2015-03-01から1ヶ月間の記事一覧

春秋時代62 東周襄王(二十二) 周の内争 前636年(4)

今回で東周襄王十七年が終わります。 [八] 周襄王は鄭攻撃に協力した狄(翟)に感謝し、狄君の娘を王后に迎え入れることにしました。 富辰が諫めて言いました「いけません。『恩恵を施す者は報いを求めて限りないのに、恩恵に報いる者はすぐ嫌になる(報者倦…

春秋時代61 東周襄王(二十一) 鄭と周の対立 前636年(3)

今回も東周襄王十七年の続きです。 [六] 周襄王が晋文公の即位を認めて太宰・文公(周王の卿士・王子虎)と内史・興(叔興父)を派遣し、文公に国君としての命を下しました。晋は上卿が国境まで出迎え、文公自ら郊外で慰労し、宗廟に館を設け、九牢(牛・羊…

春秋時代60 東周襄王(二十) 帰国後の文公 前636年(2)

今回は東周襄王十七年の続きです。 [二] 以前、晋公子・重耳の財物は豎(未成年の侍臣)・頭須が管理していました。重耳が出奔した時、頭須は財物を隠して逃走しましたが、暫くして晋国に戻り、重耳が帰国できるように財物を使って画策しました。 文公が即位…

春秋時代 重耳の帰国(4)

晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。今回で最後です。 東周襄王十六年(前637年)十月(本編では九月)、晋恵公が死にました。 十二月(本編では翌年正月)、秦穆公が重耳を晋に入れます。一行が黄河まで来た時、狐偃が重耳に璧玉を還して言いました「…

春秋時代 重耳の帰国(3)

重耳の亡命生活を書いています。 重耳が秦に入ると、秦穆公は五人の女性を重耳に娶らせました。晋の太子・圉の妻だった懐嬴もその一人です。 重耳が懐嬴に盥(たらい)を持たせて手を洗いました。新婦が盥を持って新郎に侍るのは婚姻の礼の一環です。 本来、…

春秋時代 重耳の帰国(2)

晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。『国語・晋語四』を元にしています。 重耳一行が衛から曹に移りましたが、曹共公も礼を用いませんでした。 曹共公は重耳が骿脅(胼脅。肋骨が繋がっている異相)だと聞いていたため、その様子を見てみたいと思いま…

春秋時代 重耳の帰国(1)

晋の公子・重耳が十九年の亡命生活を経て帰国し、国君の位に即きました。 春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2) 春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1) 本編では『春秋左氏伝(僖公二十四年)』の記述を主な資料として亡命中の様子…

春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1)

今回から東周襄王十七年です。四回に分けます。 襄王十七年 叔帯元年 前636年 乙酉 [一] 春正月、秦穆公が重耳を晋に送りました。 『韓非子・十過』によると、穆公は革車(兵車)五十乗、畴騎(精鋭騎兵)二千、歩卒五万を動員して重耳を護衛したそうです。 …

春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2)

今回は東周襄王十六年の続きです。 [七] 晋恵公の死(前回)を聞いて、公子・重耳が帰国します。 今回は『春秋左氏伝(僖公二十三年)』を主な資料にして重耳の亡命生活を書きます。 重耳が蒲にいた時、晋献公が寺人(宦官)・披(勃鞮)を送って重耳を襲い…

春秋時代57 東周襄王(十七) 晋恵公の死 前637年(1)

今回から東周襄王十六年です。二回に分けます。 襄王十六年 前637年 甲申 [一] 春、斉孝公が宋を攻め、緡(閔)を包囲しました。 宋が斉の盟(東周襄王十二年、前641年)に参加しなかったことを討伐の理由とし、宋が楚に大敗(前年)した混乱を狙って攻撃し…

春秋時代56 東周襄王(十六) 泓水の戦い 前638年

今回は東周襄王十五年です。 襄王十五年 前638年 癸未 [一] 春、魯釐公が邾を攻めて須句を取り、須句の国君を帰らせました。 [二] 三月、鄭文公が楚に入朝しました。 夏、宋公(襄公)が衛侯(文公)・許男・滕子と共に鄭を攻めました。鄭が楚に従っているた…

春秋時代55 東周襄王(十五) 盂の会 前640~639年

今回は東周襄王十三年からです。 襄王十三年 前640年 辛巳 [一] 春、魯が南門を改築しました。南門は「稷門」といいましたが、釐公によって他の門よりも大きくなったため「高門」とよばれるようになりました。農時に影響を与えた工事でした。 [二] 『春秋』…

春秋時代54 東周襄王(十四) 宋襄公 前642~641年

今回は東周襄王十年からです。 襄王十一年 前642年 己卯 [一] 春正月、宋公(襄公)が曹伯(共公)や衛・邾と共に斉を攻めました。斉の太子・昭を擁立するためです。 三月、斉人は宋を恐れて前年即位した無虧(武孟)を殺しました。無虧には諡号がありません。…