2016-03-01から1ヶ月間の記事一覧

第二十回 晋献公が驪姫を立て、楚成王が子文を平定する(後編)

*今回は『東周列国志』第二十回の後編です。 翌日、後隊の王孫游が人を送って子元に報告しました「間諜の報告によると、斉侯が宋・魯二国の諸侯と共に自ら大軍を率いて鄭に向かっています。前隊の鬥将軍等が前進しないので、後隊も軍令を待ち、敵を迎え撃つ…

第二十回 晋献公が驪姫を立て、楚成王が子文を平定する(中編)

*今回は『東周列国志』第二十回の中編です。 献公は驪姫を寵愛したため、子の奚斉を後嗣に立てたいと思い始めました。ある日、それを驪姫に話します。 驪姫も心中では我が子が跡継ぎになることを願っていましたが、申生が既に世子に立てられており、廃立の…

第二十回 晋献公が驪姫を立て、楚成王が子文を平定する(前編)

第二十回 晋献公が卜に違えて驪姫を立て、楚成王が乱相子文を平定する (晋献公違卜立驪姫 楚成王平乱相子文) *『東周列国志』第二十回の前編です。 周恵王十年、徐と戎が斉に臣服しました。鄭文公は斉の勢力が拡大するのを見て、討伐を恐れて盟を請います…

春秋時代 白公の乱(後)

東周敬王四十一年(前479年)に楚で起きた白公の乱に関する記述を紹介しています。 春秋時代 白公の乱(前) 今回、まずは『淮南子・人間訓』からです。 白公の乱が起きる前に屈建が石乞に言いました「白公・勝が乱を起こすだろう。」 石乞が言いました「そん…

春秋時代 白公の乱(前)

東周敬王四十一年(前479年)に楚で白公の乱が起きました。 春秋時代290 東周敬王(五十九) 白公の乱(前) 前479年(2) 春秋時代291 東周敬王(六十) 白公の乱(後) 前479年(3) 二回に分けて『国語』等の記述を紹介します。 まずは『国語・楚語下』からです。 楚…

春秋時代294 東周敬王(六十三) 東周敬王の死 前477~476年

今回は東周敬王四十三年と四十四年です。 敬王四十三年 前477年 甲子 [一] 春、宋が皇瑗を殺しました。 『春秋左氏伝(哀公十八年)』は皇瑗が殺された場所を書いていませんが、『竹書紀年(今本・古本)』には「宋が大夫・皇瑗を丹水の辺で殺した」とありま…

春秋時代293 東周敬王(六十二) 衛の内乱 前478年(2)

今回は東周敬王四十二年の続きです。 [五] 楚恵王と葉公が子良(恵王の弟)を令尹にすることを枚卜で卜いました。牧卜というのは卜いの内容を語らずに亀の甲羅で卜うことです。 沈尹・朱(子朱)が言いました「吉です。志を越えています(原文「過於其志」。…

春秋時代292 東周敬王(六十一) 陳滅亡 前478年(1)

今回は東周敬王四十二年です。二回に分けます。 敬王四十二年 前478年 癸亥 [一] 衛荘公が渾良夫に問いました「わしは先君を継いだが、宝器がない(出公が出奔する時に運び出したからです)。どうすればいいだろう?」 渾良夫が燭を持つ者を去らせて自分で持…

春秋時代291 東周敬王(六十) 白公の乱(後) 前479年(3)

今回は東周敬王四十一年、白公の乱の続きからです。 [五(続き)] 秋七月、白公が乱を起こしました。子西と子期を朝廷で殺し、恵王を捕まえます。 子西は死ぬ時に袖で顔を隠しました。葉公に会わせる顔が無いからです。 子期は「昔、私は勇力によって国君に仕…

春秋時代290 東周敬王(五十九) 白公の乱(前) 前479年(2)

今回は東周敬王四十一年の続きです。 [四] 六月、衛荘公が平陽(衛都外)で孔悝と酒を飲み、厚い褒賞を与えました。諸大夫にも贈物が下賜されます。 孔悝が酔ったため荘公が送って帰りましたが、夜半に孔悝を追放しました。 孔悝は母の孔姫を車に乗せて平陽…

春秋時代289 東周敬王(五十八) 孔子の死 前479年(1)

今回は東周敬王四十一年です。三回に分けます。 敬王四十一年 前479年 壬戌 [一] 春正月己卯(二十七日)、衛世子(太子)・蒯聵が戚から衛に入り、衛侯・輒(出公)が魯に出奔しました。 これは『春秋』経文の記述で、『春秋左氏伝』は前年閏十二月の事とし…

春秋時代288 東周敬王(五十七) 衛荘公即位 前480年(2)

今回は東周敬王四十年の続きです。 [十] 『春秋左氏伝』によると、本年、衛で蒯聵が即位しました。『史記・衛康叔世家』は前年の事としています。以下、『春秋左氏伝(哀公十五年)』の記述です。 衛の孔圉(孔文子)は太子・蒯聵の姉(孔姫。孔伯姫)を娶っ…

春秋時代287 東周敬王(五十六) 魯・斉講和 前480年(1)

今回は東周敬王四十年です。二回に分けます。 敬王四十年 前480年 辛酉 [一] 春正月、魯の成邑が叛して斉に頼りました。 魯の仲孫彘(孟武伯)が成を討伐しましたが、勝てませんでした。 仲孫彘は輸に城を築きました。 [二] 夏、楚の子西と子期が呉を攻撃し…

