戦国時代38 東周顕王(六) 宋の内乱 前355~354年

今回は東周顕王十四年と十五年です。
 
顕王十四年
355年 丙寅
 
[] 斉威王と魏恵王が郊野で会って狩りをしました。以下、『史記田敬仲完世家』と『資治通鑑』からです。
魏恵王が「斉にも宝がありますか?」と問うと、斉威王は「ありません」と答えました。
魏恵王が言いました「寡人の国は小さいものですが、それでも前後十二乗の車を照らすほどの直径一寸の珠が十枚もあります。斉は千乗の車を擁す大国なので宝がないはずがありません。」
すると斉威王はこう言いました「寡人が宝としているものは、王(魏恵王。実際にはまだ王を称していませんが、原文のまま訳します)とは異なります。私には檀子(『資治通鑑』胡三省注によると、斉の公族で瑕丘の檀城を食邑とする者が地名の檀を氏にしました。『史記索隠』によると、「子」は大夫の美称です)という臣がおり、彼に南城(斉の南境の城)を守らせているので、楚人は敢えて寇せず(侵さず)、泗上十二諸侯(邾、莒、宋、魯等)が我が国に来朝しています。私には盼子(『資治通鑑』胡三省注によると、田斉と同姓。田肦)という臣がおり、彼に高唐を守らせているので、趙人が敢えて河黄河の東岸で漁をしなくなりました。私の官吏に黔夫(黔が姓氏)という者がおり、彼に徐州を守らせているので、燕人が北門を祭り、趙人が西門を祭るようになりました(燕は斉の北、趙は斉の西にあります。両国は斉を恐れているので、福を求めるために斉の北門と西門を祭ったようです)。また、彼に従って投じた者は七千余家に上ります。私には種首という臣がおり、彼に盗賊の備えをさせているので、道で落ちている物を拾って着服するような民がいなくなりました。この四臣は千里を照らすこともできます。十二乗の車を特異とすることはありません。」
魏恵王は自分の発言を後悔して恥じ入りました。
 
[] 秦孝公と魏恵王が杜平(または「社平」)で会しました。
資治通鑑』胡三省注によると、杜平は周代の杜伯の国のようです。
 
[] 魯共公が在位二十二年で死に、子の康公(または「屯」)が立ちました。
これは『資治通鑑』と『史記魯周公世家』の記述を元にしました。『史記六国年表』では二年後の東周顕王十六年(前353年)に魯共公が死んだとしています。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、魏が栄椽(良木)を趙に贈りました。趙はそれを使って檀台(楼台の名)を築きました。
 
[] 『史記魏世家』によると、魏が宋の黄池を侵して占領しましたが、宋が取り返しました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、秦の公孫壯が鄭を攻撃し、焦城を包囲しましたが勝てませんでした。
公孫壯は兵を率いて上枳、安陵、山民(または「山氏」)に城を築きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、邯鄲(趙)が衛を攻めて漆富邱(または「漆」と「富邱」)を取り、城を築きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、斉と燕が水で戦い、斉軍が敗走しました。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、邯鄲(趙)で四曀(「曀」は昼間なのに夜のように暗くなること。このような現象が四回起きたようです)が起き、家屋が倒壊して多くの人が死にました。
 
 
 
翌年は東周顕王十五年です。
 
顕王十五年
354年 丁卯
 
[] 秦が魏を元里で破り、七千級を斬首しました。
秦の法では、戦で敵一人の首を斬ったら爵一級が与えらました。そのため首は「級」で数えられます。
 
秦が少梁を取りました。
 
[] 魏恵王が趙を攻め、邯鄲を包囲しました。楚王が趙を援けるために景舍を送りました。
これは『資治通鑑』の記述です。胡三省注によると、楚の昭、屈、景氏は楚王と同姓で、楚の強族です。
 
