戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年

今回は東周赧王八年です。
 
赧王八年
307年 甲寅
 
[] 春正月、趙武霊王が信宮で大朝(盛大な朝会)を催し、肥義を召して天下の事を議論しました。
大会は五日にわたって開かれました。
 
[] 秦の甘茂が韓の宜陽を攻めましたが、五カ月経っても攻略できませんでした。
秦国内で樗里子や公孫奭が甘茂を批難し始めます。
 
秦王は甘茂を呼び戻して撤兵させようとしました。しかし甘茂が「息壤は今もあの地にあります」と伝えたため、秦王は「その通りだ」と言って新たに大軍を動員しました。
援軍を得た甘茂は韓軍六万を斬首し、宜陽を攻略しました。
韓の公仲侈が秦に赴いて謝罪し、和を請いました。
 
史記秦本紀』によると、秦軍は黄河を渡って武遂(韓邑)に築城しました。
 
[] 秦と韓の宜陽の戦いは周と楚にも影響を及ぼしました。『史記周本紀』からです。
秦が宜陽を攻めたため、楚が韓を援けようとしました。周も韓のために兵を出します。ところが楚は周が秦を助けるために兵を出したと疑い(下の文を見ると、周と秦は「周秦」と併称されるほど親密な関係にあると目されていたようです)、兵を周に向けました。
蘇代が周のために楚に行き、楚王にこう言いました「なぜ周が秦を援けていると譴責して、禍を招くのですか(楚は周を疑って兵を向けましたが、それは楚にとって禍となります)。周が楚よりも秦を援けていると主張する者は、周を秦に併合させたいのです。だから『周秦』といわれているのです(『索隠』によると、周と秦は近いため、秦は周を併合するために表面上は友好的な態度をとっていました。そのため、諸侯は二国を併称して『周秦』とよんでいました)。周が楚に疑われていると知ったら、必ず秦に入ります。これは秦に周を取らせる巧妙な策です。王のために計るとしたら、周が秦と親しくても親しくなくても、楚は周との関係を善くするべきです。そうすれば周は秦から遠ざかります。もし周が秦との関係を絶ったら、必ず郢(楚都)に入るでしょう。」
 
史記周本紀』はこの後のことを書いていません。
また、『周本紀』にはこれ以外にも周に関する記述がありますが、別の場所で紹介します。
 
[] 『史記秦本紀』『魏世家』によると、魏の太子が秦に来朝しました。
 
[] 秦武王は力戯(力比べ)を好んだため、力士の任鄙、烏獲、孟説が大官に就きました。
 
資治通鑑』胡三省注が姓氏の解説をしています。
烏姓は春秋時代の斉に大夫烏枝鳴という者がいました。
孟姓は魯桓公の子仲孫の後裔です。仲孫は三桓の孟(年長者)だったため、孟氏を名乗りました。
 
『帝王世家』は武王が重用した力士として孟賁と烏獲の名を挙げています。孟賁は孟説を指すと思われます。以下、『帝王世紀』からです。
秦武王は多力(大力)の人材を好んだため、斉の孟賁を連れて帰りました。孟賁は生きた牛の角を抜くほどの力を持っていました。
 
資治通鑑』に戻ります。
八月、武王が孟説と力比べをして鼎を持ち上げました。すると、瞬時に大きな力を出した武王は脈を絶って死んでしまいました。武王の在位年数はわずか四年です。
 
資治通鑑』は「絶脈」としていますが、『史記秦本紀』では「絶臏」と書かれています。「臏」は脚の意味です。
また、『史記甘茂列伝(巻七十一)』は、「武王が周に入り、周で死んだ」としています。武王は周を窺うことが願いだったので(前年参照)、甘茂が宜陽で韓国を破ってから、東進して周に入ったようです。武王が持ち上げたのは天子を象徴する九鼎だったと考えられます。
『帝王世紀』は秦王が洛陽で周鼎を持ち上げた時、烏獲も(鼎を持ち上げて)両目から出血したと書いています。
 
秦は孟説の一族を皆殺しにしました。
 
武王は魏女を娶って后にしましたが、子ができませんでした。
そこで当時、人質として燕にいた異母弟の稷(または「則」)が国人に迎え入れられて即位しました。これを昭襄王といいます。
 
史記趙世家』によると、趙武霊王十八年(十九年の誤り)、秦武王が死んだため、趙王は代相趙固を燕に送って公子稷を迎え、秦に送りました。これが秦昭襄王です。
 
昭襄王の母は羋八子といい、楚の出身です。昭襄王が即位すると宣太后になりました。
 
資治通鑑』胡三省注が羋八子について解説しています。羋は楚国王の姓です。漢代は秦の制度を受け継いだので、漢制から秦の姫妃の名称を知ることもできます。漢代の姫妃の筆頭は皇后(戦国時代は王后)で、その後に夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使と続きます。美人は二千石とみなされ、少上造に匹敵します。八子は千石で中更に匹敵します。
 
[] 趙武霊王が北上して中山の地に進攻しました。
房子から代に行き、更に北に向かって無窮に至ります。
代から北は塞外になり、大漠(砂漠)が数千里も続くため、「無窮」とよばれていました。
その後、西に向かって黄河に至り、黄華山を登りました。
 
