第十回 楚熊通が王を称し、鄭祭足が庶子を立てる(後編)

*『東周列国志』第十回後編です。
 
話は鄭に戻ります。
鄭荘公は周王軍に勝ってから公子・元の功績を深く嘉し、大城の櫟邑に封じました。公子・元は附庸国に等しい存在になります。
諸大夫に賞が与えられましたが、祝聃の功績だけは記録されず、賞もありませんでした。祝聃が荘公にその理由を問うと、荘公はこう言いました「王を射たのにその功を記録したら、人はわしについて議論するだろう。」
祝聃は憤懣激しく、やがて背に疽(腫瘍)ができて死んでしまいました。荘公は私人の立場で祝聃の家族に礼物を贈り、厚葬するように命じました。
 
周桓王十九年夏、鄭荘公が病にかかりました。
荘公が祭足を床頭に招いて言いました「寡人には十一人の子がおり、世子・忽の他にも子突、子亹、子儀,に貴徴(尊貴になる兆)がある。特に子突の才智福禄は他の三子よりも上だ。三子とも令終(善い終わりを迎えること)の相ではない。寡人は位を子突に伝えようと思うが、如何だ?」
祭足が言いました「鄧曼(世子・忽の母)は元妃(正妻)であり、子忽は嫡長として久しく儲位(後継者の地位)にいます。また、何回も大功を立ててきたので、国人も信従しています。嫡子を廃して庶子を立てるようなことは、臣には従えません。」
荘公が言いました「突の志は人の下に甘んじる者の志ではない。もし忽を立てるのなら、突を外家(母の実家)に出さなければならない。」
祭足が言いました「子を知る者で父に勝る者はいません(知子莫如父)。君命に従うのみです。」
荘公が嘆いて言いました「鄭国はこれから多事になるだろう。」
こうして公子・突は宋に住むことになりました。
 
五月、荘公が死に、世子・忽が即位しました。これを昭公といいます。
昭公は諸大夫を各国に送って聘問させました。祭足は宋に赴き、聘問と同時に子突の状況を確認します。
 
公子・突の母は宋の雍氏の娘で、名を雍姞といいます。雍氏の宗族は多くが宋に仕えており、宋荘公に寵任されていました。
公子・突は宋に住むことになりましたが、母・雍姞(鄭にいます)を想い、雍氏の者と共に鄭に帰る策を考えるようになりました。雍氏がこのことを宋公に話すと、宋公も公子・突のために計を練ることに同意します。
その頃、ちょうど祭足が宋に聘問に来ました。
宋公が喜んで言いました「子突が帰れるかどうかは、祭仲の身の上にある。」
宋公は南宮長万に甲士を率いて朝廷に隠れさせ、祭足の入朝を待ちました。
祭足が聘問の礼を終わらせると、甲士が走り出て祭足を捕えます。祭足が叫びました「外臣(外国の臣)に何の罪があるのだ!」
宋公が言いました「とりあえず軍府に移ってから話そう。」
この日、祭足は軍府に幽閉されました。甲士は周囲を堅く守り、水も漏らさないほどです。祭足は恐れ疑い、不安のためゆっくり座ることもできませんでした
夜になってから、太宰・華督が酒を持って軍府を訪れ、祭足を安心させました。
祭足が問いました「寡君は足(私)に上国との修好を命じました。足が罪を得たはずはなく、なぜ怒りに触れたのかわかりません。寡君の礼に欠陥があったのでしょうか?使臣(使者。祭足)の不職(職務を全うできないこと)が原因でしょうか?」
華督は「どちらでもありません」と言ってから、こう説明しました「公子・突が雍氏の産まれであることを知らない者はいません。その子突が宋に隠れており、寡君が憐れんでいます。また、子忽は柔弱なので国君に相応しくありません。吾子(あなた)に廃立の事ができるようなら、寡君は吾子と婚姻関係を結びたいと願っています。吾子の考え次第です。」
祭足が言いました「寡君の即位は先君の命によるものです。臣下でありながら国君を廃したら、諸侯が私の罪を討つことになるでしょう。」
華督が言いました「雍姞は鄭の先君に寵愛されていました。母が寵を得たから子が貴ばれるのです。問題はないではないでしょう。そもそも弑逆の事はどこの国にもあります。ただ力があるかどうかが重要なのです。誰が罪を問うというのですか。」
華督は祭足の耳元でこう加えました「寡君(宋公)の即位も廃位の後に興ったものです。子(あなた)が行動しても咎められることはないと、寡君が保証しましょう。」
祭足が眉をしかめて何も言わないため、華督はこう言いました「子が従わないというのなら、寡君は南宮長万を将に任命し、車六百乗を動員して公子・突を鄭に入れます。出軍の日、吾子を斬って軍中で見せしめとするでしょう。私が子に会えるのも今日までです。」
祭足は恐れてついに承諾しました。華督が誓いを強制したため、祭足が言いました「公子・突を立てなかったら、神明の殛(誅殺)を受けることになる。」
華督は夜のうちに宋公に会い、「祭足は命に従いました」と報告しました。
 
