2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

第三十九回 柳下恵が敵を退け、晋文公が衛曹を破る(四)

*今回は『東周列国志』第三十九回その四です。 魏犨と顛頡の二人は以前から功績を自負して驕っていました。晋侯が僖氏を守る令を発すると、魏犨が怒って言いました「今日、我々が曹君を捕えてその将を斬ったのに、主公は一言の褒奨もなかった。わずかな盤飱…

第三十九回 柳下恵が敵を退け、晋文公が衛曹を破る(三)

*今回は『東周列国志』第三十九回その三です。 当時、斉では孝公が死に、国人が弟の潘を立てました。これを昭公といいます。葛嬴の子です。 昭公は大位を継いだばかりで、しかも穀を楚に奪われたため、晋と結んで楚に対抗したいと思っていました。 晋侯が斂…

第三十九回 柳下恵が敵を退け、晋文公が衛曹を破る(二)

*今回は『東周列国志』第三十九回その二です。 翌日、楚王が成得臣を大将に拝し、自ら大軍を統率しました。陳、蔡、鄭、許四路の諸侯を糾合して共に宋を討伐します。 楚と諸国の軍が緡邑を包囲すると、宋成公は司馬・公孫固を晋に送って急を告げました。 晋…

第三十九回 柳下恵が敵を退け、晋文公が衛曹を破る(一)

第三十九回 柳下恵が詞を授けて敵を退け、晋文公が衛を伐って曹を破る (柳下恵授詞却敵 晋文公伐衛破曹) *今回は『東周列国志』第三十九回その一です。 晋文公は温、原、陽樊、攢茅四邑の封境を定め、太行山の南まで領土を拡げました。この地を南陽といい…

戦国時代44 東周顕王(十二) 魏の遷都 前340~339年

今回は東周顕王二十九年と三十年です。 顕王二十九年 前340年 辛巳 [一] 『今本竹書紀年』によると、三月、魏が都城の北郛(北の外城)に大溝(大濠)を造り、圃田の水を入れました。 [二] 秦の衛鞅が秦孝公に言いました「秦と魏の関係は人の腹心に疾(病)…

第三十八回 周襄王が鄭に住み、晋文公が原を降す(後編)

*今回は『東周列国志』第三十八回後編です。 晋文公が出発しようとした時、河東の守臣が報告しました「秦伯が勤王のために自ら大兵(大軍)を率いて来ました。既に河上(黄河沿岸)に至っており、すぐにでも渡河を始めるはずです。」 孤偃が言いました「秦…

第三十八回 周襄王が鄭に住み、晋文公が原を降す(中編)

*今回は『東周列国志』第三十八回中編です。 二将が捕えられたと聞いた周襄王は、富辰にこう言いました「早くから卿の言に従っていれば、このような禍を招くことはなかった。」 富辰が言いました「翟の勢いは盛んです。王は暫く出巡するべきです。諸侯の中…

第三十八回 周襄王が鄭に住み、晋文公が原を降す(前編)

第三十八回 周襄王が乱を避けて鄭に住み、晋文公が信を守って原を降す (周襄王避乱居鄭 晋文公守信降原) *今回は『東周列国志』第三十八回前編です。 宮人・小東の話しを聞いた周襄王は、心頭で怒りが燃え上がりました。急いで床頭から宝剣を取ると、太叔…

戦国時代43 東周顕王(十一) 田忌の出奔 前341年(2)

今回は東周顕王二十八年の続きです。 [二] 斉の成侯・鄒忌(『資治通鑑』胡三省注によると、鄒は国名から生まれた氏です)は田忌を嫌っていました(以下、『資治通鑑』の記述です。『史記・田敬仲完世家』は東周顕王二十五年・前344年に書いています)。 鄒…

戦国時代42 東周顕王(十) 馬陵の戦い 前341年(1)

