2017-05-01から1ヶ月間の記事一覧

西漢時代134 武帝(五十三) 朝鮮遠征 前108年

今回は西漢武帝元封三年です。 西漢武帝元封三年 癸酉 前108年 [一] 『資治通鑑』からです。 冬十二月、雷が落ちました。 また、馬の頭のように大きな雹が降りました。 [二] 漢が西域に送った使者がしばしば襲撃されました(武帝元鼎六年・前111年参照)。中…

西漢時代133 武帝(五十二) 滇国平定 前109年(2)

今回は西漢武帝元封二年の続きです。 [八] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 六月、甘泉房中に「芝九茎(九茎の芝)」が生えました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「甘泉房中」は甘泉宮の「齋房」で、斎戒を行う部屋です。 「芝九茎」は一つの根…

西漢時代132 武帝(五十一) 衛氏朝鮮 前109年(1)

今回は西漢武帝元封二年です。二回に分けます。 西漢武帝元封二年 壬申 前109年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が雍を行幸し、五畤を祀りました。 還ってから泰一を祝祠(祭祀)して徳星(木星。前年参照)を拝しました。 [二]…

西漢時代131 武帝(五十) 封禅 前110年(2)

今回は西漢武帝元封元年の続きです。 [六] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月、武帝が西に還りました。 奉高(泰山郡の治所)に至ってまず梁父で地主を礼祠(礼祀)します。 地主は八神の一つです(前回参照)。梁父県は泰山郡に属します。 乙…

西漢時代130 武帝(四十九) 東越平定 前110年(1)

今回は西漢武帝元封元年です。二回に分けます。 西漢武帝元封元年 辛未 前110年 本年、泰山で封禅の儀式を行ったため「元封」に改元しました。 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が詔を発しました「南越、東甌は全てその辜(罪)…

西漢時代129 武帝(四十八) 西域経営 前111年(3)

今回で西漢武帝元鼎六年が終わります。 [七] 『資治通鑑』からです。 博望侯・張騫が西域への道を開いて尊貴な地位を得たため、部下の吏士も争って上書し、外国の奇怪な事物や利害関係を述べて使者になることを求めました。 武帝は西域の道が遠く離れており…

西漢時代128 武帝(四十七) 南夷平定 前111年(2)

今回は西漢武帝元鼎六年の続きです。 [五] 南越討伐のために馳義侯・遺が南夷の兵を徴収しました。 しかし且蘭君(且蘭の国君。南夷に属します)は南越への道が遠いため、遠征の間に周辺諸国が老弱の者を奪いに来るのではないかと恐れ、衆を率いて漢に反しま…

西漢時代127 武帝(四十六) 南越平定 前111年(1)

今回は西漢武帝鼎六年です。三回に分けます。 西漢武帝元鼎六年 庚午 前111年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬、武帝が隴西、天水、安定の騎士や中尉(京師を守る軍官)と河南、河内の卒十万人を動員し、将軍・李息、郎中令・徐自為に西羌…

西漢時代目録(中)

西漢時代の目録の続きです。 西漢時代目録(上) 西漢時代123 武帝(四十二) 欒大 前113年(1) 西漢時代124 武帝(四十三) 宝鼎 前113年(2) 西漢時代125 武帝(四十四) 泰一 前112年(1) 西漢時代126 武帝(四十五) 南越離反 前112年(2) 西漢時代127 武帝(四十六) 南…

西漢時代126 武帝(四十五) 南越離反 前112年(2)

今回は西漢武帝元鼎五年の続きです。 [二(続き)] 漢軍が国境を越えたため、呂嘉等が離反し、国中に号令して言いました「王は年が若く、太后は中国の人であり、しかも使者と乱して(姦通して)専ら内属を欲し、先王の宝器を全て天子に献上して自ら媚びようと…

西漢時代125 武帝(四十四) 泰一 前112年(1)

今回は西漢武帝元鼎五年です。二回に分けます。 西漢武帝元鼎五年 己巳 前112年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が雍を行幸して五畤の祭祀を行いました。 その後、隴山を越え、西の崆峒に登りました。 「崆峒」は「空桐」ともい…

