2018-04-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代183 安帝(三十三) 楊震の死 124年(2)

今回は東漢安帝延光三年の続きです。 [八] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 楊震が諫言を繰り返しても安帝が聞き入れなかったため、それを見た樊豊、周広、謝惲等は憚ることがなくなり、偽りの詔書を作りました。司農の銭穀や大匠の見徒(現有…

東漢時代182 安帝(三十二) 孔子の子孫 124年(1)

今回は東漢安帝延光三年です。三回に分けます。 東漢安帝延光三年 甲子 124年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、班勇が楼蘭に到着しました。鄯善が帰附したため、特別に三綬を加えます。 「三綬」というのは『後漢書・班梁列伝(巻四十七)』の記述で、『…

東漢時代181 安帝(三十一) 楊震の諫言 123年(2)

今回は東漢安帝延光二年の続きです。 [九] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、丹陽で山崩れがありました。 [十] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 八月庚午、三署郎の中で、経術に通達(精通)していて牧民(民の管理)を任せられ、視事(…

東漢時代180 安帝(三十) 西域経営 123年(1)

今回は東漢安帝延光二年です。 東漢安帝延光二年 癸亥 123年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、旄牛夷が叛しましたが、益州刺史・張喬が攻撃して破りました。 『資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代は蜀郡に旄牛県がありましたが、東漢になって廃され…

東漢時代179 安帝(二十九) 黄憲 122年(2)

今回は東漢安帝延光元年の続きです。 [二十] 『資治通鑑』からです。 安帝がしばしば黄門、常侍や中使(宮廷の使者)・伯栄を派遣して甘陵(安帝の父母の陵。清河にあります)を往来させました。 尚書僕射・陳忠が上書しました「今はまだ天心を得ておらず、…

東漢時代178 安帝(二十八) 馮煥父子 122年(1)

今回は東漢安帝延光元年です。二回に分けます。 東漢安帝延光元年 壬戌 122年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』は本年の春二月に「夫餘王が子(尉仇台)を派遣し、兵を率いて玄菟を救わせた。高句驪、馬韓、穢貊を撃ってこれを破った。その後、使者を送って(東漢…

東漢時代177 安帝(二十七) 三年の喪 121年(5)

今回で東漢安帝建光元年が終わります。 [十五] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月己卯(初一日)、永寧二年から建光元年に改元して天下に大赦しました。 [十六] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 壬寅(二十四日)、太尉・…

東漢時代176 安帝(二十六) 安帝の内寵 121年(4)

今回も東漢安帝建光元年の続きです。 [十四] 『資治通鑑』からです。 安帝が耿貴人(嫡母)の兄にあたる牟平侯・耿宝を監羽林左軍車騎に任命しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、羽林には左・右監がおり、それぞれ左・右騎を管理しました。 また、宋楊…

東漢時代175 安帝(二十五) 鄧氏失脚 121年(3)

今回も東漢安帝建光元年の続きです。 [十三] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 安帝は幼少の頃、聡明と号されていたため、鄧太后に擁立されました。 しかし生長すると多くの行動に徳が無くなり、しだいに太后の意に合わなくなりました。安帝の…

東漢時代174 安帝(二十四) 薛包 121年(2)

今回は東漢安帝建光元年の続きです。 [七] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月、高句麗(穢貊)がまた鮮卑と共に遼東を侵しました。 遼東太守・蔡諷が新昌で追撃しましたが戦没します。 功曹掾・龍端、兵馬掾・公孫酺も身をもって蔡諷を守…

東漢時代173 安帝(二十三) 鄧太后の死 121年(1)

今回は東漢安帝建光元年です。五回に分けます。 東漢安帝建光元年 辛酉 121年 七月に改元します。 [一] 『資治通鑑』からです。 当煎種・饑五(人名。前年参照)の同種族である大豪・盧怱、忍良等千余戸が単独で允街に留まり、漢と羌の間で様子を窺っていま…

東漢時代172 安帝(二十二) 鄧康 120年(2)

今回は東漢安帝永寧元年の続きです。 [四] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 沈氐羌が張掖を侵しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、上郡西河に住む羌が沈氐を号にしました。 [五] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月丙…

