春秋時代53 東周襄王(十三) 斉桓公の死 前644~643年

今回は東周襄王九年からです。
 
襄王九年
644年 丁丑
 
[] 春正月戊申朔、宋に五つの隕石が落ちました
同月、大風のため、六鷁(六羽の水鳥)が逆に飛んで宋都を過ぎました。
 
周の内史・叔興が宋を聘問した時、宋襄公がこの二事について問いました「これは何の祥だ。吉凶どちらだ?」
叔興が言いました「今年、魯で大喪(複数の葬儀)があり、来年、斉で乱が起きます。その後、貴君(宋襄公)は諸侯の支持を得ますが、全うできないでしょう。」
叔興は退席してから知人に言いました「国君がこれを問うべきではなかった。隕石が落ちたり鳥が逆に飛ぶのは自然界に存在する陰陽の気によるものだ。人事とは関係がない。逆に吉凶とは人によって生まれるものであり、陰陽とは関係ない。私は君命に逆らえないから仕方なく答えたが、本来問うべきことではない。」

以上は『春秋左氏伝十六年』の記述です。『史記・宋微子世家』には「宋地霣星(隕石。流星)のように落ち、と一緒に降りそそいだ。(六鷁)が逆に飛んだ。風が強かったからだ」と書かれています。
 
[] 三月壬申(二十五日)、魯の公子・季友が死にました。
 
[] 前年に続いて楚が徐国を攻撃したようです。
夏、斉が徐を援けるために厲を攻めましたが、攻略できませんでした。楚が兵を退いたため、斉も兵を還しました。
 
[] 四月丙申(二十日)、魯から国に嫁いだ季姫(東周襄王七年、646年参照)が死にました。
 
[] 秋、狄が晋を侵して狐・廚(または「狐廚」で一邑)・受鐸を取り、汾水を渡って昆都に至りました。前年晋が韓原で大敗したために招いた狄の侵攻でした。
 
[] 当時、戎が頻繁に周の国境を侵していました。
周襄王が戎の難を斉に伝えたため、斉が諸侯の兵を集めて周を守りました。
 
[] 秋七月甲子(十九日)、魯の公孫茲(または「公孫慈」。叔孫戴伯)が死にました。
 
[] 冬十一月乙卯(十二日)、鄭文公が子華(文公の太子。東周恵王二十四年、前653年参照)を南里(鄭地)で殺しました。
 
[] 十二月、斉侯桓公・魯公(釐公)・宋公(襄公)・陳侯(穆公)・衛侯(文公)・鄭伯(文公)・許男僖公)邢侯・曹伯(共公)が淮で会しました。淮夷に侵されている鄶を助けるためです。また、東方計略(東征。淮夷討伐)についても相談しました。
 
諸侯がのために城を築きましたが、労役に従事した多くの人が疲労困窮しました。ある人が夜になると丘に登って叫びました「斉で乱が起きた!」
城は完成することなく、諸侯が退きあげました。
 
[] 『資治通鑑外紀』は淮の会で東征の方針が決定してから、魯が淮夷を討伐したと書いています。
これは『毛詩正義』(『詩経』の注釈書)に見られる記述です。
 
『毛詩正義』によると当時の魯はますます政事が衰え、国事(祭祀・儀礼の多くが廃されていました。しかし僖公(釐公)の代になると伯禽(周公・旦の子。魯国の祖)の政治を回復させ、僖公自ら節倹に努めて民を愛し、農業を奨励するようになりました。また、民の田地に害を及ぼさないため、坰野(郊外の野。遠野)で馬を牧畜しました。
坰野の馬は四種いました。良馬(祭祀等の行事で使う馬)、戎馬(戦争で使う馬)、田馬(狩猟で使う馬)、駑馬(輸送や雑役に使う馬)です。どの馬も強壮に育ちました。
詩経・魯頌・駉』は見事に育った馬の姿を借りて僖公の徳を称えた詩といわれています。
 
