2016-01-01から1年間の記事一覧

秦楚時代9 秦始皇帝(九) 胡亥即位 前210年(2)

秦始皇帝三十七年の続きです。 [三] 趙高と李斯は始皇帝の書を偽造して長子・扶蘇に送り、罪を責めました。『史記・李斯列伝(巻八十七)』から書の内容です「朕は天下を巡行し、寿命を延ばすために名山諸神を祷祠(祈祷祭祀)した。今、扶蘇と将軍・蒙恬は師…

秦楚時代8 秦始皇帝(八) 始皇帝の死 前210年(1)

今回は秦始皇帝最後の年です。二回に分けます。 秦始皇帝三十七年 前210年 辛卯 [一] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月癸丑(中華書局『白話資治通鑑』によると恐らく誤り)、始皇帝が出遊しました。左丞相・李斯が従い、右丞相・馮去疾が咸陽…

秦楚時代7 秦始皇帝(七) 坑儒 前212~211年

今回は秦始皇帝三十五年と三十六年です。 秦始皇帝三十五年 前212年 己丑 [一] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。 朝廷が蒙恬に直道(軍事用の大道)を開かせました。九原を通って雲陽に至ります。山を削って谷を埋め、長さは千八百里に及びまし…

秦楚時代6 秦始皇帝(六) 焚書 前213年

今回は秦始皇帝三十四年です。 秦始皇帝三十四年 前213年 戊子 [一] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。 獄吏で不直な者、罪があると知りながら判決を覆して罪人を放った者(覆獄故)、誤った裁きを下した者(失者)を謫治(懲罰)し、長城建築に…

秦楚時代5 秦始皇帝(五) 南征北伐 前214年

今回は秦始皇帝三十三年です。 秦始皇帝三十三年 前214年 丁亥 [一] 『資治通鑑』からです(下述する南方征伐と順番を入れ替えています)。 蒙恬が匈奴を駆逐して河南の地を攻略し、四十四県を置きました。 匈奴を防ぐために長城を築きます。地形に基いて険…

秦楚時代4 秦始皇帝(四) 始皇帝暗殺未遂事件 前218~215年

今回は秦始皇帝二十九年から三十三年までです。 秦始皇帝二十九年 前218年 癸未 [一] 始皇帝が東游しました。 そこで韓人・張良による始皇帝暗殺未遂事件が起きます。 以下、『資治通鑑』『史記・留侯(張良)世家』『漢書・張陳王周伝(巻四十)』からです。 …

秦楚時代3 秦始皇帝(三) 封禅 前220~219年

今回は秦始皇帝二十七年と二十八年です。 秦始皇帝二十七年 前220年 辛巳 [一] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。 秦始皇帝が隴西、北地を巡遊し、雞頭山に至って還る途中、回中(回中宮)を通りました。 [二] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑…

秦楚時代2 秦始皇帝(二) 始皇帝の政治 前221年(2)

秦始皇帝二十六年の続きです。 [三] 『史記・秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。 丞相・王綰等が始皇帝に言いました「諸侯を破ったばかりで、燕、斉、荊(楚)の地は遠いので、王を置かなければ鎮められません。諸子を立てることを許可してください。」 …

秦楚時代1 秦始皇帝(一) 皇帝誕生 前221年(1)

秦王・政二十六年(前221年)、秦が天下を統一しました。今回から秦帝国に入ります。 秦始皇帝 姓は嬴、名は政といい、秦荘襄王の子です。 秦始皇帝二十六年 前221年 庚辰 [一] 秦王・政は天下を併合してから、自らの徳が三皇を兼ね、功が五帝を越えていると…

秦楚時代目録

秦楚時代の目録です。 本編 秦楚時代に入る前に 秦楚時代1 秦始皇帝(一) 皇帝誕生 前221年(1) 秦楚時代2 秦始皇帝(二) 始皇帝の政治 前221年(2) 秦楚時代3 秦始皇帝(三) 封禅 前220~219年 秦楚時代4 秦始皇帝(四) 始皇帝暗殺未遂事件 前218~215年 秦楚時代…

秦楚時代に入る前に

今回から秦楚時代に入ります。 秦の統一と政治 約五百五十年にわたる春秋戦国の分裂を統一し、中国最初の大帝国を築いたのは、かつては西方の後進国とみなされていた秦でした。 秦王・政は中国史上初めて「皇帝」と称します。これが秦の始皇帝です。 天下を…

戦国時代年表 秦王政

今回は秦王政(後の始皇帝)の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』を元にしています。 ⋆全て拡大できます。

戦国時代年表 秦昭襄・孝文・荘襄

今回は秦昭襄王、孝文王、荘襄王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は秦王政の年表です。 戦国時代年表 秦王政

