2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

戦国時代52 東周顕王(二十) 合従の崩壊 前332~328年

今回は東周顕王三十七年から四十一年までです。 顕王三十七年 前332年 己丑 [一] 秦恵王が犀首を派遣して斉と魏を脅し、共に趙を攻撃させました。 早くも蘇秦の従約(合従の盟約)が破られます。 趙粛侯が蘇秦を譴責しました。恐れた蘇秦は裏切った斉に報復…

第四十六回 楚商臣が父を弑し、秦穆公が屍を封ず(後編)

*今回は『東周列国志』第四十六回後編です。 鬥越椒は令尹の位を狙っていたため、穆王にこう言いました「子揚(鬥般。子文の子)はいつもこう言っています『我々父子は代々楚の政治を行い、先王の大恩を受けてきた。先王の志を達成できないことを慙愧してい…

第四十六回 楚商臣が父を弑し、秦穆公が屍を封ず(中編)

*今回は『東周列国志』第四十六回中編です。 当時、許と蔡の二国は晋文公が死んだため、再び楚の盟を受けていました。 晋襄公は陽処父を大将に任命して許を討伐させ、蔡にも侵攻させました。 これに対し、楚成王は鬥勃と成大心に蔡の救援を命じました。 楚…

第四十六回 楚商臣が父を弑し、秦穆公が屍を封ず(前編)

第四十六回 楚商臣が宮中で父を弑し、秦穆公が殽谷で屍を封ず (楚商臣宮中弑父 秦穆公殽谷封屍) *今回は『東周列国志』第四十六回前編です。 翟主・白部胡が晋軍に殺されたことは逃走した敗兵から弟の白暾に知らされました。白暾が泣いて言いました「私は…

戦国時代51 東周顕王(十九) 蘇秦の合従 前333年(3)

今回で東周顕王三十六年が終わります。 [五(続き)] 『資治通鑑』から蘇秦の記述に戻ります。 秦が趙を攻撃することはないと判断した蘇秦は、韓宣恵王に会ってこう言いました「韓の地は四方九百余里に及び、甲士は数十万を擁し、天下の強弓、勁弩、利剣は全…

戦国時代50 東周顕王(十八) 張儀登場 前333年(2)

今回は東周顕王三十六年の続きです。蘇秦の故事を書いています。 [五(続き)] 『資治通鑑』の記述です。 蘇秦が趙粛侯に言いました「今の世において、山東(崤山以東)に建つ国では趙より強い国はなく、秦が最も警戒している国も趙の他にありません。しかし秦…

戦国時代49 東周顕王(十七) 蘇秦登場 前333年(1)

今回は東周顕王三十六年です。三回に分けます。 顕王三十六年 前333年 戊子 [一] 『史記・秦本紀』によると、この年、秦が陰晋の人(魏人。『六国年表』では「徐晋人」)・犀首を大良造に任命しました。 犀首は官名で、姓は公孫、名は衍といいます。 [二] 楚…

第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(四)

*今回は『東周列国志』第四十五回その四です。 晋襄公が秦討伐の相談をしている時、突然、辺吏(辺境の官吏)が駆けつけて報告しました「翟主の白部胡が兵を率いて国境を侵し、既に箕城を通過しました。兵を発して防いでください!」 襄公が驚いて言いまし…

第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(三)

*今回は『東周列国志』第四十五回その三です。 襄公の母である嬴氏(文公夫人)も葬儀のため曲沃にいました。三帥が捕えられたという情報を知り、わざと襄公に問いました「我が国の兵が勝ち、孟明等が捕えられたと聞きました。これは社稷の福です。もう誅戮…

第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(二)

*今回は『東周列国志』第四十五回その二です。 孟明等の三帥が東崤に入って数里行軍しました。上天梯、墮馬崖、絶命巖、落魂澗、鬼愁窟、断雲峪といった名の険路が続きます。道幅が狭いため車は通れません。 前哨の褒蛮子が遥か前を進んでいるため、孟明が…

第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(一)

