東漢時代

東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)

今回で東漢献帝建安十二年が終わります。 [三] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月辛卯(初三日)、孛星(異星。彗星の一種)が鶉尾(十二星次のひとつ)に現れました。 [四] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 乙巳(十七日…

東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2)

今回は東漢献帝建安十二年の続きです。 [二(続き)] 曹操が田疇に命じ、その衆を率いて郷導(道案内)させました。 まず徐無山に上り、軍を率いて盧龍塞を出ます(徐無山は田疇が衆人を率いて守った山で(献帝初平四年・193年参照)、盧龍塞は徐無の北にあ…

東漢時代目録(五)

東漢時代目録(五)です。 東漢時代目録(一) 東漢時代目録(二) 東漢時代目録(三) 東漢時代目録(四) 東漢時代406 献帝(八十八) 烏桓遠征(前) 207年(1) 東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2) 東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3) 東漢時代409 …

東漢時代406 献帝(八十八) 烏桓遠征(前) 207年(1)

今回は東漢献帝建安十二年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十二年 丁亥 207年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、曹操が淳于から鄴に還りました。 丁酉(初五日)、曹操が功臣を封侯するように上奏し、令を発しました「…

東漢時代405 献帝(八十七) 八王廃国 206年(2)

今回は東漢献帝建安十一年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。 十月乙亥、曹操が令を発しました「世を治めて衆を御し、輔弼を建立する時(補佐の大臣を選ぶ時)、誡めは面従にある(面従している者に注意するべきだ。原文「誡在…

東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1)

今回は東漢献帝建安十一年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十一年 丙戌 206年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、孛星(異星。彗星の一種)が北斗に現れました。 『資治通鑑』胡三省注が北斗七星の説明をしています。北斗七星…

東漢時代403 献帝(八十五) 杜畿 205年(2)

今回は東漢献帝建安十年の続きです。 [七] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 九月、百官で特に貧しい者にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。 [八] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 曹操が令を下しました「互いにかばい合って徒党を組むのは、先聖…

東漢時代402 献帝(八十四) 冀州平定 205年(1)

今回は東漢献帝建安十年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十年 乙酉 205年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が南皮を攻めました。 しかし袁譚が出撃し、曹操軍の多くの士卒が死にます。 曹操が攻撃を緩めようとしま…

東漢時代401 献帝(八十三) 徐氏 204年(4)

今回で東漢献帝建安九年が終わります。 [七] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 丹陽の大都督・嬀覧(『資治通鑑』胡三省注によると、舜が嬀汭に住んだため、その後代が嬀を氏にしました)、郡丞・戴員が太守・孫翊(孫権の弟)を殺しまし…

東漢時代400 献帝(八十二) 袁譚背反 204年(3)

今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 九月、曹操が令を下しました「河北は袁氏の難に遭った(罹袁氏之難)。よって今年の租賦を出さないように命じる(今年の租賦を免除する)。」 また、豪強による土地の兼併を制限する法(豪彊兼并之法)を厳重…

東漢時代399 献帝(八十一) 鄴平定 204年(2)

今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 本文に戻ります 夜、袁尚が火を挙げて城中に示しました。城中も火を挙げて応じます。 審配は兵を城北に出し、袁尚と内外で向かい合って包囲を崩そうとしました(欲與尚対決囲)。 しかし曹操に逆撃され、審配…

東漢時代398 献帝(八十) 袁尚討伐 204年(1)

今回は東漢献帝建安九年です。四回に分けます。 東漢献帝建安九年 甲申 204年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が河を渡り、淇水を止めて水を白溝に入れ、糧道を通しました。袁尚を攻撃するためです。 『資治通鑑』胡…

東漢時代397 献帝(七十九) 孫権の征討 203年(3)

今回で東漢献帝建安八年が終わります。 [六(続き)] 曹操が南方から軍を還しました。 冬十月、黎陽に至ります。 袁尚は曹操が北に向かって渡河すると聞き、平原の包囲を解いて鄴に還りました。 袁尚の将・呂曠と高翔が叛して曹操に帰順しました。 『三国志・…

東漢時代396 献帝(七十八) 袁譚講和 203年(2)

今回は東漢献帝建安八年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 秋七月、曹操が令を下しました「喪乱以来十五年が経ち、後生の者が仁義礼譲の風を見ていないので、吾(私)は甚だ悲痛している(甚傷之)。よって郡国にそれぞれ文学を修めさせ…

東漢時代395 献帝(七十七) 曹操北伐 203年(1)

今回は東漢献帝建安八年です。三回に分けます。 東漢献帝建安八年 癸未 203年 [一] 『資治通鑑』からです。 春二月、曹操が黎陽を攻め、袁譚、袁尚と城下で戦いました。 袁譚と袁尚は敗走して鄴に還ります。 『三国志・魏書一・武帝紀』は「春三月、(曹操が…

東漢時代394 献帝(七十六) 曹操と孫権 202年(3)

