になると車に乗って戦闘態勢に入り、日中(正午)になると左広と交代し、日が沈むと左広も戦闘態勢を解きます。荘王が右広にいる時は、許偃が御者になり、養由基(養叔。養は氏で邑名。由基は名、叔は字。弓の名手)が車右を勤めます。荘王が右広にいる時は、彭名が御者を、屈蕩が車右を勤めます。
趙旃が楚陣に接近して部下を営内に派遣すると、左広にいた楚荘王は兵を率いて趙旃を駆逐しました。趙旃は車を棄てて林に逃げます。屈蕩が車から降りて趙旃と戦い、戦袍を得ました。
 
魏錡と趙旃が楚陣に向かった後、晋の荀林父等は二人が楚軍を怒らせることを恐れたため、(兵車)を出して迎えに行かせました。
ところが、魏錡を追い返した潘党は、遠くに砂塵が舞い上がるのを見て、急いで本陣にこう伝えます「晋師が動いた!」
楚軍は趙旃を駆逐した荘王が晋軍に包囲されることを恐れました。孫叔敖が言いました「進攻しよう。我々が人を逼迫することがあっても、人が我々を逼迫することがあってはならない。『詩経(小雅・六月)』にはこうある『戦車十乗が先行して道を開く(元戎十乗,以先啓行)。』これは敵に先んずるという意味だ。また、『軍志(兵書。佚書)』にはこうある『人に先んずれば、敵の意志を奪うことができる(先人有奪人之心)。』これは敵を逼迫するということだ。」
楚軍は兵も車も疾駆させて晋軍を襲いました。
勢いに圧倒された晋の荀林父は軍中で戦鼓を叩き、「先に黄河を渡った者には賞を与える!」と宣言しました。退却の命令です。
晋軍は一斉に後退を始め、中軍と下軍が黄河に向かいました。中軍大夫の趙嬰斉が事前に舟を準備していましたが、渡河できたのは一部の将兵だけだったため、兵達は舟を争い始めます。岸を離れた舟に乗ろうとしたものの、舟のへりに手をかけた途端、舟上の兵に指を斬られて黄河に捨てられる者が続出します。舟中に斬り落とされた指はすくって捨てるほどあったといいます。
 
楚の工尹・斉(大夫。斉が名)が右拒(右の方陣を率いて晋の下軍に対峙していました。撤退する晋軍を追撃します。
 
戦いの前に楚荘王が唐狡と蔡鳩居(どちらも大夫)を唐国(姫姓または祁姓。楚の同盟国のようです)に送り、恵侯に伝えました「不穀(国君の自称)は不徳かつ貪婪なため、大敵を招いてしまった。これは不穀の罪だ。しかしもし楚が敗れたら、貴君の恥にもなる。貴君の霊(福。援け)を借りて、楚師を成功させたい。」
唐恵侯は出兵に同意し、潘党と共に楚の左拒を形成しました。游闕(予備の車)四十乗を率いて晋の上軍と対峙します。
 
晋は大軍(中軍と下軍)が右黄河方面)に移りましたが、上軍は動きません。
郤錡(駒伯。上軍の佐・郤克の子)が士会(上軍の将)に「楚軍と戦いますか?」と聞きました。
士会はこう答えました「楚師は強壮だ。兵力を集中した楚師に我が軍だけで戦っても全滅する。我々は兵を整えて去るべきだ。敗戦の誹謗を諸将と分け合い、民(兵)を活かすことができれば充分ではないか。」
あらかじめ七カ所に伏兵を置いていた士会は、自ら後殿しんがりとなり、秩序を保って退却しました。晋の中軍と下軍が壊滅する中、上軍だけは軍容を損ないませんでした。
 
楚荘王が陣に戻って右広の戦車に移ろうとしました。すると屈蕩が言いました「主君はここ(左広)で戦を始めました。ここで戦を終えるべきです。」
この後の戦いでは、楚王は先に左広の車に乗ることになりました。
 
晋のある兵車が穴にはまって動けなくなりました。追撃していた楚兵は車前の横木をはずせば穴から出ることができると教えます。晋の兵車はやっと脱出しましたが、少し進むと馬が同じところを回って前に進まなくなりました。楚兵は旆(大旗)と衡(馬の動きを規制する横木)をはずして車を軽くし、馬を動きやすくするように教えました。
この出来事は、楚には晋を急追するつもりがないことを示しています。『春秋公羊伝(宣公十二年)』には戦勝した楚荘王の言葉が書かれています「我々両君は仲が良くないが、百姓に罪はない。」
楚兵は荘王の意志に従い、晋軍を追いつめませんでした。
一方、助けてもらった晋兵は振り返ると嘲笑してこう言いました「我々は大国(楚)の人々のように何度も逃げ回ったことがない(楚兵のように逃げることに慣れていないから、どうすればいいかわからなかったのだ)。」
敗れても驕慢な晋と、覇者の風格を持つ楚荘王の対比を描いています。
 