この時、武霊王は胡服騎射を百姓に教えることについて肥義と相談しました。胡服騎射というのは異民族の服を着て馬に乗り、矢を射ることです。当時、中原の人々は袍という裾が長い着物を着ており、袍を着たまま馬に乗るのは不便なため、馬車を使っていました。騎馬は文化が遅れた異民族の習慣とされています。
しかし馬車(戦車)は平地での戦いなら威力を発揮しますが、山岳地帯での戦いや攻城戦では役に立ちません。また、春秋時代の軍隊は主に戦車に乗った大夫士によって形成されており、戦闘の規模もあまり大きくありませんでしたが、戦国時代になると国民を総動員した大規模な戦争が繰り広げられるようになり、戦争の形態も多様化、複雑化しています。しかも、周辺の異民族は元々騎馬の習慣があり、圧倒的な機動力をもつ脅威となっていました。
そこで、武霊王は動きやすい胡服(異民族の服)を導入し、騎馬の習慣を育てることにしました。
 
武霊王が言いました「(この決断を)愚者は笑うだろうが賢者は察するはずだ。世の全ての人がわしを笑ったとしても、胡地や中山を必ず我が領土としてみせる。」
武霊王は自ら胡服を着るようになりました。
 
趙の国人は異民族の習慣に染まることに反対しました。公子成も病と称して入朝しなくなります。
武霊王が使者を送って公子成に伝えました「家では親の命を聞き、国では国君の命を聞くものである。今、寡人が民に服を換えることを教えているのに、公叔がそれに服そうとしない。寡人は天下がこれを議論(批難)するのではないかと心配している。国を制するには常(常道)があり、民を利すことを本(根幹)とするべきだ(上の者が国を制するには民の利を考えなければならない)。政治に従うには経(法則)があり、命令を実行することが最も重要とされる(下の者が政治に従うには政令を実行しなければならない)。明徳はまず賎(下の者)から論じられ、政治に従う時は貴(上の者)から信を作らなければならない(徳は下の者から施し、法は上の者から守らなければならない)。公叔の義によって(公叔が模範になることで)、胡服の功を完成させたい。」
公子成が再拝稽首して使者に答えました「中国は聖賢の教えに従い、礼楽を用いている場所だからこそ、遠方の者が観赴(赴いて学ぶこと)し、蛮夷が模倣しているといいます。しかし今、王はこれを棄てて遠方の服を身に着けようとしています。これは古の道を変えて人の心に逆らうことです。王は熟考するべきです。」
使者が帰って報告すると、武霊王は自ら公子成に会いに行ってこう言いました「我が国は東に斉と中山があり、北に燕と東胡があり、西に楼煩があり、秦韓の辺(国境)とも接している。もしも騎射の備えがなかったら、どうしてこれを守ることができるのだ。以前、中山が斉の強兵を借りて我が地に侵暴し、我が民を奪い、水を引いて鄗を包囲した。もし社稷の神霊が無かったら、鄗は守れなかっただろう。先君はこれを趙国の醜(恥)とした。だから寡人は服を換えて騎射を行い、四境の難に備えて中山の怨に報いようと思っているのだ。しかし公叔は中国の俗に従って変服の名を嫌い、鄗の醜を忘れている。これは寡人が望むことではない。」
公子成はやっと命に従いました。
武霊王は公子成に胡服を下賜し、翌日、公子成はそれを着て入朝します。
こうして胡服令が発せられ、騎射の士が集められるようになりました。
 
胡服に関しては『史記趙世家』に詳しく書かれていますが、別の場所で紹介します。
 
[] 『史記魏世家』によると、この年、秦が魏の皮氏を攻めましたが、攻略できず兵を解きました。
『竹書紀年』(今本古本)もこの年に「秦の公孫爰が師を率いて魏の皮氏を攻めたが、魏の翟章が師を率いて皮氏を包囲から救った。西から激しい風が吹いた(疾西風)」と書いています。
しかし『史記樗里子伝(巻七十一)』は翌年に秦の樗里子が蒲を攻めてから皮氏を攻め、攻略できずに兵を還したとしています(東周赧王四年311年参照)
『六国年表』も皮氏の戦いを翌年の事としています。
 
『竹書紀年』の公孫爰は樗里疾を指すという説があります。「爰」は「緩急」の「緩」に通じ、「疾(速い)」と表裏をなす言葉です。名と字は関係があるものなので、恐らく「疾」が名で、「爰」は字になります。但し樗里疾は秦孝公の子なので「公孫」は当てはまりません。
また、「疾西風」の「疾」は樗里疾(公孫爰)、「西風」は地名とする説もあります。
全文は「秦公孫爰率師伐我囲皮氏翟章率師救皮氏囲疾西風」で、「秦公孫爰率師伐我囲皮氏,翟章率師救皮氏囲,疾西風」と区切ると「秦の公孫爰が師を率いて魏の皮氏を囲み、魏の翟章が師を率いて皮氏を包囲から救う。西から激しい風が吹く」となります。この場合、「疾西風」は皮氏の戦いと関係がない、単なる自然現象です。
しかし「秦公孫爰率師伐我囲皮氏,翟章率師救皮氏,囲疾西風」と区切ると、「秦の公孫爰が師を率いて魏の皮氏を囲み、魏の翟章が師を率いて皮氏を救う。疾(樗里疾)を西風で囲む)」となります。
 
 
 
次回に続きます。