戦国時代36 東周顕王(四) 衛鞅の変法 前359年

今回は東周顕王十年です。
 
顕王十年
壬戌 前359
 
[] 『史記魏世家』によると、昼に星が落ちて大きな音が鳴り響きました。
 
[] 『資治通鑑』が秦の衛鞅による変法改革について書いています。
当時、衛鞅が変法を行おうとしましたが、秦人は歓迎しませんでした。
衛鞅が秦孝公に言いました「民とは物事の始めを共に考えることはできませんが、成就した事を共に楽しむことはできます(夫民不可与慮始,而可与楽成)。だから至徳を語る者は俗と和すことがなく、大功を成す者は大衆と謀ることがありません。聖人は、強国を実現できるのなら旧法にこだわらないものです。」
甘龍(『資治通鑑』胡三省注によると、甘が姓で龍が名。甘という氏は春秋時代甘昭公の子にあたる帯の子孫。もしくは、商代の甘盤の子孫)が反対して言いました「それは違います。旧法に従って治めるから、官吏は法を熟知し、民も安定するのです。」
衛鞅が言いました「常人は故俗(古い習慣)に安心し、学者は自分が聞いた知識に溺れるものです。この二者は官に就いて法を守ることはできますが、法の外の事(改革)を語り合うことはできません。智者が法を作り、愚者が法に制されるのです。賢者が礼制を改め、不肖の者(愚者)が礼に拘(制御)されるのです。」
孝公は「善し(善)」と言って衛鞅を左庶長に任命しました。
 
史記秦本紀』はこれを翌年の事としており、「衛鞅が孝公に変法修刑を進言し、内は耕稼(農業)に勤め、外は戦の賞罰を明らかにするように主張した。孝公はこれに賛同したが、甘龍、杜摯等が納得せず、衛鞅と争った。孝公は衛鞅の法を採用した。始めは百姓が変法を苦としたが、三年経つと百姓が便利だと思うようになった。孝公は衛鞅を左庶長に任命した」と書いています。
史記』には『商君列伝(巻六十八)』があり、衛鞅商鞅。商君)について詳しく語っています。以下、衛鞅の論戦の部分を抜粋します。
秦孝公が衛鞅を用いたので、衛鞅は変法改革を開始しようとしました。しかし孝公は天下が変法に反対することを恐れます。すると衛鞅が言いました「行動を疑って躊躇したら名を成すことができず、事を疑って躊躇したら功を成すことができません。凡人を超えた行いをする者とは、しばしば世の人々から非難されるものです。独特な見解を持つ慮者(賢者)とは、民から驚かれるものです。愚者は事がなってもその功罪を知ることができません。逆に知者は事を行う前にその結果を見通すことができます。民とは、事を起こす時には共に考慮することができず、事が成ってから共に享受することができるものです。至徳を論じる者は俗人(凡人)と和すことなく、大功を成す者は大衆と謀ることがありません。だから聖人は国を強くすることさえできれば旧法にこだわることなく、民の利になることであれば、旧礼にこだわることがないのです。」
孝公は衛鞅の意見に同意しましたが、甘龍が反対して言いました「それは違います。聖人とは民の習俗を変えずに教化を行い、知者とは旧法を変えずに治めることができるものです。民の習俗を変えずに教化すれば、労なく功を成すことができます。旧法に則って治めれば、吏(官吏)が法に習熟して民が安らかになります。」
衛鞅が言いました「龍の言は世俗の言です。常人(凡人)は古い習俗に安心し、学者は自分の見聞に溺れるものです。この二者は官に就いて法を守るだけで充分です。法の外の事を論じる能力はありません。三代(夏周)は異なる礼制を用いて天下の王となり、五伯春秋五覇は異なる法を用いて霸を称えました。智者が法を作り、愚者はその法に制されるものです。賢者が礼を改め、不肖の者はその礼に制御されるものです。」
杜摯が言いました「百の利がなければ法を改めてはならず、十の功(効果。長所)がなければ器(器物)を変えてはならないものです。古から法に過失はなく、礼に則っていれば邪(過ち)もありません。」
衛鞅が言いました「治世の道は一つではなく、国に利便があるのなら古に則る必要はありません。だから湯武商王朝の成湯と西周武王)は古の法に則ることなく王になり、夏(桀)(紂)は礼を改めることなく亡んだのです。古に反対する者を非難してはならず、旧礼を固守する者を称賛してもなりません。」
孝公は衛鞅の意見を支持して衛鞅を左庶長に任命しました
 
以前も述べましたが、秦の爵位には二十の等級があります。一級は公士、二級は上造、三級は簪(または「簪裊」)、四級は不更、五級は大夫、六級は官大夫、七級は公大夫、八級は公乗、九級は五大夫、十級は左庶長、十一級は右庶長、十二級は左更、十三級は中更、十四級は右更、十五級は少上造、十六級は大上造、十七級は駟車庶長、十八級は大庶長、十九級は関内侯、二十級は徹侯(列侯)です。
資治通鑑』胡三省注によると、一級の公士から四級の不更は士の階級にあたります。五級の大夫から九級の五大夫は大夫、十級の左庶長から十八級の大庶長は九卿です。関内侯は秦国の近畿(関内)に封じられた子爵男爵で、徹侯は列国の諸侯です。
 
