戦国時代80 東周赧王(十八) 秦・斉の称帝 前288年

今回は東周赧王二十七年です。
 
赧王二十七年
288年 癸酉
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の董叔と魏氏が宋を攻め、魏の河陽を得ました(原文「董叔与魏氏伐宋,得河陽於魏。」魏氏は魏国だと思いますが、趙と魏が一緒に宋を攻めたのに、魏の河陽を得たという意味が分かりません)
 
[] 秦が趙を攻めて杜陽(または「梗陽」「桂陽」)を占領しました。
 
[] 楊寛の『戦国史』が合従による戦いを書いています。
趙の奉陽君李兌が各国と秦の矛盾を利用し、趙韓五国連合軍を組織して秦を攻めました。しかし斉が協力的ではなかったため、連合軍は成皋に駐軍しただけで、功無く撤兵しました。
 
元となっている記述は『戦国策』で、『趙策四』に「斉が宋を攻撃しようとしている時(二年後)」「李兌が五国と協力して秦を討伐したが、功無く、天下の兵を成皋に留めた」等の記述があります。
戦国史』に詳しい解説がありますが省略します。
 
[] 冬十月、秦王が西帝を称しました。帝は王よりも徳が高く、帝堯、帝舜等、伝説時代の聖人が使った称号です。
 
秦は斉王に使者を送って東帝を称すことを勧め、共に趙を攻める約束をしました。
この時、蘇代が燕から斉に来ました。
斉王が蘇代に問いました「秦が魏冉を派遣して帝を称すように勧めたが、子(汝)はこれをどう思う?」
蘇代が言いました「王は秦の勧めに同意するだけで、実際に称すべきではありません。秦が帝を称して天下が安んじるのを見届けてから、王が帝を称しても遅くはありません。もし秦が帝を称して天下がこれを嫌ったら、王は帝を称さず、天下の人心を収めて大資(大きな資本)にすることができます。また、趙を討伐するよりも桀宋(宋国。二年後に述べます)を討伐した方が利があります。王は帝号を放棄して天下の望(声望。威望)を集め、兵を発して桀宋を討つべきです。宋を征服したら楚、趙、梁(魏)、衛が王を懼れます。こうすることで名目上は秦を尊び、実際は天下に秦を憎ませることができます。これが卑屈によって尊敬を得る(以卑為尊)という計です。」
斉王はこれに同意し、二日間だけ帝を称して再び王号に戻しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記六国年表』は「二カ月」としていますが、二カ月にわたって帝を称したのは秦なので、恐らく『六国年表』の誤りです。
但し、『帝王世紀』は「冬十月、秦昭王が西帝を僭称し、斉閔王(湣王)も東帝を称したが、十一月、秦斉それぞれが帝号を去って王を号した」としています。
 
史記田敬仲完世家』が少し詳しく書いています。
斉王が東帝を称し、秦王も西帝を称しました。
それを聞いた蘇代が燕から斉に入り、章華東門で斉王に謁見しました。
斉王が言いました「よいところに来た。秦が魏冉を派遣して帝を称すように勧めたが、子(汝)はこれをどう思う?」
蘇代が言いました「王の臣に対する問いはあまりにも突然です。患(禍)がある場所というのは、はっきりしないものです。王には(帝号を)受け入れてほしいと思いますが、すぐに称してはなりません。秦が称して天下が安んじてから王が称しても遅くはありません。帝名を争った時、相手に譲っても傷はつきません(だから慌てる必要はありません)。もし秦が帝を称して天下が嫌ったら、王は帝を称さないことで天下を収めることができ、これは大資となります。そもそも、天下に二帝が立ったとして、天下は斉を尊重すると思いますか?秦を尊重すると思いますか?」
斉王が答えました「秦を尊重するだろう。」
蘇代が問いました「(斉が)帝号をあきらめたら、天下は斉を愛しますか?秦を愛しますか?」
斉王が答えました「斉を愛して秦を憎むだろう。」
蘇代が問いました「二帝が立って趙討伐を約束するのと、桀宋を討伐するのとでは、どちらに利がありますか?」
斉王が答えました「桀宋を討伐した方が利がある。」
蘇代が言いました「約(盟約)とは平等なものです。しかし秦と共に帝を称したら、天下は秦だけを尊重して斉を軽視します。帝号をあきらめたら天下が斉を愛して秦を憎みます。趙を討伐するよりも桀宋を討伐した方が利があります。ですから、王は帝号を棄てることを明らかにして天下の人心を収め、約(盟約)から離れて秦を拒否し、重軽(帝号)を争うことなく、隙に乗じて宋を平定するべきです。宋を擁したら衛の陽地(濮陽)が危うくなり、済西(済水西)を擁したら趙の阿東国(東阿以東)が危うくなり、淮北を擁したら楚の東国が危うくなり、陶と平陸を擁したら梁門(魏に通じる道)が開かなくなります。帝号を棄てて桀宋を討伐すれば、国が重んじられ名が尊ばれ、燕楚も形勢に従って斉に服し、天下で斉に逆らう者がいなくなります。これこそが湯武(商の成湯と西周武王)の挙です。名義上は秦を敬い(秦に帝を名乗らせ)、実際は天下に秦を憎ませるのは、卑屈になって尊敬を得るというものです。王はよく考えるべきです。」
斉は帝号を廃して再び王を名乗りました。秦も帝位を去りました。
 
