戦国時代40 東周顕王(八) 申不害 前352~349年

今回は東周顕王十七年から二十年です。

顕王十七年
352年 己巳
 
[] 史記秦本紀』によると、この年、秦の衛鞅が大良造に任命されました。
資治通鑑』胡三省注には、「大良造は大上造の意味。もしくは大上造の中でも優れた者を指す」と解説しています。
 
[] 秦の大良造衛鞅が魏を攻撃しました。
資治通鑑』は秦が魏のどこを攻撃したか書いていませんが、『史記秦本紀』は「魏の安邑を包囲して降した」としています。
但し、胡三省注は「安邑は魏の首都であり、当時の魏はまだ強盛な兵力を持っていたので、安邑が秦に降るはずがない」として、『秦本紀』を否定しています。
 
[] 諸侯が魏の襄陵を包囲しました。
これは『史記魏世家』と『資治通鑑』の記述です。
『竹書紀年』は二年前から前年にかけて諸侯が魏を包囲した事を書いています(再述はしません)
 
[] 『史記魏世家』によると、魏が長城を築いて固陽に塞を置きました。
史記・正義』が魏の長城について解説しています。魏の長城は鄭の洛水沿岸から北の銀州(以下、唐代の州名)に達し、勝州の固陽に至ります。ここが塞(要塞。軍事拠点)になりました。固陽には連山があり、東は黄河、西南は夏会等の州に至ります。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、燕が趙を攻めて濁鹿を包囲しました。しかし趙霊王と代人が濁鹿を救い、燕軍を勺で破りました。
 
当時の趙の国君は成侯のはずです。『古本』は本年ではなく東周顕王四十八年(前321年。趙は武霊王の時代です)の事としているので、恐らく、『今本』の誤りです。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、晋(魏)が玄武と濩沢を取りました。
『古本』は「梁恵成王十九年」の事としており、本年(東周顕王十七年・前352年)に当たるため、『今本』も本年に書いています。
但し十年前の東周顕王七年(梁恵成王九年362年)には『古本』に「晋が泫氏を取る」という記述がありました。泫氏は趙領です。
今回の「玄武」は「泫氏」の誤記で、「梁恵成王十九年」も「梁恵成王九年」の誤り、つまり十年前の出来事が重複して書かれているようです。
または、十年前に泫氏(玄武)を取り、本年に濩沢を取ったのかもしれません。
 
 
 
翌年は東周顕王十八年です。
 
顕王十八年
351年 庚午
 
[] 秦の衛鞅が魏の固陽を包囲して降しました。
 
[] 魏が邯鄲を趙に返還し、趙と漳水の上で盟を結びました。
 
資治通鑑』胡三省注が『礼記曲礼』を元に「盟」の解説をしています。盟は犠牲を殺して歃血(血をすすったり口の横に塗る儀式)し、神に誓うことです。天下が太平な時には、諸侯は勝手に盟を結ぶことができず、天子が巡行して会を開いてから諸侯と盟を結びました。目的は各国が共通の好悪(善悪の基準)をもち、王室を助け、事神(神に仕えること)訓民(民を教化すること)事君(君主に仕えること)を明らかにすることにあります。盟に疑いをもつ国には呪詛がかけられました。
春秋五霸の時代になると、有事の際には諸侯が会し、不協の者が現れると盟を行うようになりました。
盟の儀式では、まず地面に方坎(四角い穴)を掘り、坎の上で犠牲を殺して左耳を取ります。それを珠盤に盛り、血をとって玉敦を満たします。その血で盟書が作成され、書き終えたら歃血して盟書を読み上げました。
 
[] 韓昭侯が申不害を相に任命しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、四岳の後裔が申に封じられたため申氏が生まれました。周王朝には申伯がおり、鄭には大夫申侯、斉には申鮮虞という人物がいました。
 
申不害は鄭の賎臣(身分が低い臣)でしたが、黄老(黄帝老子)や刑名(法家)の書を学んで昭侯に遊説した結果、信任されて相になりました。
申不害は「法」を重視するだけでなく、「術」の重要さを説きました。「術」とは抽象的な概念ですが、一般的には、臣下や民衆を統制するための「術数」「術策」のことだといわれています。
「法」は国民に公開して遵守させる具体的な決まりです。それを徹底させるためには、目に見えない「術」を用いて民を治め、力によって「法」を行わせなければならない、というのが申不害の主張です。
申不害の思想は後に法家の思想を大成させる韓非子に大きな影響を与えました。
 
申不害は、国内では政敎を修め、国外では諸侯とうまく接しました。韓は戦国七雄の中で最も弱小な国でしたが、十五年後に申子が死ぬまで、国が治まり強兵を保つことができました。
 
史記韓世家』は「申不害が韓の相となり、術を修めて道を行ったため、国内が治まって諸侯が侵伐に来なくなった」と評価しています。
 
かつて、申不害が従兄の仕官を求めたことがありました。しかし昭侯は拒否します。
申子が怨色を表したため、昭侯が言いました「子(汝)に教えを請うているのは国を治めたいからだ。子の願いを聞いて子の術(方策。教え)を廃すべきか、子の術を行って子の願いを廃すべきか。子はかつて寡人に功労を重視してその大小によって賞するように教えた。しかし今、子は私情によって要求している。わしはどの教えに従えばいいのだ。」
申不害は辟舍(自分の家から離れること。正室、寝室に寝泊まりしないこと。謝罪の意味を表します)して謝罪し、「主公は真に賢人です」と言いました。
 
