2015-03-01から1ヶ月間の記事一覧
今回で東周襄王十七年が終わります。 [八] 周襄王は鄭攻撃に協力した狄(翟)に感謝し、狄君の娘を王后に迎え入れることにしました。 富辰が諫めて言いました「いけません。『恩恵を施す者は報いを求めて限りないのに、恩恵に報いる者はすぐ嫌になる(報者倦…
今回も東周襄王十七年の続きです。 [六] 周襄王が晋文公の即位を認めて太宰・文公(周王の卿士・王子虎)と内史・興(叔興父)を派遣し、文公に国君としての命を下しました。晋は上卿が国境まで出迎え、文公自ら郊外で慰労し、宗廟に館を設け、九牢(牛・羊…
今回は東周襄王十七年の続きです。 [二] 以前、晋公子・重耳の財物は豎(未成年の侍臣)・頭須が管理していました。重耳が出奔した時、頭須は財物を隠して逃走しましたが、暫くして晋国に戻り、重耳が帰国できるように財物を使って画策しました。 文公が即位…
晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。今回で最後です。 東周襄王十六年(前637年)十月(本編では九月)、晋恵公が死にました。 十二月(本編では翌年正月)、秦穆公が重耳を晋に入れます。一行が黄河まで来た時、狐偃が重耳に璧玉を還して言いました「…
重耳の亡命生活を書いています。 重耳が秦に入ると、秦穆公は五人の女性を重耳に娶らせました。晋の太子・圉の妻だった懐嬴もその一人です。 重耳が懐嬴に盥(たらい)を持たせて手を洗いました。新婦が盥を持って新郎に侍るのは婚姻の礼の一環です。 本来、…
晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。『国語・晋語四』を元にしています。 重耳一行が衛から曹に移りましたが、曹共公も礼を用いませんでした。 曹共公は重耳が骿脅(胼脅。肋骨が繋がっている異相)だと聞いていたため、その様子を見てみたいと思いま…
晋の公子・重耳が十九年の亡命生活を経て帰国し、国君の位に即きました。 春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2) 春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1) 本編では『春秋左氏伝(僖公二十四年)』の記述を主な資料として亡命中の様子…
今回から東周襄王十七年です。四回に分けます。 襄王十七年 叔帯元年 前636年 乙酉 [一] 春正月、秦穆公が重耳を晋に送りました。 『韓非子・十過』によると、穆公は革車(兵車)五十乗、畴騎(精鋭騎兵)二千、歩卒五万を動員して重耳を護衛したそうです。 …
今回は東周襄王十六年の続きです。 [七] 晋恵公の死(前回)を聞いて、公子・重耳が帰国します。 今回は『春秋左氏伝(僖公二十三年)』を主な資料にして重耳の亡命生活を書きます。 重耳が蒲にいた時、晋献公が寺人(宦官)・披(勃鞮)を送って重耳を襲い…
今回から東周襄王十六年です。二回に分けます。 襄王十六年 前637年 甲申 [一] 春、斉孝公が宋を攻め、緡(閔)を包囲しました。 宋が斉の盟(東周襄王十二年、前641年)に参加しなかったことを討伐の理由とし、宋が楚に大敗(前年)した混乱を狙って攻撃し…
今回は東周襄王十五年です。 襄王十五年 前638年 癸未 [一] 春、魯釐公が邾を攻めて須句を取り、須句の国君を帰らせました。 [二] 三月、鄭文公が楚に入朝しました。 夏、宋公(襄公)が衛侯(文公)・許男・滕子と共に鄭を攻めました。鄭が楚に従っているた…
今回は東周襄王十三年からです。 襄王十三年 前640年 辛巳 [一] 春、魯が南門を改築しました。南門は「稷門」といいましたが、釐公によって他の門よりも大きくなったため「高門」とよばれるようになりました。農時に影響を与えた工事でした。 [二] 『春秋』…
今回は東周襄王十年からです。 襄王十一年 前642年 己卯 [一] 春正月、宋公(襄公)が曹伯(共公)や衛・邾と共に斉を攻めました。斉の太子・昭を擁立するためです。 三月、斉人は宋を恐れて前年即位した無虧(武孟)を殺しました。無虧には諡号がありません。…