2016-03-01から1ヶ月間の記事一覧
今回で東周敬王三十九年が終わります。五月の続きからです。 [九] 宋の向魋(桓魋)は景公の寵愛を受けて勢力を拡大し、景公をも脅かすようになりました。 景公は夫人(景公の母)を使って何度も向魋を享宴に招き、討伐しようと考えましたが、逆に向魋が景公…
今回は東周敬王三十九年の続きです。 [三] 小邾の大夫・射が句繹を挙げて魯に降りました。 射が魯に言いました「季路(子路。孔子の弟子)と約束をさせていただければ、盟を結ぶ必要はありません。」 子路は誠実で裏切らないことで知られていたため、大夫・…
今回は東周敬王三十九年です。三回に分けます。 周敬王三十九年 前481年 庚申 [一] 春、魯が西方の大野(大野沢)で狩りをしました。 この時、叔孫氏の車子鉏商(車は御者の意味で、子鉏が氏、商が名。一説で車子が御者・従者の意味で鉏商が名)が麟を得まし…
今回は東周敬王三十八年です。 敬王三十八年 前482年 己未 [一] 春、鄭軍に包囲された宋軍を救うため、向魋が救援に向かいました。 鄭の子賸が軍中に宣言しました「桓魋(向魋)を捕えた者には賞を与える。」 それを知った向魋は逃走しました。 鄭軍は喦の地…
衛君が呉王を朝見した時、呉王が衛君を捕えようとしました。 春秋時代282 東周敬王(五十一) 呉と魯・衛の会 前483年 『淮南子・人間訓(巻十八)』に『春秋左氏伝』とは異なる記述があるので、ここで紹介します。 呉王が衛君を捕えて海上に送ろうとしました…
今回は東周敬王三十七年です。 敬王三十七年 前483年 戊午 [一] 春正月、魯が田賦の制度を定めました(前年参照)。 [二] 夏五月甲辰(初三日)、魯の昭夫人(昭公夫人。哀公の嫡母)・孟子が死にました。孟子は呉の女性です。 当時の女性は通常、名称の後ろ…
東周敬王三十六年(前484年)、孔子が魯に帰国しました。 春秋時代281 東周敬王(五十) 伍子胥の死 前484年(2) 孔子に関する故事を紹介しています。 今回は『史記・孔子世家』から孔子の教えに関して書きます。 孔子は四つの事を教えました(四教)。「文(学問…
『資治通鑑外紀』が東周敬王三十六年(前484年)に『説苑』等から孔子に関する故事を紹介しています。 春秋時代281 東周敬王(五十) 伍子胥の死 前484年(2) 以下、列記します。 まず『説苑・敬慎(巻十)』からです。 孔子が『詩』を論じ、『正月(小雅)』の…
東周敬王三十六年(前484年)、孔子が魯に帰国しました。 春秋時代281 東周敬王(五十) 伍子胥の死 前484年(2) その後の孔子に関して、『韓非子』『孔叢子』『史記』等の記述を紹介します。 まずは『韓非子・内儲説上七術(第三十)』からです。 魯哀公が孔子に…
東周敬王三十六年・前484年、艾陵の戦いが始まる前に、孔子の弟子・子貢が外交家として諸国を回りました。 春秋時代280 東周敬王(四十九) 艾陵の戦い 前484年(1) ここでは『史記・仲尼弟子列伝』の記述を紹介します。 斉の田常(田恒。成子。田乞の子)は斉…
東周敬王三十六年(前484年)に伍子胥が殺されました。 春秋時代281 東周敬王(五十) 伍子胥の死 前484年(2) 本編は『春秋左氏伝(哀公十一年)』を元にしました。ここでは『史記』『国語』等の記述を紹介します。 まずは『史記・越王句践世家』です。 呉王・…
今回は東周敬王三十六年の続きです。 [四] 呉が斉を攻撃しようとした時、呉に帰順していた越王・句践がその衆を率いて呉に入朝しました。呉王・夫差とその列士(臣下)に礼物が贈られます。 呉人が喜んで句践を歓迎する中、伍子胥だけは恐れて「これは呉(の…