東漢時代171 安帝(二十一) 班勇 120年(1)

今回は東漢安帝永寧元年です。二回に分けます。 東漢安帝永寧元年 庚申 120年 夏四月に改元します。 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月甲辰、任城王・劉安が死にました。 劉安の父は孝王・劉尚で、劉尚の父は東平憲王・劉蒼、その父は光武帝です(…

東漢時代170 安帝(二十) 疏勒 119年(2)

今回は東漢安帝元初六年の続きです。 [十四] 『資治通鑑』からです。 この年、鄧太后が和帝の弟・済北王・劉寿と河間王・劉開の子で五歳以上の男女四十余人および鄧氏近親の子孫三十余人を集め、彼等のために邸第(邸宅)を開き、経書を教授しました。鄧太后…

東漢時代169 安帝(十九) 119年(1)

今回は東漢安帝元初六年です。二回に分けます。 東漢安帝元初六年 己未 119年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月乙巳(十二日)、京師と四十二の郡国で地震があり、ある場所では地が裂けて水泉が涌き出ました。 [二] 『後漢書・孝安…

東漢時代170 安帝(二十) 班勇 120年(1)

今回は東漢安帝永寧元年です。二回に分けます。 東漢安帝永寧元年 庚申 120年 夏四月に改元します。 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月甲辰、任城王・劉安が死にました。 劉安の父は孝王・劉尚で、劉尚の父は東平憲王・劉蒼、その父は光武帝です(…

東漢時代168 安帝(十八) 任尚失脚 118年

今回は東漢安帝元初五年です。 東漢安帝元初五年 戊午 118年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月、越巂夷が叛しました。 [二] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 二月壬戌、中山王・劉憲が死にました。 『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』によると、…

東漢時代167 安帝(十七) 袁敞の死 117年

今回は安帝元初四年です。 東漢安帝元初四年 丁巳 117年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月乙巳朔、日食がありました。 [二] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 乙卯(十一日)、天下に大赦しました。 [三] 『後漢書・孝…

東漢時代166 安帝(十六) 先零羌衰退 116年

今回は東漢安帝元初三年です。 東漢安帝元初三年 丙辰 116年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月甲戌、太原の旧溝渠(水路)を修築して官私の田地に灌漑しました。 『孝安帝紀』の注によると、かつて晋の智伯が晋水を止めて晋陽で灌漑を行いました。…

東漢時代165 安帝(十五) 武都太守虞詡 115年(3)

今回で東漢安帝元初二年が終わります。 [十八] 『資治通鑑』からです。 鄧太后は虞詡に将帥の才略があると聞いて武都太守に任命しました。 『後漢書・虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』は「羌が武都を侵した。虞詡に将帥の才略があるため、鄧太后が武都太守に遷した…

東漢時代164 安帝(十四) 丁奚城の戦い 115年(2)

今回は東漢安帝元初二年の続きです。 [十七] 『資治通鑑』からです。 安帝が詔を発し、屯騎校尉・班雄を三輔に駐屯させました。班雄は班超の子です。 また、左馮翊・司馬鈞を征西将軍代行(行征西将軍)に任命して関中諸郡の兵八千余人を監督させました。『…

東漢時代163 安帝(十三) 115年(1)

今回は東漢安帝元初二年です。三回に分けます。 東漢安帝元初二年 乙卯 115年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月、安帝が詔を発し、三輔および并・涼州の六郡で流冗(流亡離散)した貧人に食糧を与えて救済しました。 [二] 『後漢書・孝安帝紀』か…

東漢時代162 安帝(十二) 板楯蛮 114年

今回は東漢安帝元初元年です。 東漢安帝元初元年 甲寅 114年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(初二日)、永初七年から元初元年に改元しました。 民に一人当たり爵二級を、孝悌・力田には一人当たり三級を与え、爵位が公乗(…

東漢時代161 安帝(十一) 滇零の死 112~113年

今回は東漢安帝永初六年と七年です。 東漢安帝永初六年 壬子 112年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月甲寅(十一日)、詔を発しました(『後漢書・皇后紀上』を見ると、鄧太后の詔のようです)「新味を供薦(進貢)する時、多くが時節に反しており(多非其…