春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(5)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。 春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年 今回は『史記』からです。 まずは『呉太伯世家』です。 呉王・夫差十四年(東周敬王三十八年・前482年)春、夫差が北上して黄池で諸侯と会しました。中国(中原)…

春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(4)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。 春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年 今回は『国語・越語上』からです。 越軍は呉を囿(笠沢)で破り、また没(地名)で破り、更に呉の郊外で破りました。 呉王・夫差が講和を求めて言いました「寡人の…

春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(3)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。 春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年 『国語・呉語』の続きです。 越王・句践が宮内に入り、夫人に命令を出しました。越王は寝門前の屏(屏風。外と中を遮る小さい壁)を背にして立ち、夫人が屏に向い…

春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(2)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。 春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年 『国語・呉語』の続きです。 呉王・夫差は黄池を退いてから、大夫・王孫苟を派遣して周王に功労を報告しました「かつて楚人が不道(無道)で王事(貢物の義務)を…

春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(1)

黄池の会から越の反撃、呉の滅亡に関して、本編は『春秋左氏伝』の記述を元にしました。 春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年 ここでは『国語』『史記』の記述を紹介します。 まずは『国語・呉語』からです。 呉王・夫差が申胥(伍子胥)を殺して…

第十九回 厲公が復国し、恵王が反正する(後編)

*『東周列国志』第十九回の後編です。 鄭厲公は楚文王の凶信(訃報)を聞いて喜び、「これで憂いがなくなった」と言いました。 叔詹が進言しました「『人に頼る者は危うく、人の臣となる者は辱められる(依人者危,臣人者辱)』といいます。我が国は斉と楚…

第十九回 厲公が復国し、恵王が反正する(中編)

*『東周列国志』第十九回の中編です。 厲公が復位して数日後、人心が安定したのを確認してから傅瑕を招いて言いました「汝は大陵を守って十七年も寡人を防ぐために尽力した。旧君に対して忠であったといえよう。しかし今、命を惜しんで死を恐れ、寡人のため…

第十九回 厲公が復国し、恵王が反正する(前編)

第十九回 傅瑕を捕えて厲公が復国し、子頽を殺して恵王が反正する 擒傅瑕厲公復国 殺子頽恵王反正 *『東周列国志』第十九回の前編です。 斉桓公が帰国すると、管仲が上奏しました「周が東遷してから鄭より強い国はありません。鄭は東虢を滅ぼして都とし、前…

第十八回 曹沫が斉侯を脅迫し、桓公が甯戚を爵す(後編)

*今回は『東周列国志』第十八回後編です。 管仲が去ってからも甯戚は峱山の下で牧牛をしました。 三日後、斉桓公の大軍が通りました。甯戚は以前と同じように短褐単衣を身に着け、破れた笠をかぶり、裸足で路旁に立ちました。大軍を恐れて避けるような様子…

第十八回 曹沫が斉侯を脅迫し、桓公が甯戚を爵す(中編)

*今回は『東周列国志』第十八回中編です。 魯荘公が会に行く日、群臣に問いました「共に参加できる者はいないか?」 将軍・曹沫が名乗り出ました。 すると荘公が言いました「汝は斉に三敗した(三敗に関する記述はありません)。斉人に笑われるのではないか…

春秋時代 西施

越が呉に美女・西施を献上しました。 春秋時代279 東周敬王(四十八) 呉・斉の対立 前486~485年 春秋時代 呉王夫差の驕侈 西施は中国史における四大美女の一人に数えられています。しかし西施の名は『春秋左氏伝』にも『史記』にも出てきません。 戦国時代の…

西周時代 箕子の『鴻範九等』(後)

箕子による「鴻範九等」の解説の続きです。 西周時代 箕子の『鴻範九等』(前) 箕子の話が続いています。 「三徳とは、一は正直、二は剛克(剛によって勝つこと)、三曰は柔克(柔によって勝つこと)です。世が平穏安康なら正直によって治めます(または「世…

西周時代 箕子の『鴻範九等』(前)

箕子が武王に「鴻範九等」の解説をしました。 西周時代5 武王(三) 分封 『史記・宋微子世家』から注釈(主に『集解』)をふまえて紹介します。『尚書・洪範』にほぼ同じ内容があります。 殷(商)を滅ぼした西周武王が箕子を訪ねました。 武王が言いました…

春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(後)

『史記・晋世家』から晋の公子・重耳の帰国について書いています。前回の続きです。 春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(前) 重耳一行が曹に入りました。しかし曹共公は礼を用いず、重耳の駢脅(肋骨がつながっているという奇相)を観ようとしました(沐…

春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(前)

東周襄王十七年(前636年)、晋の重耳が帰国しました。 春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1) ここでは『史記・晋世家』の記述を紹介します。 晋文公・重耳は晋献公の子です。 若い頃から士を愛し、十七歳で五人の賢士と交わりがありました。趙…

春秋時代 楚の出来事(後)

『国語』から楚の出来事を紹介しています。 春秋時代 楚の出来事(前) 『国語・楚語下』からです。 子期が平王の祭祀を行い、牛俎(祭祀で使った牛肉)を昭王に贈りました。昭王が観射父に問いました「祭祀ではどのような牲(犠牲)を用いるのだ?」 観射父が…

春秋時代 楚の出来事(前)

東周敬王十三年(前507年)に『資治通鑑外紀』が『国語』を元に楚の出来事を書いています。 春秋時代250 東周敬王(十九) 邾荘公 前508~507年 二回に分けて紹介します。 まずは『国語・楚語下』からです。 楚の大夫・王孫圉が晋に聘問しました。晋定公が宴を…