戦国時代92 東周赧王(三十) 華陽の戦い 前273年(一)

今回は東周赧王四十二年です。二回に分けます。
 
赧王四十二年
273年 戊子
 
[] 趙と魏が韓の華陽を攻めました。『史記秦本紀』『趙世家』『魏世家』等の記述とは異なります(前年参照)
以下、『史記韓世家』と『資治通鑑』からです。
韓が秦に急を告げましたが、秦王は援軍を出そうとしませんでした。
韓の相国が陳筮(または「陳筌」「田荼」)に言いました「事は急を要します。公は病を抱えていますが、一宿之行(一日の旅程)を成していただけませんか。」
陳筮は秦に入って穰侯魏冉に会いました。
穰侯が言いました「急を要するから公が派遣されたのであろう。」
陳筮は「急ぐことではありません」と答えました。
穰侯が怒って言いました「それではなぜ公の主は使者を送ったのだ。使者が頻繁に行き来して(冠蓋相望)敝邑に危急を告げているのに、公が急ぐことではないと言うのはなぜだ。」
陳筮はこう答えました「韓が本当に急を要すのなら、態度を変えて他国(趙魏)に仕えます。急がないからこそ、再び使者を秦に送ったのです。」
穰侯は「公が王に会う必要はない。今すぐ韓を援ける兵を出そう」と言い、武安君白起と客卿胡陽(または「胡傷」。前年参照)に韓を援けさせました。
 
資治通鑑』胡三省注が胡氏の解説をしています。一つは、帝舜の後裔の胡公満が陳に封じられ、その子孫が胡を氏にしました。もう一つは、陸終氏に六子がおり、長子を昆吾、次子を参胡といいました。参胡は董姓で、韓墟に封じられます。この国は周代にも続いていた胡国で、後に楚に滅ぼされました。胡国の子孫が胡を氏にしました。
 
秦軍は八日で韓に到着し、魏軍を華陽の城下で破りました。魏将芒卯は敗走し、三将が捕らえられ、十三万が斬首されます。
 
武安君白起は趙将賈偃とも戦って趙兵二万を黄河に沈めました。
 
魏の段干子が南陽を秦に譲って講和しようとしました。『史記魏世家』と『資治通鑑』からです。
蘇代(合従を主張しています)が段干子に反対して魏王にこう言いました「璽(秦の相印)を欲しているのは段干子で、地を欲しているのは秦です(段干子は秦の相になりたいので領土の割譲を進言しています)。今、王は地を欲する者(秦)に璽を制させ、璽を欲する者(段干子)に地を制させていますが、これでは魏の地が全てなくならなければ解決できません。地を捧げて秦に仕えるのは、薪を抱えて火を消しに行くようなもので、薪が燃え尽きなければ火が消えることもありません。」
魏王が言いました「その通りだが、割譲の事は既に始まっている。今更変えるわけにはいかない。」
蘇代が言いました「博で梟が大切にされるのは、状況に応じて食べたり止まったりできるからです(博は将棋や双六の一種で、梟は駒の一つです。臨機応変な動きができたようです。原文「博之所以貴梟者,便則食,不便則止」)。今の王が用いる智謀は梟にも劣るのですか臨機応変に行動できないのですか)。」
魏王は諫言を聞かず、南陽を秦に譲って講和しました。南陽は脩武ともいいます。
 
『戦国策魏策三』では、魏王に進言したのは蘇代ではなく孫臣となっており、魏王は諫言に同意しています。しかし秦は翌年に南陽郡を置くので、『戦国策』が誤りだと思われます。
 
史記秦本紀』によると、秦は魏、韓から奪った地と上庸(楚から奪った地)を併せて一郡とし(郡名はわかりません)南陽の免臣(釈放された奴隷)を移住させました。
 
『戦国策魏策三』には「秦が魏を華(華陽)で破り、芒卯を走らせて大梁を包囲した」という記述がありますが、大梁包囲に関する記述は『史記』『資治通鑑』ともありません。
楊寛の『戦国史』は華陽の戦いの後、「秦韓が魏都大梁を包囲したが、燕趙両国が魏を援けたため、秦は魏が献上した南陽の地を受け入れて兵を退いた」としています。
趙が援軍を出したという記述も『史記』『資治通鑑』ともにありません。
『戦国策魏策三』に「秦が魏を攻撃しようとしたため、それを聞いた魏王が夜、孟嘗君田文を訪ねた。」その後、孟嘗君が趙と燕を説得したため「趙王が同意して兵十万、車三百乗を出した。」「燕も兵八万、車二百乗を発した。」「魏王は大喜びして『あなたが得た燕と趙の兵は多く、しかも迅速だ』と言った。秦王は恐れて地を割譲し、魏に講和を求めた。魏は燕と趙の兵を還らせ、田文を封じた」という記述があります。
戦国史』はこれを華陽の戦いの後の事と考えたのかもしれません。但し『戦国策』の記述では秦が魏に領地を割譲したようです(割地請講于魏)
あるいは『戦国史』が根拠にした記述が他にあるのかもしれません。
 
[] 『史記周本紀』にこの頃の周の出来事が書かれています
秦が華陽の約(「厄」。恐らく要塞等の拠点の意味)を破り、周にも危険が迫ったため、周の臣馬犯が周君西周武公)に言いました「梁(魏)に命じて周の城を修築させましょう。」
馬犯は梁王を訪ねてこう言いました「周王は(秦の脅威を憂いて)病にかかりました。王が死んだら犯(私)も必ず死にます。犯が九鼎を王(魏王)に贈るように(周王に)進言するので、王(魏王)は九鼎を受け取ってから犯のために(周を援ける方法を)考慮してください。」
梁王は同意して兵を出し、周を守ると宣言しました。
すると馬犯が秦王にこう言いました「梁が兵を動かしたのは戍周(周を守ること)のためではありません。周を攻撃するためです。王は試しに兵を国境まで出して梁王の動きを観察するべきです。」
秦王は信じて出兵しました。
馬犯がまた梁王に言いました「周王の病がますますひどくなったので、病が良くなってから九鼎のことを実行させてください(原文「周王病甚矣,犯請後可而復之。」但し、『史記索隠』によると「甚」は「瘉」と書くべきで、その場合は「周王の病が既に回復したため、九鼎を魏に贈る必要はなくなりました。今後、機会があったら魏に九鼎を贈ります」という意味になります)。今回、王(魏王)が周に士卒を送りましたが、諸侯は皆、王を疑っています(秦が国境に兵を出したのもそのためです)。これでは今後、王が事を起こそうとしても信用されません。士卒に周城の修築を命じて事端(紛糾。疑惑)を除くべくです。」
梁王は納得して周城を修築しました。
 
[] 韓釐王が在位二十三年で死に、子の桓恵王が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。