今回は東周顕王二十八年です。二回に分けます。 顕王二十八年 前341年 庚辰 [一] 魏の龐涓が韓(または「趙」。後述します)を攻撃しました。韓は斉に救援を求めます。 斉威王が大臣を集めて問いました「速く援けに行くべきか、ゆっくり援けに行くべきか?」…

第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(四)

*今回は『東周列国志』第三十七回その四です。 王の横に座っていた隗后は、甘公・帯の非凡な才貌と卓越した射術を見て、称賛を止めませんでした。隗后が襄王に問い、彼が金枝玉葉(王族)だと知ると、心底から愛慕の情を抱きます。 隗后が言いました「天色は…

第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(三)

*今回は『東周列国志』第三十七回その三です。 当時、鄭文公は楚に臣服しており、中国(中原)との交通を絶っていました。強大な楚に頼って弱国を虐げています。 滑伯が衛に仕えて鄭の指示を聞かなくなったため、鄭文公は兵を興して討伐しました。 滑伯が恐…

第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(二)

*今回は『東周列国志』第三十七回その二です。 晋文公が復国の論功行賞を行うために群臣を集めました。賞は三等に分けられます。亡命に従った者が首功、文公の帰国を助けた者が二等、文公を迎え入れて帰順した者が三等です。この三等の中でもそれぞれ功労の…

第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(一)

第三十七回 介子推が志を守って綿上で焚死し、太叔帯が寵に頼って宮中に入る (介子推守志焚綿上 太叔帯怙寵入宮中) *今回は『東周列国志』第三十七回その一です。 晋文公は王城で呂省と郤芮を誅殺してから、秦穆公に再拝して感謝の意を示しました。 この時…

第三十六回 晋呂郤が公宮を焼き、秦穆公が晋の乱を平定する(後編)

*今回は『東周列国志』第三十六回後編です。 勃鞮は呂・郤二人の猜疑を避けるため、決起の数日前から郤芮の家に住みました。挙兵の相談をするふりをして二人を油断させます。 二月晦日、勃鞮が郤芮に言いました「主公は明日の朝に視朝すると約束しました。…

第三十六回 晋呂郤が公宮を焼き、秦穆公が晋の乱を平定する(中編)

*今回は『東周列国志』第三十六回中編です。 晋懐公は呂省と郤芮からの勝報が届かないため、寺人・勃鞮を送って晋軍に出陣を督促させました。しかし寺人・勃鞮は道中で呂・郤が郇城に退却し、狐偃および公子・縶と講和したことを知りました。二人は懐公を裏…

第三十六回 晋呂郤が公宮を焼き、秦穆公が晋の乱を平定する(前編)

第三十六回 晋呂郤が夜に公宮を焼き、秦穆公が再び晋の乱を平定する (晋呂郤夜焚公宮 秦穆公再平晋乱) *今回は『東周列国志』第三十六回前編です。 狐毛と狐偃の兄弟は公子・重耳に従って秦にいました。父の狐突が子圉に殺されたと聞き、胸を叩いて大哭し…

戦国時代41 東周顕王(九) 覇者・秦孝公 前348~342年

今回は東周顕王二十一年から二十七年です。 顕王二十一年 癸酉 前348年 [一] 秦の商鞅が賦税法を改めました。 周代は井田制が行われていました。「井田制」は農民に私田と公田を与え、公田で収穫したものを国に納めさせるという制度です。しかし商鞅が井田制…

第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する(後編)

*今回は『東周列国志』第三十五回後編です。 秦穆公は子圉が別れも告げずに去ったと知り、罵って言いました「義に背く賊め!天が汝を守ることはない!」 穆公が諸大夫に言いました「夷吾の父子は共に寡人を裏切った。寡人は報復しなければならない。」 穆公…

第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する(中編)

*今回は『東周列国志』第三十五回中編です。 宋を去った重耳は鄭国に向かいました。早くも重耳が来たという情報が鄭文公に伝えられます。 文公が群臣に言いました「重耳は父に背いて逃走したため、列国が受け入れず、何度も飢餒(飢え)に苦しんでいる。こ…

第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する(前編)