第四十五回 晋襄公が墨縗で秦を敗り、先元帥が胄を脱いで翟で殉じる (晋襄公墨縗敗秦 先元帥免胄殉翟) *今回は『東周列国志』第四十五回その一です。 晋の中軍元帥・先軫は既に秦が鄭を奇襲しようとしていることを知っていたため、襄公にこう言いました「…

第四十四回 叔詹が晋侯に抗し、弦高が秦軍を労う(後編)

*今回は『東周列国志』第四十四回後編です。 鄭国に弦高という商人がいました。かつて周の王子・頽が牛を愛してから、鄭・衛の商人は周に牛を売って重利を得てきました。弦高はその業を継いで牛を売っています。 弦高は商賈(商人)とはいえ、忠君愛国の心…

第四十四回 叔詹が晋侯に抗し、弦高が秦軍を労う(中編)

*今回は『東周列国志』第四十四回中編です。 周襄王二十四年、鄭文公・捷が死にました。群臣は弟の公子・蘭を国君に立てます。これを穆公といいます。かつて(穆公の母が)夢で見た蘭の兆が現実になりました。 同年冬、晋文公も病に倒れました。 文公が趙衰…

第四十四回 叔詹が晋侯に抗し、弦高が秦軍を労う(前編)

第四十四回 叔詹が鼎に拠って晋侯に抗し、弦高が命を偽って秦軍を労う (叔詹拠鼎抗晋侯 弦高假命犒秦軍) *今回は『東周列国志』第四十四回前編です。 秦穆公が秘かに鄭と盟を結び、晋に背いて撤兵したため、晋文公は激怒しました。 狐偃が言いました「秦…

戦国時代48 東周顕王(十六) 越の没落 前334年(2)

今回は東周顕王三十五年の続きです。 [九] 越王・無彊が斉を攻めました。 斉王は越に人を送り、斉を討つよりも楚を討った方が利があると遊説します。 越王はそれを聞いて楚を攻撃しました。 ところが越は楚に大敗します。 楚は勝ちに乗じて呉の故地をすべて…

戦国時代47 東周顕王(十五) 徐州の会と魏・斉の称王 前334年(1)

今回は東周顕王三十五年です。二回に分けます。 顕王三十五年 前334年 丁亥 [一] 『史記・周本紀』『六国年表』等にはこの年に「周顕王が秦恵王(実際はまだ王を称していません)に文武胙(西周文王と武王の祭祀で使った肉)を下賜した」とありますが、『資治…

第四十三回 智甯兪が衛を復し、老燭武が秦を説く(後編)

*今回は『東周列国志』第四十三回後編です。 復位した衛成公は吉日を選んで太廟の祭祀を行い、約束を守って周歂と冶廑に卿職を授けることにしました。二人には卿服を着て廟の祭祀に同席するように命じます。 当日五鼓(五更。午前三時から五時)、周歂が車…

第四十三回 智甯兪が衛を復し、老燭武が秦を説く(中編)

*今回は『東周列国志』第四十三回中編です。 周襄王が京師に戻り、群臣が謁見して祝賀しました。 晋の先蔑が稽首して晋侯の命を伝え、衛侯を司寇(法官)に預けるように求めます。 当時、周公・閲が太宰として政治を行っていたため、閲は衛侯を館舍(客舎)…

第四十三回 智甯兪が衛を復し、老燭武が秦を説く(前編)

第四十三回 智甯兪が鴆を借りて衛を復し、老燭武が城を降りて秦を説く (智甯兪假鴆復衛 老燭武縋城説秦) *今回は『東周列国志』第四十三回前編です。 諸侯の朝覲を終えた周襄王が洛陽に還ることになりました。諸侯は襄王を河陽の境まで見送ります。晋の先…

第四十二回 周襄王が覲を受け、衛元咺が対獄する(後編)

*今回は『東周列国志』第四十二回後編です。 諸侯による朝覲の礼が終わると、晋文公が衛叔武の冤情を襄王に訴え、王子虎による判決を請いました。襄王はこれに同意します。 文公は子虎を公館に招きました。賓客と主人が礼辞を述べて席を決めてから、王命を…