戦国時代年表 東周赧王

今回は東周赧王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回から秦王の年表になります。 戦国時代年表 秦昭襄・孝文・荘襄

戦国時代年表 東周慎靚王

今回は東周慎靚王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は東周赧王の年表です。 戦国時代年表 東周赧王

戦国時代年表 東周顕王

東周顕王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 ⋆全て拡大できます。 次回は東周慎靚王の年表です。 戦国時代年表 東周慎靚王

戦国時代年表 東周烈王

東周烈王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は東周顕王の年表です。 戦国時代年表 東周顕王

戦国時代年表 東周威烈王

東周威烈王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑外紀目録』『戦国史』『資治通鑑前編綱要』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は東周安王の年表です。 戦国時代年表 東周安王

戦国時代年表 東周安王

東周安王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑目録』『戦国史』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は東周烈王の年表です。 戦国時代年表 東周烈王

諸子百家 その他

今回は名家、兵家、陰陽家、雑家について簡単に書きます。 まずは名家です。 名家の代表は戦国時代中期の公孫龍で、『公孫龍子』という書が残されています。 公孫龍は事物の対立・分離を強調しました。 もう一人の代表を恵施といい、『恵子』という書があっ…

諸子百家 法家

今回は法家です。 まずは荀子です。 荀子は名を況、字を卿といい、趙国の人です。十五歳で斉国の稷下で遊学を始めたといわれています。斉で祭酒(学長)を三回担当してから楚国に移り、楚の春申君によって蘭陵令に任命されました。しかし讒言に遭ったため趙…

諸子百家 墨子

今回は墨子です。 墨子は墨家学派の創始者で、名を翟といい、魯国の人です。 「賎人(庶民。身分が低い者)」の出身で、かつては木匠でしたが、後に各国を周遊して学説を唱えました。多数の門徒を抱え、しかも厳密な組織を形成するようになります。多くの門…

諸子百家 道家・荘子

今回は道家の荘子です。 荘子の思想はとても神秘的で、理解が難しい思想です。後に神仙思想へと発展していきます。 荘子は名を周といい、宋国の人です。孟子とほぼ同じか少し遅れて登場しました。貧寒の家に生まれ、生涯で仕官したのは漆園を管理する小官に…

諸子百家 道家・老子

今回は道家です。老子と荘子の二回に分けます。 老子 老子は道家学派の創始者で、姓は李、名は耳、字は聃といい、老聃ともよばれています(老子の姓名に関しては諸説があります)。 孔子と同時期か少し前の人で、周王室の「守藏室之吏(図書館の長)」を勤め…

諸子百家 儒家・孔子と孟子

春秋戦国時代に孔子、孟子、老子等の思想家が現れました。本編では体系的な解説がきなかったので、ここで簡単に紹介します。 参考にするのは譚家健の『中国文化史概要』です(『中国文化史概要』の完訳ではなく、抜粋添削します)。 諸子百家というのは春秋…

第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する(後篇)

*今回は『東周列国志』第百八回後篇です。 秦王政二十六年、六国が秦によって併合され、天下が統一されました。 秦王は六国がそろって王号を称していたため、王の名が尊くないと思って帝号に改めようとしました。しかしかつて東西二帝について議論されたこ…

第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する(中篇)

*今回は『東周列国志』第百八回中篇です。 王翦は楚を滅ぼしてから兵を率いて咸陽に還りました。秦王は黄金千鎰を下賜します。王翦は告老(引退)して頻陽に帰りました。 秦王は王翦の子・王賁を大将に任命し、遼東の燕王を攻撃させました。 秦王が王賁に命…

第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する(前篇)

第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する (兼六国混一輿図 号始皇建立郡県) *今回は『東周列国志』第百八回前篇です。 王翦が李信に代わって大将になり、六十万の兵を率いて楚討伐を宣言しました。 楚の項燕は東岡を守って秦軍…

第百七回 荊軻が秦庭を騒がし、王翦が李信に代わる(後篇)

*今回は『東周列国志』第百七回後編です。 当時の魏では景湣王が既に死に、太子・假が即位して三年が経っていました。 秦が燕を攻めた時から、魏王・假は大梁の城を増築しており、内外に深い溝(濠)を巡らせて守備を固めていました。また、斉と結ぶために…

第百七回 荊軻が秦庭を騒がし、王翦が李信に代わる(中篇)

*今回は『東周列国志』第百七回中編です。 秦の法では、殿上で王に仕える群臣は尺寸の兵器も持ってはならず、郎中や宿衛の官は兵戈を持っていましたが、全て殿下に並んでおり、宣召(王の招き)がなければ勝手に入殿するわけにはいきませんでした。 今回、…