第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する (晋重耳周游列国 秦懐嬴重婚公子) *今回は『東周列国志』第三十五回前編です。 公子・重耳は狐偃が計を用いて斉から連れ出した事に怒り、魏犨の戈を奪って狐偃を刺そうとしました。狐偃が急いで…

戦国時代40 東周顕王(八) 申不害 前352~349年

今回は東周顕王十七年から二十年です。 顕王十七年 前352年 己巳 [一] 『史記・秦本紀』によると、この年、秦の衛鞅が大良造に任命されました。 『資治通鑑』胡三省注には、「大良造は大上造の意味。もしくは大上造の中でも優れた者を指す」と解説しています…

戦国時代39 東周顕王(七) 桂陵の戦い 前353年

今回は東周顕王十六年です。 顕王十六年 戊辰 前353年 [一] 斉威王が田忌を派遣して趙を援けさせました(前年から魏が邯鄲を包囲しています)。 かつて孫臏という者が龐涓と共に兵法を学びました。 『資治通鑑』胡三省注はここで孫氏と龐氏の紹介をしていま…

戦国時代38 東周顕王(六) 宋の内乱 前355~354年

今回は東周顕王十四年と十五年です。 顕王十四年 前355年 丙寅 [一] 斉威王と魏恵王が郊野で会って狩りをしました。以下、『史記・田敬仲完世家』と『資治通鑑』からです。 魏恵王が「斉にも宝がありますか?」と問うと、斉威王は「ありません」と答えました…

戦国時代37 東周顕王(五) 鄒忌と淳于髠 前358~356年

今回は東周顕王十一年から十三年です。 顕王十一年 癸亥 前358年 [一] 秦が西山(韓領)で韓を破りました。 [二] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、鄭(韓)釐侯(昭侯)が許息を派遣して魏に土地を贈りました。平邱、戸牖、首垣の諸邑と鄭の馳地(馳道。…

第三十四回 宋襄公が衆を失い、斉姜氏が夫を遣わす(後編)

*今回は『東周列国志』第三十四回後編です。 楚・宋の事は置いて、再び晋の公子・重耳について話します。 重耳は周襄王八年に斉に移ってから、襄王十四年まで七年も斉に留まりました。その間に桓公の変に遭遇しました。諸子が国君の地位を争って国内が大乱に…

第三十四回 宋襄公が衆を失い、斉姜氏が夫を遣わす(中編)

*今回は『東周列国志』第三十四回中編です。 宋軍の動きを間諜が鄭文公に報告しました。驚いた文公は急いで楚に使者を送って急を告げます。楚成王が言いました「鄭は父に仕えるようにわしに仕えている。すぐに援けに行かなければならない。」 成得臣が進言し…

第三十四回 宋襄公が衆を失い、斉姜氏が夫を遣わす(前編)

第三十四回 宋襄公が偽の仁で衆を失い、斉姜氏が酔いに乗じて夫を遣わす (宋襄公假仁失衆 斉姜氏乗酔遣夫) *今回は『東周列国志』第三十四回前編です。 楚成王は乗車の会(兵を率いない会)を装いましたが、従っている者は全て壮丁で、服の中に甲冑を着こ…

戦国時代36 東周顕王(四) 衛鞅の変法 前359年

今回は東周顕王十年です。 顕王十年 壬戌 前359年 [一] 『史記・魏世家』によると、昼に星が落ちて大きな音が鳴り響きました。 [二] 『資治通鑑』が秦の衛鞅による変法改革について書いています。 当時、衛鞅が変法を行おうとしましたが、秦人は歓迎しません…

戦国時代35 東周顕王(三) 秦孝公と公孫鞅 前361~360年

今回は東周顕王八年と九年です。 顕王八年 前361年 庚申 [一] 『史記・六国年表』によると、この年、西方(秦の方角)に彗星が現れました。 『魏世家』にも「彗星が現れた」という記述があります。 [二] 『史記・魏世家』『六国年表』はこの年に「魏が趙を攻…