昭侯には古くて痛んだ袴がありました。昭侯はそれをしまっておくように命じます。
侍者が言いました「国君は仁者ではありません。(傷んだ袴すら)左右の者に下賜せず、しまっておくとは。」
昭侯が言いました「明主は一嚬(眉間に皺を寄せること)一咲(笑うこと)を大切にするという。嚬には嚬の理由があり、咲には咲の理由があるものだ。この袴に嚬咲があるというのか(明主は一挙一動を大切にしており、行動の全てに理由がある。痛んだ袴を下賜する理由があるか)。功がある者が現れるのを待たなければならない。」
 
これらの故事は申不害を用いた昭侯も優れた君主だったことを示しています。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、秦が趙の藺を攻撃しました。
 
[] 『史記六国年表』によると、秦が商塞に城を築きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、斉が防備のために長城を築きました。
『古本』はこの時の斉の国君を「閔王」としていますが、恐らく「威王」の誤りです。
 
 
 
 
翌年は東周顕王十九年です。
 
顕王十九年
350年 辛未
 
[] 秦の商鞅が咸陽に冀闕宮庭(宮門宮殿)を築きました。秦の国都が咸陽に遷されます。
 
[] 秦の商鞅は約十年前(東周顕王十年359に変法改革を始めました。この年も新たに法令を制定します。
まず、父子や兄弟が同室に雑居することを禁止しました。
中原では人倫や長幼の礼によって父子や兄弟の家族が同じ部屋に住むことは忌避されていましたが、秦には西戎の習俗が残っていたため、複数の家族が雑居し、男女や長幼の秩序が欠けていました。そこで商鞅は世帯ごとに分居するように命じました。
 
また、小郷聚(村落。比較的大きい村落は「郷」、小さい村落は「聚」)を合併して県とし、県には令、丞(「丞」は副の意味)という官員を置きました。秦は三十一県に分けられます(『資治通鑑』と『史記六国年表』は三十一県。『史記秦本紀』では四十一県)
更に井田制を廃止して農地の制限を解き、広く開墾を奨励しました。分居によって戸数が増えたことも開墾を促しました。
資治通鑑』にはありませんが、『史記秦本紀』には秦の東部が洛水以東に及んだとあります。
 
商鞅は斗、桶(斛)、権、衡、丈、尺(容量、重量、長さの単位)の統一も行いました。
 
[] 秦と魏が彤(『資治通鑑』胡三省注によると、西周時代、彤伯が封じられた国)で会いました。
 
[] 趙成侯が在位二十五年で死にました。
公子緤が太子語と位を争いましたが、敗れて韓に走りました。太子語が即位します。これを粛公といいます。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、魏王が衛に入り、公子南を侯に封じました。
『古本』に少し詳しく書かれています。
衛の将軍文子は子南彌牟といい、その後代に子南固と子南勁がいました。以前、子南勁が魏に朝見したため、後に魏恵成王が衛に入り、子南を侯に封じました。
 
子南彌牟は東周元王六年(前470年)以降、何回か登場した公孫彌牟と同一人物で、字を子之といい、子南は氏です(または「南氏」ともいいます)。『世本秦嘉謨輯補本』によると、衛霊公春秋時代の子に当たる昭子郢の字が子南だったため、その子孫が子南を氏にしました。彌牟は公孫なので、昭子郢の子のようです。
彌牟と子南勁の間に何代の隔たりがあるかはわかりません。
韓非子説疑』に「衛の子南勁」の名があり、「徒党を組んで国君に仕え、正道を隠して自分のために行いを曲げ、上は国君に迫り、下は政治を乱し、外国と結んで国内を混乱させ、下の者と親しくして上の者に対抗する方策を練った」という評価がされています。
子南勁は魏に取り入ることで権力を得たのかもしれません。

尚、子南勁が侯に封じられたとありますが、封地が分かりません。『漢書武帝紀』の注釈では、子南が衛侯になったとしています。当時の衛は成侯(顕王七年・前362年即位)の時代で、顕王三十六年(前333年)に成侯が死んで平侯が立ちます。あるいは成侯、平侯のどちらかが子南で、即位の年に誤りがあるのかもしれません。 
 

 
翌年は東周顕王二十年です。
 
顕王二十年
349年 壬申

[] 『史記六国年表』によると、この年に秦が県を置きました。
秦は前年に県の区画編成を開始しましたが、本年になって実際に県令が派遣されたのかもしれません。
また、県令の下に秩史(秩吏。俸禄を与えられる地方の官吏)が設けられました。
 
[] 『史記趙世家』はこの年、趙粛侯が晋君から端氏(地名。東周顕王十年359年参照)を奪い、屯留に遷したと書いています。
 
[] 『史記韓世家』『六国年表』『古本竹書紀年』に「韓姫がその君悼公を殺した」とあります。「韓姫」は「韓玘」「韓●(足ヘンに「己」)」とも書かれる韓の大夫のようです。悼公が誰を指すのかは不明です(『史記』では、韓は昭侯の時代です)
 
 
 
次回に続きます。