翌日、宋公が公子・突を密室に招いて言いました「寡人は雍氏と約束し、吾子(汝)を帰国させることにした。しかし最近、鄭国が新君を立てたことを告げ、密書を寡人に届けてこう伝えた『(公子・突を)殺せば、三城を割いて感謝する。』寡人は子を殺すのが忍びないので、実情を子に教えることにした。」
公子・突が拝礼して言いました「突は不幸にして上国(貴国)に亡命することになりました。突の死生は貴君しだいです。もし貴君の霊(福。恩恵)によって再び先人の宗廟を祀ることができるのなら、突は貴君の命にのみ従います。三城だけではすみません。」
宋公が言いました「寡人は祭仲(祭足)を軍府に捕えた。公子のためである。この大事は仲でなければ成功できない。寡人が盟を結ばせよう。」
宋公は祭足を招いて子突に会わせ、雍氏も呼び出して子忽の廃位と子突の擁立について話しました。三人は歃血して盟を定めます。宋公自ら盟を主宰し、太宰・華督が立ちあいました。
宋公は子突と誓約し、報酬として三城の他に白璧百双、黄金一万鎰と毎年穀物三万鍾を贈ることを要求しました。祭足が証人として名を記します。公子・突は国を得たい一心から全ての要求に同意しました。
更に宋公は鄭の国政を祭足に委ねるよう公子・突に要求しました。公子・突はこれにも同意します。
宋公は祭足に娘がいると聞き、雍氏の子・雍糾に嫁がせることにしました。祭足に雍糾を連れて帰らせ、鄭国で結婚してから大夫の職を与えるように要求します。祭足も逆らうことができず、全て同意しました。
 
公子・突と雍糾は微服を着て商賈(商人)の姿になり、祭足について車で鄭に向かいました。
九月朔日、一行は鄭に入って祭足の家に隠れます。
祭足が病と称して朝廷に顔を出さなかったため、鄭の諸大夫が祭府を訪問しました。祭足は死士百人を壁衣(壁を装飾する布)の中に隠してから諸大夫を内室に入れます。諸大夫は祭足の顔色がよく、衣冠も整っているのを見て、驚いて言いました「相君(国相)には変わりがないのに、なぜ入朝しないのですか?」
祭足が言いました「足(私)の身体の病が原因ではありません。国の病が原因です。先君は子突を寵愛し、宋公に後を託しました。今、宋は南宮長万を将に任命して車六百乗を率いさせ、突を援けて鄭を討伐しようとしています。鄭国はまだ安定していないのに、どうして対抗できるでしょう?」
諸大夫は互いの顔を見るだけで、何も言いません。
祭足が言いました「宋兵を解くには廃立を行うしかありません。公子・突はここにいます(もしくは「健在です」。原文「見在」)。諸君が従うかどうか、一言で決めましょう。」
高渠彌は世子・忽に上卿の位を否定されてから対立していたため、率先して前に進み出ると剣に手をかけて言いました「相君の言は社稷の福だ。我々は新君に謁見することを願う!」
群臣は高渠彌の発言を聞いて祭足と事前に話ができていると疑いました。壁衣には人が隠されているようです。恐れを抱いた群臣は、声をそろえて廃立に同意しました。
そこで祭足が公子・突を呼び、上座に坐らせました。まず祭足と高渠彌が拝礼します。諸大夫も仕方なく地に伏せて拝しました。
祭足はあらかじめ連名の表章を準備していたため、人を送って昭公に届けさせました。そこにはこう書かれています「宋人が重兵によって突を入れようとしているので、臣等は主公に仕えることができなくなりました。」
併せて密啓(秘密の上奏文)が入っており、こう書かれていました「主公の即位は先君の意志ではなく、臣・足が主張しました。しかし今回、宋が臣を捕えて突の帰国を謀り、臣に盟を強制したので、臣はこの身が死んだとしても国君の益にはならないと思い、口頭で同意しました。兵は既に郊外に至っています。群臣は宋の強勢を恐れ、協謀して突を迎え入れました。主公は権臨機応変な態度)に従って暫く位を避けるべきです。臣が隙を探して再び迎え入れることをお許しください。」
最後に誓いの言葉がありました「この言に違うようなら、日(太陽。天神)の咎を受けよう。」
昭公は表文と密啓を読み、自分が孤立無援だと知りました。成す術ない昭公は嬀妃と泣いて別れを惜しんでから衛国に出奔します。
 
九月己亥日(二十五日)、祭足が公子・突を即位させました。これを厲公といいます。大小の政事は全て祭足に委ねられました。
祭足の娘は雍糾に嫁ぎました。これを雍姫といいます。祭足が厲公に進言し、雍糾は大夫の職が与えられました。
雍氏は鄭厲公の外家(母の実家)にあたり、厲公は宋にいた時に雍氏と親しく接していたため、即位後も雍糾を寵信し、祭足に継ぐ地位に置きました。
厲公の即位によって国人が安定しました。しかし公子亹と公子儀の二人は心中不満で、また、厲公に害されることを恐れたため、この月に公子・亹は蔡へ、公子・儀は陳へ出奔しました。
宋公は子突の位が定まったと聞き、使者を送って祝賀します。しかしこの使者が両国の干戈を招くことになります。
 
続きは次回です。