今回で東漢献帝建安七年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表が劉備に北侵させました。劉備は葉に至ります。 『資治通鑑』胡三省注によると、葉県は南陽郡に属します。春秋時代、楚の葉公・子高の邑でした。 曹操は…

東漢時代393 献帝(七十五) 賈逵 鐘繇 202年(2)

今回は東漢献帝建安七年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋九月、曹操が渡河して袁譚を攻めました。 袁譚は袁尚に急を告げます。 袁尚は審配を留めて鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、共に曹操を防ぎました。 …

東漢時代392 献帝(七十四) 袁紹の後継者 202年(1)

今回は東漢献帝建安七年です。三回に分けます。 東漢献帝建安七年 壬申 202年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月,曹操が譙に駐軍しました。 譙県は沛国に属し、曹操の郷里です。 曹操が令を発しました「吾(私)は義兵を起こし…

東漢時代391 献帝(七十三) 劉璋 張魯 201年(2)

今回は東漢献帝建安六年の続きです。 [四] 『資治通鑑』からです。 曹操が夏侯淵と張遼を派遣し、東海で昌豨を包囲させました(昌豨は献帝建安四年・199年に曹操に叛して劉備に附きました)。 しかし数カ月後に食糧が尽きたため、軍を還すことが議論されまし…

東漢時代390 献帝(七十二) 髀肉の嘆 201年(1)

今回から紀元三世紀に入ります。 三世紀は約四百年続いた漢王朝が滅び、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に入ります。 その後、魏から政権を奪った晋が天下を統一しますが、すぐに政局が不安定になり、四世紀には東晋十六国・南北朝という大分裂時代を迎えるこ…

東漢時代389 献帝(七十一) 李術討伐 200年(11)

今回で東漢献帝建安五年が終わります。 [十四] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 以前、孫策が上表して李術を廬江太守にしましたが、孫策の死後、李術は孫権に仕えようとせず、多数の亡叛(逃亡離反)した者を受け入れました。 孫権が書…

東漢時代388 献帝(七十) 曹操と孫権 200年(10)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 冬十月辛亥(十二日)、孛星(異星。彗星の一種)が大梁(十二星次の一つ)に現れました。 [十一] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 東海王・劉祗が死にました。 劉祗の諡号は懿王といいます…

東漢時代387 献帝(六十九) 戦後 200年(9)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九(続き)] 袁紹軍は驚擾(恐慌・混乱)して大崩壊しました。 袁紹および袁譚等は幅巾(頭巾)を被って馬に乗り、軍を棄てて八百騎と共に渡河します。 曹操は袁紹を追撃して追いつけませんでしたが、輜重、図書、珍宝を…

東漢時代386 献帝(六十八) 許攸 200年(8)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九(続き)] 曹操が袁紹と対峙して月を連ねました。最近の戦いで敵将を斬りましたが、兵の数は少なく、食糧も尽き、士卒は疲弊窮乏しています。 曹操が物資を輸送する者に会った時、彼等を撫でて(または「慰撫して」。『…

東漢時代385 献帝(六十七) 官渡の戦い 200年(7)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。 曹操が兵を出して袁紹と戦いましたが、勝てなかったため、引き返して営壁を堅めました。 『三国志・武帝紀』はここで…

東漢時代384 献帝(六十六) 劉辟と劉備 200年(6)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [五] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、献帝が皇子・劉馮を南陽王に立てました。 壬午(十二日)、南陽王・劉馮が死にました。 『補後漢書年表(巻二)』によると、劉馮には子がいなかったため、国…

東漢時代383 献帝(六十五) 孫権 200年(5)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四(続き)] 孫策の死後、跡を継いだ孫権は悲痛のため号泣し、政務を行いませんでした(未視事)。 ここで少し遡って孫権について書きます。 孫権は字を仲謀といいます。 孫堅が下邳丞だった時に生まれました。四角い頤…

東漢時代382 献帝(六十四) 孫策の死(下) 200年(4)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四(続き)] 前回、孫策が死にました。 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』は孫策が死んだ日を明確にしておらず、「建安五年、曹公と袁紹が官渡で対峙したため、孫策が秘かに許を襲撃して漢帝を迎えようと欲し、隠れて兵…

東漢時代381 献帝(六十三) 孫策の死(上) 200年(3)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四] 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』『三国志・呉書二・呉主伝』の本文および裴松之注と『後漢書・孝献帝紀』『資治通鑑』からです。 広陵太守・陳登が射陽を治めていました。陳登は陳瑀の従兄(陳珪)の子です。 孫…

東漢時代380 献帝(六十二) 顔良と文醜 200年(2)

今回は東漢献帝建安五年の続きです。 [三(続き)] 袁紹が郭図、淳于瓊、顔良を派遣し、白馬で東郡太守・劉延を攻撃させました。 沮授が袁紹に「顔良の性(性格)は促狭(度量が小さいこと)です。驍勇とはいえ、彼一人に任せることはできません(不可独任)…