年の表し方

譚家健の『中国文化史概要』を元に、中国古代の暦法や時間の概念、表し方等に関して簡単に解説しています。今回は「年」について書きます。
 
現代は西暦を使っているので、「2016年」「2017年」や「紀元前100年」「紀元前99年」というように年を表すことができます。しかし古代の中国には西暦がなかったため、全く異なる方法で年を表していました。
その代表が「歳星紀年法」「太歳紀年法」と「干支紀年法」です。
 
「歳星紀年法
まず、天の赤道(地球の赤道を天球まで延長させた円)を基準に天球を十二等分して、西から東に星紀玄枵娵訾降婁大梁実沈鶉首鶉火鶉尾寿星大火析木という名をつけます。これを十二星次といいます。古人は歳星木星。単に「歳」ともいいます)が十二年で地球を一周し(実際は11.86年で一周します)、毎年一つの星次を通ると考えていたため、歳星がいる場所を使って年を表しました。
例えば歳星が地球を一周する最初の年は「星紀」にいるので、「歳在星紀」と表します。「歳星が星紀にいる年」という意味です。
翌年は歳星が「玄枵」に移るので、「歳在玄枵」です。十二年後には「歳在析木」となり、その翌年は最初の「歳在星紀」に戻ります。
 
「太歳紀年法
「歳星紀年法」を元にして十二地支で年を表す方法です。
まず天の赤道を十二等分し、東から西に向かって十二地支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を置きます。「歳星紀年法」の星次は西から東でしたが、「太歳紀年法」は逆の東から西です。その上で古人は太歳という架空の星を考え出し、実際に存在する歳星と逆の方向に移動すると想定しました。歳星は西から東に移動するので、太歳は東から西に移動することになります。
例えば、実際に存在する歳星が「星紀」にいる年は、架空の星・太歳は「星紀」の逆に位置する「析木」にいると想定しました。「析木」は十二地支の「寅」にあたります(十二地支の「子」は「玄枵」になります。下図参照)
よって、「歳星紀年法」における「歳在星紀」は、「太歳紀年法」では「太歳在寅」と表されました。「太歳が寅にいる年」という意味です。
翌年は歳星が「玄枵」に移るので、太歳は「大火」にいることになります。「大火」は十二地支の「卯」にあたるので、この年は「太歳在卯」になります。
こうして十二年が十二地支で表わされるようになりました。
 
「歳星紀年法」「太歳紀年法」と十二地支の関係を表にします。
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古人は十二の太歳年に十二地支以外の名もつけました。
摂提格(寅)、単閼(卯)、執徐(辰)、大荒落(巳)、敦牂(午)、協洽(未)、涒灘(申)、作噩(酉)、閹茂(戍)、大淵献(亥)、困敦(子)、赤奮若(丑)で、これを「歳陰」といいます。
西漢初年になると、十天干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)に呼応する十の名称が作られました。閼逢(甲)、旃蒙(乙)、柔兆(丙)、強圉(丁)、著雍(戊)、屠維(己)、上章(庚)、重光(辛)、玄(壬)、昭陽癸)で、これを「歳陽」といいます。
歳陽は歳陰(十二の太歳年)と順に組み合わされました。第一年は「閼逢摂提格」、第二年は「旃蒙単閼」となり、六十年で一周します(奇数は奇数、偶数は偶数と組み合わされます。「閼逢摂提格」は歳陽も歳陰も一つ目、「旃蒙単閼」はどちらも二つ目です。「閼逢単閼」という組み合わせはできません)
司馬遷の『史記・暦書』は西漢太初元年(前104年)からこの名称を使っており、司馬光の『資治通鑑』にも記載されています。
但し、「閼逢摂提格」といった名称は読むのが困難で意味も分かりません。外国語が取り入れられて音訳されたのではないかという説もありますが、どうして生まれたのかは謎です。
 
「干支紀年法
歳星木星は十二年で地球の周りを一周すると考えられていましたが、実際には少し速いため、八十六年で一つの星次を越えることになります。つまり、「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は天体の動きを元に年を表していたのに、長い時が経つと実際の年と天体の動きが合わなくなるということがわかりました。そのため「歳星紀年法」と「太歳紀年法」は使われなくなり、「干支紀年法」に改められました。
これは実際の天象から離れて一年ごとに名をつける方法です。使われたのは既に登場している十天干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二地支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)で、上述の「閼逢摂提格」「旃蒙単閼」を簡単にしたものと考えられます。
干支そのものは古くから使われていましたが(主に「日」を表すために使われました)、正式に年を表す名称として使われるようになったのは、東漢後漢光武帝建武三十年54年)のこととされています。
「甲子」「乙丑」「丙寅」と始まり、「閼逢摂提格」「旃蒙単閼」などと同じように六十年で一周します。これを「六十甲子」といいます。
 
東漢の頃から、民間では十二地支に動物をあてはめました。これを「十二生肖」といいます。子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兔、辰は龍、巳は蛇、午は馬、未は羊、申は猿、酉は鶏、戌は狗(犬)、亥は猪(日本では野生の猪ですが、本来は豚を指し、中国では今でも豚です)です。
後世では動物を使って「馬年」「兔年」などと表すようになり敦煌の古文等)、中国では現在でも「鼠年」「虎年」などと呼んでいます。
 
 
史書における年の記録
歴史家は早くから帝王の在位年によって年の記録をしてきました。これを帝王紀年といいます。例えば周平王元年、桓王元年等で、元年、二年、三年と続き、国君が死ぬまで続きます。通常は旧君が死んだ翌年が新君の元年とされました。
春秋戦国時代(または西周末以降)は天子である周王の紀年だけでなく、各国諸侯でも紀年の体系が整えられました。例えば『春秋』や『左伝』は魯君の在位年数を使い、『国語・晋語』では晋君の年数を使っています。『竹書紀年』は特殊で、古くは夏、商、周三代の紀年を使い、周幽王以降の記述では晋君の紀年を使い、晋が三家に分裂してからは魏君の紀年を使っています。これは『竹書紀年』が魏で編纂された史書だからです。
 
西漢武帝から年号が使われるようになりました。紀元前140年の建元元年が年号の始まりとされています(異説もあります)
大事件が起きたり瑞祥が現れたら改元することが多く、一人の皇帝がいくつもの年号を持つこともありました。西漢武帝は十一回改元し、武則天則天武后は十八回も改元しています。
しかし明清時代になると一人の皇帝は一つの年号だけを使うようになり(明の英宗と清の太宗は例外です)諡号や廟号ではなく年号で皇帝を表すようになりました。例えば明の成祖(廟号)は永楽という年号から永楽皇帝と呼ばれており、同じように明の武宗は正徳皇帝、清の聖祖は康熙皇帝、高宗は乾隆皇帝と呼ばれています。
また、三国時代南北朝時代、宋遼金など、分裂の時代はそれぞれの政権が年号を立てました。年号は政権樹立の象徴ともいえます。
辛亥革命後、中華民国民国紀元を使いました。現在も台湾で継承されています。
しかし大陸では新中国中華人民共和国成立後、年号を廃止して公元紀年(西暦)に統一しました。
 
国史で確認できる一番古い年は西周共和元年(前841年)で、それ以前の年は全て後世に推測、逆算されたおおよその年です。前841年以降は途切れることなく現在も年代記が継続されています。
 
 
次回は四季と十二月です。