魯の旧政を恢復して徳を納めた僖公は淮で諸侯と会して東略を謀ってから、淮夷を討伐しました。
詩経・魯頌・泮水』は僖公が泮宮(学校)を建てて教化を行ったことを称えた詩ですが、「泮宮を造って徳を明らかにし、淮夷を服従させた(既作泮宮,淮夷攸服)」「威風をともなって征伐し、東南の淮夷を治めた(桓桓於征,狄彼東南)」「淮夷に勝利し、将兵も軍律を犯すことがなかった(既克淮夷,孔淑不逆)」等の句があります。
『毛詩正義』はこの淮夷討伐を僖公十六年(本年)冬、または翌年末の事としています。
 
詩経』からもう一つ紹介します。『魯頌』の最後の詩『閟宮』は僖公が姜嫄の廟を修築したことを称えています。姜嫄とは周の始祖・后稷の母です。姜嫄の廟の修築は僖公が旧制を大切にし、西周建国当初の政治を行おうとしていたことを表しています。
 
[十一] この年、晋の公子・重耳が斉に遷りました。『史記・晋世家』からですい。
秦に大敗して帰国した晋恵公は政治を修め、教化に励みましたが、こう考えました「重耳が国にいる。諸侯が彼を援けて帰国させようとするかもしれない。」
恵公は狄(翟)を送って重耳を暗殺しようとしました。それを知った重耳は斉に奔りました。
重耳の亡命生活については、重耳が晋に帰国する時(東周襄王十六年、前637年)にもまとめて書きます。
 
 
 
襄王十
643 戊寅
 
[] 春、斉が徐と共に英氏を攻めました。二年前に楚が徐を破った婁林の役に報復するためです。
これは『春秋左氏伝』の記述です。英氏は英国を指し、偃姓の国ですが、史記・楚世家』『史記・十二諸侯年表』によると英国は三年前に楚成王によって滅ぼされています(東周襄王七年、646年参照)
斉が攻撃した英は楚の属国となっていたのか、既に国ではなく楚の一邑となっていたのか、詳細は分かりません。
 
[] 夏、晋恵公の太子・圉が人質として秦に入りました。
秦穆公は河東の地を晋に返し、太子・圉に宗女(『列女伝・節義・晋圉懐嬴』によると秦穆公の娘)懐嬴を娶らせました。
惠公(夷吾)が亡命して梁国にいた頃、梁伯が娘(梁贏)を夷吾に嫁がせました。梁贏は妊娠しましたが、予定の日を過ぎても子が産まれません。卜招父とその子が卜い、子が言いました「一男一女を生みます。」
卜招父が言いました「男は人臣となり、女は人妾となるでしょう。」
そこで産まれてきた男児は「圉(制御されるという意味)」と命名され、女児は「妾」と命名されました。古代には不祥な名をつけることで不祥を圧することができるという考えがあったためです。
二人の子が成長すると、子圉は秦の人質となり、妾は宦女(侍女)になりました。
尚、恵公が梁に入ったのは東周恵王二十三年(前654年)のことなので、翌年に太子・圉が産まれたとしてもこの年(東周襄王十年、前643年)はわずか十一歳前後となります(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
[] 魯が項を滅ぼしました。
前年冬に淮で会が開かれたため、魯の釐公は国外にいました。その間に魯が項を占領したため、斉桓公は釐公の指示によるものと思って帰国を禁止し、捕えました。
 
秋、魯釐公の夫人・姜氏(声姜。恐らく斉桓公の娘)が卞で斉桓公に会い、釐公の釈放を求めました。
九月、魯釐公が帰国しました。
 
以上は『春秋左氏伝僖公十七年)』の記述です。しかし『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』(どちらも僖公十七年)は斉が項を滅ぼしたとし、僖公(釐公)が捕えられたとは書いていません。
 