楚荘王に追い返された趙旃は、二頭の良馬に車を牽かせて兄と叔父を逃げさせると、他の馬に自分の車を牽かせて退却を始めました。しかし楚軍に遭遇して動けなくなったため、車を棄てて林に逃げます(二回目の逃避です)
この時、晋の逢大夫が二人の子を車に乗せて逃げて来ました。逢大夫は趙旃を見つけましたが、助けたくないため二人の子に「振り返ってはならない」と命じます。しかし二人の子は振り返って「趙傁(傁は叟と同じで年長の男)が後ろにいます」と言いました。
逢大夫は怒って二人を降ろすと、近くの木を指さして「ここで汝等の屍を拾うことになる」と言いました。
逢大夫は趙旃に縄を渡して車に乗せ、二人の子を置いて逃走しました。
趙旃は助かりましたが、翌日、二人の子が木の下で重なって殺されているのが発見されました。
 
楚の大夫・熊負羈が退却中の知罃(字は子羽。荀首の子)を捕えたため、荀首が族人を率いて退き返しました。魏錡が御者になり、下軍の多くの士が従います。荀首は自分が背負っている矢袋から矢を取り出すと、射る前に確認し、良い矢だったら使わないで魏錡が背負っている矢袋に入れました(魏錡は御者なので荀首の前にいます)。魏錡が怒って言いました「あなたは自分の子を求めようとせず、蒲(矢の材料)を惜しむのですか。董沢(地名。矢の材料となる植物を産出する場所)の蒲が、勝利をもたらすというのですか。」
荀首が言いました「人の子を得なければ、わしの子を得ることもできないだろう。むやみに良い矢を使ってはならないのだ。」
楚軍に遭遇した荀首は連尹(官名)・襄老を射殺してその尸を車に乗せ、公子・穀臣を射て捕えてから、兵を還しました。
後に襄老の死体と公子・穀臣が楚に返され、知罃は釈放されました(東周定王十八年・前589年と定王十九年・前588年に記述があります)
 
日が暮れる頃、楚軍は邲(鄭地)に駐軍しました。晋の残った軍は戦う能力がなく、夜を通して黄河を渡りました。
 
丙辰(恐らく七月十四日)、楚の輜重が邲に到着しました。楚軍は衡雍に駐軍します。
潘党が荘王に言いました「なぜ武軍を築き、晋の屍を集めて京観としないのですか(武軍と京観は同じ意味で、敵兵の死体を積んで土をかぶせた高台です)。敵に勝ったら功績を子孫に示し、武功を忘れないようにするものです。」
荘王が言いました「汝には分からないことだ。『武』という文字は『止』と『戈』でなりたっている。武王は商に勝って『頌詩経・周頌・時邁)』を作り、こう歌った『干戈を納め、弓矢をしまおう。わしは美徳を求め、夏楽(音楽の名。夏は大の意味)にそれを述べ、王となって天下を保つ(載戢干戈,載櫜弓矢。我求懿徳,肆于時夏,允王保之)。』また、『武詩経・周頌・武)』を作り、最後にこう歌った『紂を滅ぼしてその功を定めた(耆定爾功)』。『武』の第三章(今の『詩経』では『周頌・賚』。当時と今では『詩経』の章の立て方が異なったようです)にはこうある『文王の美徳を受け継いだ。わしが征討するのは、ただ安定を求めるためだ(舖時繹思,我徂維求定)。』その第六章(今の『詩経』では『周頌・桓』)にはこうある『全国を安んじて、毎年豊作になる(綏万邦,屢豊年)。』武とは暴力を禁じ、戦いを止めさせ、強大な国力を保ち、功業を安定させ、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにして、子孫にその大功を忘れさせないためにあるのだ。今、わしは二国の骨を晒させてしまった。これは暴力である。兵力によって諸侯に威を示したが、これでは戦いはなくならない。暴力を禁じず、戦を止めさせることもできないようで、国の大(強さ)を保つことはできない。晋国が存在している間は、功業を安定させることもできない。民の願いに背いていることが多ければ、民を安んじることもできない。徳がないのに力で諸侯と争ったら衆を和すこともできない。人の危機を自分の利とし、人の乱に乗じて自分の栄えとするようでは、財を豊かにすることもできない。武には七徳(禁暴・停戦・保大・定功・安民・和衆・豊財)があるが、晋に武を用いたわし自身に一徳もないようでは、子孫に功績を示すことはできない。先君の宮(廟)を建てて戦勝の報告をするだけで充分だ。そもそも、武はわしが求める功ではない。古の明王は不敬な者を討伐し、鯨鯢(海中の大魚。ここでは元凶)を殺し、その一党を誅滅したから、京観を築いて懲らしめとしたのだ。今、晋の罪は明らかではなく、その民も忠を尽くして君命のために死んだ。京観を作って懲らしめるべきではない。」
荘王は河神を祭り、先君の宮を造り、戦勝の報告をして兵を還しました。

『中国歴代戦争史』を元に邲の戦いの地図を作りました。
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次回に続きます。