『戦国策楚策一』にこの時の景舎に関する記述があります。
魏が趙の邯鄲を包囲すると、楚の昭奚恤が楚王に言いました「王は趙を援けず、魏を強くさせるべきです。魏が強くなれば必ず趙の奥深くの地まで割譲させようとします。趙はそれに従うはずがないので、必ず堅守します。その結果、双方が疲弊します。」
景舎が言いました「それは違います。昭奚恤にはわからないのです。魏が趙を攻める時は、楚に後ろを襲われることを恐れています。今、趙を救わなければ、趙は滅亡の形勢に陥り、しかも魏は楚を恐れる必要がなくなります。これは楚と魏が一緒になって趙を滅ぼすのと同じであり、趙の害は必ず深くなります。(一方的に趙が滅ぶのに)両者が疲弊することはありません。しかも、魏が兵を動員して趙の奥深くまで地を割かせ、趙に滅亡が迫っているのに、もし楚が趙を援けなかったら、趙は魏と結んで楚と対抗する方法を考えるようになります。王は少数の兵を出して趙を援ける姿を見せるべきです。そうすれば、趙は強国楚に頼って必死に魏と戦います。魏は趙の必死な抵抗に憤激し、しかも楚の援軍が少数で恐れるに足りないと知れば、趙を許さなくなります。このようにして趙と魏を共に疲弊させ、その間に斉と秦が楚に呼応すれば、魏を破ることができます。」
楚王は納得して景舎に趙を援けさせました。
後に邯鄲が攻略されると(翌年)、楚は睢水と濊水の間の地を占領しました。
 
『竹書紀年』(今本古本)にも景舎の名が見られますが、『資治通鑑』『戦国策』とは異なります。
宋の景●(「善」の右に「攴」)と衛の公孫倉が斉と兵を合わせて魏の襄陵を包囲しました。
しかし翌年、魏王が韓軍を率いて襄陵で諸侯の軍を破りました。
そこで、斉侯が楚の景舍を派遣して魏に講和を求めました(翌年、再述します)
 
[] 『今本竹書紀年』によると、斉の田期が魏の東鄙(東境)を攻めて桂陽で戦い、魏軍が破れました。
「田期」は『史記』『資治通鑑』では「田忌」と書かれます。『竹書紀年』や『戦国策』には「田臣思」「田期思」「徐州子期」といった名も登場し、『孫臏兵法』では「陳忌」とも書かれていますが、全て同一人物です(名は忌、字は期で、徐州を食邑としたようです)
 
『今本竹書紀年』の「桂陽の戦い」は『史記』『資治通鑑』等の「桂陵の戦い(翌年)」に当たるという説もありますが、『今本竹書紀年』は本年に「桂陽の戦い」を書き、翌年に「邯鄲の師(趙軍)が桂陵で魏を破った」と書いています(翌年再述します)

桂陽と桂陵は別の場所なので、「桂陽の戦い」と「桂陵の戦い」は別の戦だと考えた方が自然です。
『古本竹書紀年』にも「桂陽の戦い」と「桂陵の戦い」が書かれていますが
(内容は『今本』と同じです)、発生した年がわかりません。

 
[] 『今本竹書紀年』によると、東周が鄭(韓)に高都の地を譲りました。
『古本竹書紀年』は東周が鄭に高都と利の地を譲ったとしています。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、鄭釐侯(韓昭侯)が魏の中陽に来朝しました。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、宋の剔城肝がその君(璧兵)を殺して自立しました。
 
史記宋微子世家』では、東周烈王六年(前370年)に宋辟公(「辟兵」。または「璧兵」)が在位三年で死に、子の剔成(または「剔成君」)が即位したとしており、『古本竹書紀年』が書いている内乱はありません。
 
しかし宋の内乱は『韓非子』にも記述があり、『二柄』では子罕、『内儲説下』では皇喜が宋君を殺したとしています。子罕と皇喜は同一人物で、「司城子罕」とよばれています。「司城」が「剔城」に、「罕」が「肝」に当たるようです。
子罕の氏は戴で、西周時代の宋戴公の子孫です。
 
史記』も『資治通鑑』もこの重大な出来事を書いていませんが、『竹書紀年』の「剔城肝」、『韓非子』の「子罕」「皇喜」が君位を簒奪して即位したことが事実なら、子姓の宋国が戴氏に乗っ取られたことを意味します。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、一羽の鶴が郢(楚都)の市の上を飛んで三回旋回しました。
 
 
 
次回に続きます。