資治通鑑』も『史記田敬仲完世家』も蘇代の言葉としていますが、以前にも書いた通り、馬王堆で発掘された『戦国縦横家書』は蘇秦の活躍した時代をかなり後のこととしているため、この発言も蘇秦によるものとする説があります。中国国際広播出版社の『戦国史話』も蘇秦と湣王の会話としており、楊寛の『戦国史』も蘇秦が進言したとしています。
 
[] 十二月、斉の呂礼が秦に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、太嶽が禹夏王朝の祖)の「心呂(心と脊骨。重要なことの譬え)の臣」だったため呂侯に封じられ、その子孫が呂を氏にしました。
資治通鑑』には詳細がありませんが、『新唐書(巻七十五)』が呂氏について書いており、呂礼の記述もあります。呂礼は斉康公(田斉ではなく呂尚を祖とする斉)の七世孫にあたります。秦昭襄王十九年(本年)に斉から秦に奔り、柱国、少宰、北平侯になりました。
 
史記孟嘗君列伝(巻七十五)』も呂礼について書いており、呂礼を秦の亡将(亡命した将)としています。あるいは東周赧王二十一年(前294年)に秦から魏に出奔した「五大夫礼」が呂礼で、魏から斉に来たのかもしれません。しかし斉から再び秦に帰ることになります。
以下、『孟嘗君列伝』からです。
秦の亡将呂礼が斉の相となり、蘇代を陥れようとしました。
それを知った蘇代が孟嘗君田文に言いました「周最(周冣。『正義』には「周の公子」とあります。周王室ではなく、西周国の公子だと思われます)は斉において至厚(忠心が厚いこと)であったのに、斉王は彼を追い出し、親弗(または「祝弗」。人名)を信任して呂礼を相にしました。これは斉王が秦と結びたいからです。斉と秦が同盟したら親弗と呂礼が重んじられ、彼等が重用されたら斉と秦があなたを軽視するようになります。あなたはすぐに北へ兵を向けて、趙国と秦魏の講和を促し(斉が出兵することで秦と趙・魏を同盟させ、秦と斉の同盟を妨害し)、周最を招いて厚遇するべきです。そうすれば斉王の信任を取り戻し、天下の変化(斉秦が孟嘗君を軽視すること)を抑えることができます。斉が秦と結ばなければ、天下は斉に集まり、(秦との同盟を推す)親弗は斉にいられなくなります。その時、斉王が国を共にするのは、あなたしかいないでしょう。」
孟嘗君がこれに従ったため、呂礼は孟嘗君を憎んで害を加えようとしました。
孟嘗君は呂礼を警戒し、秦相である穰侯魏冉に書を送りました「秦が呂礼を使って斉と結ぼうとしていると聞きました。斉は天下の強国です。(秦と斉の同盟が成功したら、秦王は呂礼を尊重し)(あなた)は必ず軽んじられるようになるでしょう。また、斉と秦が結んで三晋に対するようになったら、必ず呂礼が秦斉両国の相を兼任します。これは子によって斉と通じながら呂礼の地位を重くするようなものです(恐らく「秦の相として魏冉が斉と同盟を結んでも、呂礼の手柄になる」という意味です)。たとえ斉が天下(諸侯)の兵(攻撃)から免れたとしても、深く子(あなた)を怨むはずです(恐らく、魏冉は斉とのつながりがないからです。呂礼が尊重されれば相対的に魏冉の地位が下がり、斉から敵対視されます)。子は秦王に斉討伐を勧めるべきです。斉が破れたら、私が子に土地を封じるように請いましょう。斉が破れたら秦は晋(魏)が強くなることを畏れ、必ず子を重用して晋と結ぼうとします。晋国は斉のために疲弊しており、しかも秦を畏れているので、必ず子を重んじて秦と結ぼうとします。こうして子は斉を破って功を立て、晋を利用して重んじられるようになります。また、斉を破れば封地を定めることができ、秦と晋が共に子を尊重するようになります。もし斉を破ることができなかったら、呂礼が再び用いられて子が困窮することになります。」
穰侯が秦昭王に斉討伐を進言したため、秦斉の同盟に失敗した呂礼は斉から離れました(この後、秦に帰国したはずです)
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年に任鄙(漢中守。東周赧王二十一年294年参照)が死にました。
 
[] 『史記秦本紀』はこの年に斉が宋を滅ぼしたとしていますが、二年後の誤りです。
 
 
 
次回に続きます。