[] 冬十二月乙亥(初八日)、斉侯・小白桓公の訃報が魯に届きました。
以下、『春秋左氏伝僖公十七年)』を元に経緯を書きます。
 
桓公には三人の夫人がいました。王姫、徐嬴、蔡姫です。しかし三人とも子ができませんでした。桓公は色を好み寵愛する姫妾が多数いました。宮内で夫人とほぼ同格の女性は六人おり、長衛姫(衛共姫。共は諡号は武孟(名は「無詭」、または「無虧」。武孟は字)を産み、少衛姫(長衛姫と少衛姫は衛出身の姉妹)は元(恵公)を産み、鄭姫は昭(孝公)を産み、葛嬴は潘(昭公)を産み、密姫は商人(懿公)を産み、宋華子(宋は国名、華は氏、子は姓)は公子・雍を産みました。
桓公管仲は公子・昭を太子に立てて宋の襄公に後見役を託しました。
 
雍巫易牙。雍は食事を掌る官。巫は名。易牙は字)は元々衛共姫に信任され、寺人(宦官)・貂(竪刁)の推挙によって桓公に美食を進めたことから桓公の寵信も得るようになりました。易牙桓公に対して衛共姫の子である武孟を後継者に立てるように勧め、桓公は同意します。

管仲が死に(東周襄王八年、645年)太子・昭の地位がますます不安定になると、五公子(太子・昭以外の五人。『史記・斉太公世家』によると、桓公には十余人の子がいたようです。その中で権力を争ったのは太子と五人の子ですが後継者の地位を求めて対立するようになりました。桓公は後継者に関して曖昧な態度を取り続けていたため、諸公子にとって権力を掌握にするには桓公が邪魔な存在になりました。
桓公が病に倒れると諸公子はそれぞれ徒党を組んで激しく争います。
 
冬十月乙亥(初七日)桓公が死にました。
すると易牙が宮中に入り、宮内で権勢を持っていた竪刁と協力して群吏(諸大夫)を殺しました。二人は公子・無虧(武孟)を擁立し、太子・昭は宋に出奔しました。
十二月乙亥(初八日)、即位した無虧によって桓公の訃告が発せられました。
辛巳(十四日)の夜、桓公の死体が棺に納められました。
 
『管子・小称(第三十二)』には桓公が死ぬ時の様子が書かれています。
桓公が病に倒れると四子桓公の寵臣。易牙、竪刀、堂巫、開方。東周襄王八年、645年参照が政変を起こし、桓公を一室に監禁して外に出られないようにしました。ある日、一人の婦人が小さい孔から部屋に潜り込み、桓公に会いました。桓公が言いました「飢えと渇きに苦しんでいる。なぜ食べ物も飲物もないのだ。」
婦人が答えました「易牙、竪刁、堂巫と公子・開方の四人が斉国を分裂させ、十日に渡って道が閉鎖されています。公子・開方は七百もの書社(書は籍、社は土地の単位なので、七百の村とその民という意味です)を衛に割き与えました。食べ物をここに運ぶことはできません。」
桓公が言いました「ああ、聖人管仲の言とは優れたものだ。死者に知覚がなければいいが、もしも死者に知覚があるようなら、わしはどの顔をして地下で仲父管仲に会えばいいのだ!」
桓公素幭(白い頭巾)で顔を覆って死にました。
死後十一日が経ち、蛆虫が部屋の戸からあふれ出したため、人々は桓公が死んだことをやっと知りました。
 
次は『史記・斉太公世家』から桓公の最期の様子です。
桓公が病に倒れると五公子が徒党を組んで対立しました。
桓公が死ぬとそれぞれが攻撃を開始し、宮中には誰もいなくなります。そのため桓公の死体は棺に入れられず、床の上に放置されました。やがて蛆虫が部屋の戸から外に這い出るようになります。
十二月乙亥、公子・無詭が即位し、棺を用意して訃告を発しました。
辛巳夜、桓公の死体が棺に入れられました
桓公が死んだのは十月乙亥(初七日)で、十二月乙亥は初八日、辛巳は初十四日なので、十月乙亥から十二月辛巳まで六十七日間死体が放置されたことになります。
 
こうして春秋五覇の筆頭に数えられる斉桓公は悲惨な最期を遂げました。斉の内争はまだ続いています。
 
 
 
次回に続きます。