第四十二回 周襄王が覲を受け、衛元咺が対獄する(中編)

*今回は『東周列国志』第四十二回中編です。 この日、叔武は自ら輿隸(奴隷)を指示して宮室の掃除をしました。歂犬が衛都に入った時、ちょうど掃除を終えて庭で髪を洗っていました。 すると突然、甯兪が現れて「国君のお帰りです」と報告しました。 叔武は…

第四十二回 周襄王が覲を受け、衛元咺が対獄する(前編)

第四十二回 周襄王が河陽で覲を受け、衛元咺が公館で対獄する (周襄王河陽受覲 衛元咺公館対獄) *今回は『東周列国志』第四十二回前編です。 周襄王二十年、襄王自ら践土で晋文公を労いました。会が終わってから襄王は周に帰り、諸侯もそれぞれ別れを告げ…

戦国時代46 東周顕王(十四) 孟子 前336~335年

今回は東周顕王三十三年と三十四年です。 顕王三十三年 前336年 乙酉 [一] 宋の太丘(地名)の社(土地神の社)が崩れました(東周顕王四十二年・前327年に再述します)。 [二] 『史記・周本紀』『秦本紀』にはこの年に周顕王が秦恵王(実際はまだ王を称して…

第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す(後編)

*今回は『東周列国志』第四十一回後編です。 晋の大軍が衡雍に営寨を築きました。 文公は狐毛と狐偃に晋の兵を率いて践土の王宮を築造させ、同時に欒枝を鄭城に送って鄭伯と盟を結ばせました。 鄭伯も自ら衡雍を訪れて致餼(物資を提供すること)・謝罪した…

第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す(中編)

*今回は『東周列国志』第四十一回中編です。 晋文公は楚師を破ってから本営を楚の大寨に移しました。 寨内には楚軍の大量な糧草が残されています。晋の各軍はそれを消費し、戯れてこう言いました「これは楚人が我々を館穀(住む場所と食糧を提供すること。…

第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す(前編)

第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す (連谷城子玉自殺 践土壇晋侯主盟) *今回は『東周列国志』第四十一回前編です。 楚将・鬥越椒と小将軍・成大心は祁瞞を追撃せず晋の中軍に殺到しました。 越椒は風にはためく大将旗を見つけると…

第四十回 先軫が子玉を激し、晋楚が城濮で戦う(後編)

*今回は『東周列国志』第四十回後編です。 晋文公が諸将を集めて計を問いました。 先軫が言いました「元々楚を誘い出して戦威を挫くことが目的でした。しかも楚は斉を攻め、宋を包囲してから今に至っているので、その師は疲労しています。楚と戦うべきです…

第四十回 先軫が子玉を激し、晋楚が城濮で戦う(中編)

*今回は『東周列国志』第四十回中編です。 華秀老が斉に入って昭公に言いました「晋と楚が憎しみあっており、この難は上国(貴国)でなければ解決できません。もし上国によって社稷を保つことができるのなら、先朝の重器を惜しまないだけでなく、毎年、聘好…

第四十回 先軫が子玉を激し、晋楚が城濮で戦う(前編)

第四十回 先軫が詭謀で子玉を激し、晋楚が城濮で大いに兵を交わらせる (先軫詭謀激子玉 晋楚城濮大交兵) *今回は『東周列国志』第四十回前編です。 趙衰は晋侯の密旨を奉じて車で魏犨に会いに行きました。 この時、魏犨は胸に重傷を負い、床に寝ていまし…

戦国時代45 東周顕王(十三) 商鞅の失脚 前338~337年

今回は東周顕王三十一年と三十二年です。 顕王三十一年 前338年 癸未 [一] 『史記・秦本紀』によると、秦が晋(魏)と雁門(『史記・索隠』は「岸門」の誤りとしています。『六国年表』では「岸門」です)で戦いました。魏の将・魏錯を捕虜にします。 『六国…