卿、大夫、士というのは朝廷での位ですが、秦の爵位名は軍事に関係しています。古代の戦は戦車が主力でした。兵車一乗の左右に歩卒(歩兵)七十二人が従い、車上には大夫が左、御者が真中、勇士が右に乗ります。合計七十五人になります。
第一爵の「公士」は歩卒の中で爵位を得た者です。
第二爵の「上造」は、「造」が「成」を意味しており、歩卒の中でも位が高い者です。
第三爵の「簪は駟馬(四頭が牽く馬車)を御す者です。古代には要という名馬がいました。また、駟馬を御す様子は簪に似ていると考えられました。そこから簪命名されました。
第四爵の「不更」は車右です。不更とは「更卒(身分が低い兵卒)とは異なる」という意味です。
第五爵の「大夫」は車左です。
第六爵の「官大夫」、第七爵の「公大夫」、第八爵の「公乗」、第九爵の「五大夫」は全て軍吏です。
第十爵の「左庶長」、第十一爵の「右庶長」、第十二爵の「左更」、第十三爵の「中更」、第十四爵の「右更」、第十五爵の「少上造」、第十六爵の「大上造」、第十七爵の「駟車庶長」、第十八爵の「大庶長」は卿大夫にあたり、軍の将として庶人や更卒を率いたので「庶」「更」が爵名に使われています。大庶長は大将軍、左右庶長は左右偏裨将軍(左右一軍の将)です。
 
資治通鑑』から衛鞅の変法に戻ります。
変法の令が制定されると、民を「什伍」に編成しました。五家で「伍」、二つの伍(十家)で「什」です。同じ「什伍」に属す民は互いに監視し、誰かが罪を犯したら「什伍」全てが刑を受けることになりました。これを「收司連坐」といいます。
姦者(罪人)を告発したら敵の首を斬った功績と同等の賞賜が与えられ、姦者を庇って報告しなかったら敵に投降した時と同じ罰が与えられることになりました。
また、軍功を上げれば内容に応じて上の爵位が与えられ、私闘をした者は軽重に合わせて刑が行われました。
民を本業において尽力させるため、耕織(農業や機織り)の成果として粟帛穀物や帛布)を多く納めた者は賦役を免除しました。
逆に末利(不当な職)に就いたり怠惰によって貧困を招いた者は、家族全て奴婢にしました。
官爵や秩禄の等級を明らかにし、等級に応じて田宅や臣妾(奴婢)、衣服を享受できるようにしました。功がある者は栄華を獲得し、功が無い者は富があっても芬華(名誉)を得ることができなくなります。秦の宗室(公族)でも軍功がなければ宗族の籍から外されました。
衛鞅の改革は秦を強大にしていきますが、同時に既存の特権を失った貴族達の恨みも招きました。
 
法令は整いましたが、民が信用しないかもしれません。そこで衛鞅は国都の市の南門に三丈の木を立て、「木を北門まで運んで立てることができた者には十金を与える」と宣言しました。
しかし民衆は奇妙に思うだけで動こうとしません。
衛鞅が改めて「木を移すことができた者には五十金を与える」と言うと、一人の男が木を北門に移して立てました。衛鞅は男に五十金を与えます。人々は衛鞅の言に偽りがないと知りました。
この後、衛鞅が新令を発布しました。
 
変法が始まって一年が経ちました。秦国中の民が国都を訪れて新令が不便だと訴えます。その数は千を数えました。
ちょうどそのころ、太子が法を犯しました。
衛鞅は「法が行われないのは上の者が犯しているからだ」と判断します。しかし太子は国君の跡継ぎなので刑を施すことができません。そこで、太子の傅(教育官)を勤めていた公子虔を処刑し、太子の師である公孫賈を黥(顔に入墨する刑)に処しました。
翌日、国都に集まっていた秦人は皆帰って新令に従うようになりました。
 
変法改革が始まって十年経つと、秦国では道に落ちている物を拾って着服する者がいなくなり、山にも盗賊が住みつかなくなりました。民は公戦(国の戦)で勇敢に戦い、私闘をする者はいなくなります。各地の郷邑が大いに治まりました。
かつて新令の不便を訴えた者達の中から、新令を称賛する者が出てきました。衛鞅は「彼らは皆、法を乱す民である」と言って全て辺境に移住させました。
この後、衛鞅の法令について議論する民はいなくなりました。
 
衛鞅の変法改革は東周顕王十九年(前350年)にも再述します。
 
[] 韓懿侯が在位十二年で死に、子の昭侯が立ちました。
 
[] 『史記趙世家』はこの年に「趙が韓、魏と共に晋を分け、晋君を端氏(地名)に封じた」と書いています。しかし晋は東周安王二十六年(前376年)に三晋によって分割されたはずです。『趙世家』の記述が何を意味しているのか(あるいは誤りなのか)はわかりません。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、楚軍が河水黄河を決壊させて長垣の外を水没させました(楚師出河水以水長垣之外)
『竹書紀年』は魏の史書なので、楚が攻撃したのは恐らく魏です。長垣は魏の長城だと思われます。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏の龍賈が兵を率いて西辺に長城を築きました。


[
] 『今本竹書紀年』によると、鄭(韓)が屯留と尚子を取りました。

『古本竹書紀年』は屯留、尚子、●(「揑」の「扌」が「氵」)の三か所としています。恐らくどれも魏領です。
 
 
 
次回に続きます。