今回は東周敬王三十六年です。二回に分けます。 敬王三十六年 前484年 丁巳 [一] 春、斉が鄎の役(前年)の報復のため、国書(国夏の子)と高無●(●は「不」の下に「十」。高張の子)に魯を攻撃させました。 斉軍は清に至ります。 魯の季孫肥が宰(家臣の長…
『資治通鑑外紀』は東周敬王三十五年・前485年に越王・句践が呉王・夫差に美女・西施と鄭旦を献上したと書いています。 春秋時代279 東周敬王(四十八) 呉・斉の対立 前486~485年 西施と鄭旦は『呉越春秋』に記述があります。また、『国語』等にも当時の呉の…
今回は東周敬王三十四年と三十五年です。 敬王三十四年 前486年 乙卯 [一] 春、斉悼公が公孟綽を呉に送り、魯への出兵の必要がなくなったことを伝えました。 しかし呉王・夫差はこう言いました「昨年、寡人は(貴国の)命を聞いたが、今また改められた。どれ…
今回は東周敬王三十三年です。 敬王三十三年 前487年 甲寅 [一] 春正月、前年から曹を攻撃していた宋景公が兵を還そうとしました。大夫・褚師子肥が殿(しんがり)になります。しかし曹人が宋軍を罵ったため、殿が撤兵を止めました。先を進んでいた全軍が褚…
今回は東周敬王三十二年です。 敬王三十二年 前488年 癸丑 [一] 春、宋の皇瑗が鄭を侵しました。鄭が晋に背いたためです。 [二] 晋の魏曼多が衛を侵しました。衛が晋に服従しなかったためです。 [三] 夏、魯哀公が鄫(または「繒」)で呉と会しました。 呉が…
今回は東周敬王三十一年の続きです。 [七] 八月、斉の邴意茲(高氏・国氏の党)が魯に出奔しました。 [八] 斉の陳乞が使者を送って魯に出奔した公子・陽生(前年参照)を招きました。陽生は車を準備してから南郭且于(斉の公子・鉏。魯の南郭にいます)に会…
東周敬王三十一年(前489年)に楚昭王が死にました。 春秋時代275 東周敬王(四十四) 楚昭王の死 前489年(1) 『資治通鑑外紀』が楚昭王時代の故事を書いているので、ここで紹介します。 まずは『呂氏春秋・離俗覧・高義(第七)』からです。 荊(楚)昭王の時…
今回は東周敬王三十一年です。二回に分けます。 敬王三十一年 前489年 壬子 [一] 春、魯が邾瑕に城を築きました。 [二] 晋の趙鞅が鮮虞を攻めました。范氏に協力したためです。 [三] 呉が陳を攻めました。夫差時代の怨み(東周敬王二十六年・前494年参照)を…
東周敬王三十年(前490年)に『資治通鑑外紀』が『新序』『国語』等から中行氏や趙鞅に関する故事を書いています。 春秋時代274 東周敬王(四十三) 斉景公の死 前490年 ここでまとめて紹介します。 中行寅が出奔する時の事が『新序・雑事(巻一)』に書かれて…
今回は東周敬王三十年です。 敬王三十年 前490年 辛亥 [一] 春、魯が毗(または「比」)に築城しました。 [二] 晋が柏人(栢人)を包囲しました。 荀寅(中行寅。中行文子)と士吉射(范吉射。范昭子)は斉に奔り、趙氏が邯鄲(前年)と柏人を領有することに…
今回は東周敬王二十九年の続きです。 [十三] 越王・句践が呉に服従して三年が経ちました(東周敬王二十六年・前494年参照)。 呉が越王・句践を帰国させました。 以下、『国語・越語』の上・下からです。 当時、越王・句践の地は、南は句無、北は禦児、東は…
今回は東周敬王二十九年です。二回に分けます。 敬王二十九年 前491年 庚戍 [一] 春二月庚戌(二十一日)、蔡昭公(昭侯)が呉に行こうとしましたが、諸大夫は昭公が再び国を遷すのではないかと畏れ(二年前参照)、昭公を止めるために後を追いました。その…