西漢時代124 武帝(四十三) 宝鼎 前113年(2)

今回は西漢武帝元鼎四年の続きです。 [五] 『資治通鑑』からです。 六月、汾陰の巫錦(錦は巫の名)が魏脽の后土営付近で大鼎を得ました。 「魏脽」というのは汾陰の脽(土丘)です。『資治通鑑』胡三省注によると、かつては魏地の墳(墳墓)だったため、魏…

西漢時代123 武帝(四十二) 欒大 前113年(1)

今回は西漢武帝元鼎四年です。二回に分けます。 西漢武帝元鼎四年 戊辰 前113年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が雍を行幸して五畤を祀りました。 民に爵一級を下賜し、女子は百戸ごとに牛酒を与えました(賜民爵一級,女子百…

西漢時代122 武帝(四十一) 函谷関 前114年

今回は西漢武帝元鼎三年です。 西漢武帝元鼎三年 丁卯 前114年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬、函谷関を新安に遷しました。旧関は弘農県にあります。 『資治通鑑』胡三省注によると、弘農と新安は三百里離れていました(新安が東にあり…

西漢時代121 武帝(四十) 西域 前115年(3)

今回で西漢武帝元鼎二年が終わります。 [十] 『資治通鑑』からです。 匈奴の渾邪王が漢に降ってから、漢軍は匈奴を幕北(漠北)まで駆逐しました(武帝元狩元年・前122年)。 塩沢から東には匈奴がいなくなり、西域への道が通じます。 そこで張騫(匈奴戦で…

西漢時代120 武帝(三十九) 均輸法 前115年(2)

今回は西漢武帝元鼎二年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 この年、孔僅が大農令に、桑弘羊が大農中丞になりました。 『資治通鑑』胡三省注によると、大農には二人の丞がいました。武帝元狩四年(前119年)に東郭咸陽と孔僅が大農丞になっています。…

西漢時代 張湯

西漢武帝元朔三年(前126年)に張湯が廷尉になりました。 西漢時代103 武帝(二十二) 張騫 前126~125年 ここでは『漢書・張湯伝(巻五十九)』と注釈を元に張湯について書きます。 張湯は杜陵の人で、父は長安丞を勤めました。 ある日、父が外出したため、ま…

西漢時代119 武帝(三十八) 張湯の死 前115年(1)

今回は西漢武帝元鼎二年です。三回に分けます。 西漢武帝元鼎二年 丙寅 前115年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十一月、御史大夫・張湯が罪を犯したため自殺しました。 以前、御史中丞・李文(張湯の部下)が張湯との間に間隙がありまし…

西漢時代118 武帝(三十七) 腹誹法 前117~116年

今回は西漢武帝元狩六年と元鼎元年です。 西漢武帝元狩六年 甲子 前117年 [一] 『漢書・武帝紀』からです。 冬十月、武帝が丞相から二千石までの官吏に金を、千石から乗従者(騎乗の従者)までは帛を、蛮夷には錦を下賜しました。下賜した数量は人によって差…

西漢時代117 武帝(三十六) 神君 前118年

今回は西漢武帝元狩五年です。 西漢武帝元狩五年 癸亥 前118年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 丞相・李蔡が孝景園(景帝陵)の堧地(陵園外の空地)を私有化してその中に埋葬したため(原文「葬其中」。恐らく親族を埋葬したのだと思います…

西漢時代116 武帝(三十五) 義縱と王温舒 前119年(4)

今回で西漢武帝元狩四年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 匈奴伊稚斜単于が趙信の計を用いて漢に使者を派遣し、好辞によって和親を請いました。 武帝は群臣に協議させます。ある者は和親に賛成し、ある者はこの機に匈奴を臣服させるべきだと主張…

西漢時代115 武帝(三十四) 衛青と霍去病 前119年(3)

今回も西漢武帝元狩四年の続きです。 [五(続き)] 伊稚斜単于が遁走してから、匈奴の兵は混乱の中、所々で漢兵と混じり合いながら単于を追いました。 しかし単于が久しく大衆(大軍)と合流できなかったため、右谷蠡王は単于が死んだと思い、自ら単于に立ちま…