戦国時代55 東周顕王(二十三) 蛇足 前323年(1)

今回は東周顕王四十六年です。二回に分けます。
 
顕王四十六年
323年 戊戌
 
[] 『史記楚世家』によると、楚が柱国昭陽に魏を攻撃させました。楚軍は襄陵で魏軍を破って八邑(または「八城」)を奪います(『今本竹書紀年』は前年に書いています)
 
襄陵の戦いに関して、『戦国策韓策二』に記述があります。
襄陵の戦いが始まると、畢長という者が韓の公叔に言いました「韓が兵を用いるべきではありません(韓は楚も魏も助けるべきではありません)。兵を用いることなく、楚と魏に公の国(韓)を徳とさせることができます(楚と魏に韓を感謝させることができます)。楚は公子高を(魏の太子に)立てようと思って魏に兵を臨ませました(魏の公子・高は楚にいたか、楚と親密にしていたようです)。公は人を送って楚の昭子にこう伝えてください『戦っても勝てるとは限りません。韓が子(あなた)のために兵を起こして魏を攻めることをお許しください。』その後、理由を見つけて実際には兵を出さなければ、太子(魏の太子)、昭揚(楚将・昭陽)、梁王(魏王)とも公の徳を想うようになります。」
 
この記述を見ると、魏では恵王の晩年に後継者争いが起きていたようです。
史記魏世家』によると、魏恵王は東周顕王二十九年(前340年)に公子赫を太子に立てました。上述の『戦国策』には「太子扁」という名があり、恵王の死後に即位する襄王は名を嗣といいます。「公子赫」「太子扁」「襄王嗣」が同一人物かどうかはわかりません。
尚、『史記』では既に恵王が死んで襄王の時代になっています(これは恐らく『史記』の誤りです。東周顕王三十五年・前334年参照)。『史記』によると襄王の死後に即位するのは哀王ですが、哀王の名は残されていません。
資治通鑑』『世本』には哀王がなく、襄王の後は昭王が即位します。昭王の名はといいます。
 
『戦国策』の記述は発生した時間が明記されていないため、この襄陵の戦いは別の時に起きた戦いかもしれません。また、その後、公子高がどうなったのかもわかりません。
 
『楚世家』に戻ります。
魏の八邑を奪った楚は勝ちに乗じて斉に兵を向けようとしました。それを知った斉王が憂いを抱きます。
この時、陳軫縦横家が秦の使者として斉に来ていました。
斉が「どうすればいいだろう?」と問うと、陳軫は「王が憂いることはありません。私に楚兵を退かさせてください」と答え、すぐに昭陽の陣に赴きました。
陳軫が昭陽に問いました「楚国の法をお教えください。敵軍を破って敵将を殺したら、どのような尊貴を得ることができますか?」
昭陽が答えました「その官は上柱国となり、上爵である執珪(楚の爵名)に封じられる。」
陳軫が更に問いました「それよりも尊貴な地位はありますか?」
昭陽は「令尹だ」と答えます。
そこで陳軫はこう言いました「今、あなたは既に令尹の地位にいます。これは国冠(国の最高位。冠は最高位の意味)よりも上の地位です。臣に例え話をさせてください。ある人が自分の舍人に一巵(酒器)の酒を贈りました。舍人達はこう言いました『数人でこれを飲むには量が少ない。地面に蛇の絵を描いて、最初に完成した者が一人で飲むことにしよう。』舎人達が蛇を描き始めると、早速一人が言いました『私の蛇が最初に完成した。』その男は酒を持って立ち上がり、『私は足を描くこともできる』と言って蛇に足を付け加えました。すると後から描き終えた者が酒を奪って飲み干し、こう言いました『蛇には本来足がありません。それなのに足をつけたのですから、あなたが描いたのは蛇ではありません。』
今回、あなたは楚の相として魏を攻撃し、敵軍を破って敵将を殺しました。これ以上の功績はありません。しかし冠(最高位)の上には、これ以上官を加えることができません。今また兵を移して斉を攻撃していますが、斉に勝っても官爵が変わることはなく、逆にもしも負けたらその身は死んで爵位も奪われ、楚国も損なわれます。これは蛇に足をつけるようなものです。兵を退いて斉に徳(恩恵)を与えることこそ、安全を保つ術となります。」
昭陽は納得して兵を還しました。
 
[] 秦の相張儀と斉楚の相(恐らく令尹・昭陽)が齧桑(位置は翟地、晋地、衛地等、諸説あり)で会しました。
これは『史記秦本紀』と『資治通鑑』の記述です。『楚世家』は魏の相も参加したとしており、『魏世家』は「諸侯の執政が秦相張儀と齧桑で会した」と書いています。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に魏恵王と斉威王が鄄(または「甄」)で会したとしています。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が鄗に築城しました。『六国年表』は前年に書いています。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に「斉威王が田嬰を薛に封じ、十月、斉が薛に築城した」「田嬰が初めて彭城に封じられた」と書いています。
史記』『資治通鑑』は田嬰が薛に封じられたのを東周顕王四十八年321年)の事としています(再述します)
 
 
 
次回に続きます。