2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧

西漢時代295 哀帝(十) 断袖の交り 前3年(1)

今回は西漢哀帝建平四年です。三回に分けます。 西漢哀帝建平四年 戊午 前3年 [一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、大旱に襲われました。 [二] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 関東の民が理由もなく驚いて走り出しました(無…

西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年

今回は西漢哀帝建平三年です。 西漢哀帝建平三年 丁卯 前4年 [一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、広徳夷王・劉雲客の弟・劉広漢を広平王に立てました。 劉雲客は中山靖王・劉勝(景帝の子)の子孫です。中山王の家系が途絶えていたため…

西漢時代293 哀帝(八) 朱博の死 前5年(3)

今回で西漢哀帝建平二年が終わります。 [十一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、渭城西北にある原上(高知。山上の平らな部分)の永陵亭一帯を初陵(皇帝陵)にしました。この陵は義陵と呼ばれます。 郡国の民を初陵に移住させるという命…

西漢時代292 哀帝(七) 赤精子の讖 前5年(2)

今回は西漢哀帝建平二年の続きです。 [七] 朱博と趙玄がまた上奏しました「新都侯・王莽もかつて大司馬となりましたが、尊尊の義(尊重するべき人を尊重する道理)を広めず、尊号を抑貶(抑え貶めること)して孝道を虧損しました(王莾も傅太后が尊号を称す…

西漢時代291 哀帝(六) 鼓妖 前5年(1)

今回は西漢哀帝建平二年です。三回に分けます。 西漢哀帝建平二年 丙辰 前5年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、孛星(異星。彗星の一種)が牽牛に現れました。 牽牛は星宿(星座)の名です。『資治通鑑』胡三省注によると、牽牛宿には六星があり、天の…

西漢時代290 哀帝(五) 馮太后事件 前6年(4)

今回で西漢哀帝建平元年が終わります。 [十] 『資治通鑑』からです。 哀帝が杜業の言を採用して朱博を招きました。 朱博は成帝綏和元年(前8年)に罷免されています。 『漢書・杜周伝(巻六十)』によると、成帝が死んで哀帝が即位してから、杜業が上書しま…

西漢時代289 哀帝(四) 師丹失脚 前6年(3)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 郎中令・泠褒(『資治通鑑』胡三省注によると、古の楽工を泠人といい、そこから泠氏が生まれました。周代に泠州鳩という者がいました。当時は「郎中令」という官名はないはずなので、胡三省…

西漢時代288 哀帝(三) 耿育の上書 前6年(2)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。 [三(続き)] 議郎・耿育が上書しました「継嗣(後嗣)が統(秩序、準則)を失い、適(嫡子)を廃して庶(庶子)を立てるのは、聖人の法が禁じていることであり、古今の至戒(最大の戒め)であると聞いています。しかし太…

西漢時代287 哀帝(二) 成帝の子 前6年(1)

今回は西漢哀帝建平元年です。四回に分けます。 西漢哀帝建平元年 乙卯 前6年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、北地郡に十六の隕石が落ちました。 [二] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 天下に大赦しました。 [三] 『資治通鑑』からです。 司…

西漢時代286 哀帝(一) 西漢哀帝

今回から西漢哀帝の時代です。 孝哀皇帝 定陶恭王・劉康の子で、名を劉欣といいます。成帝の跡を継ぎました。 以下、『漢書・哀帝紀』からです(一部は既述した内容と重複します)。 孝哀皇帝は元帝の庶孫で定陶恭王(劉康)の子です。母を丁姫といいます。 三…

西漢時代285 成帝(四十三) 師丹 前7年(6)

今回で西漢成帝綏和二年が終わります。 [二十一] 『資治通鑑』からです。 大司空・何武の後母(継母)が蜀郡に住んでいました(『資治通鑑』胡三省注によると、何武は蜀郡郫県の人です)。 そこで何武は吏(官吏)を派遣して後母を迎えに行かせました。 とこ…

西漢時代 谷永・劉向の進言

成帝元延元年(前12年)、天変が続いたため、成帝が群臣に意見を求めました。 西漢時代271 成帝(二十九) 天変 前12年(1) 以下、『資治通鑑』から谷永と劉向の進言を紹介します。 北地太守・谷永が言いました「王者が自ら道徳を行い(躬行道徳)、天地に承順…

西漢時代 賈譲の治水策

西漢成帝綏和二年(前7年)に賈讓が黄河の治水に関する上奏をしました。 西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5) 以下、『資治通鑑』からです。 待詔・賈譲が上奏しました「治河(黄河の治水)には上・中・下の策があります。古の者が国を建てて民を住…

西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十八] 『漢書・哀帝紀』からです。 哀帝が詔を発しました「朕は宗廟の重(重責)を継承して戦戦兢兢とし、天心を失うことを懼れている。最近、日月に光がなく、五星が行(通常の運行)を失い、郡国で頻繁に地震が起きて…

西漢時代283 成帝(四十一) 傅喜 前7年(4)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十五] 『資治通鑑』からです。 哀帝が未央宮で酒宴を開くことにしました。内者令(『資治通鑑』胡三省注によると少府に属します。宦者が担当し、宮中の布・帳や諸衣物を管理しました)が傅太后のために幕を張り(原文「…

西漢時代282 成帝(四十) 劉秀の『七略』 前7年(3)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十二] 『資治通鑑』からです。 王莽は中塁校尉・劉歆に材行(才能と徳行)があると判断したため、推挙して侍中にしました。劉歆はやがて光禄大夫に遷されて貴幸(顕貴な地位と皇帝の寵信)を得ます。 劉歆は劉秀に改名…