東漢時代

東漢時代437 献帝(百十九) 傅幹の諫言 214年(5)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。 『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植…

東漢時代436 献帝(百十八) 劉備の蜀経営(後) 214年(4)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」 成都が攻略されると、士衆は…

東漢時代435 献帝(百十七) 劉備の蜀経営(前) 214年(3)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 『三国志・先主伝』裴松之注が魏の出来事を書いています。 劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡し…

東漢時代434 献帝(百十六) 蜀平定 214年(2)

今回は東漢献帝建安十九年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。 呂蒙が孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます…

東漢時代 魏公曹操(2)

献帝の策命を紹介しています。 東漢時代 魏公曹操(1) 前回の続きです。 「朕が聞くに、先王は明徳を並建し(明徳がある者を並べて封建し)、土地を授けて民を分け与え(胙之以土,分之以民)、その寵章を崇めて礼物を備えた(高貴な爵位を示す礼服の格調を髙…

東漢時代433 献帝(百十五) 韓遂敗走 214年(1)

今回は東漢献帝建安十九年です。六回に分けます。 東漢献帝建安十九年 甲午 214年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。 「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。 今回の…

東漢時代432 献帝(百十四) 馬超敗退 213年(4)

今回で東漢献帝建安十八年が終わります。 [十(続き)] 一方、馬超は趙昂の子・趙月を質(人質)に取りました。 趙昂が妻の異(『資治通鑑』胡三省注によると、異は士氏の娘です)に言いました「吾(私)の謀はこのようであり、事は必ず万全だ。月をどうする…

東漢時代431 献帝(百十三) 馬超の反撃 213年(3)

今回も東漢献帝建安十八年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が馬超を追って安定に至りましたが、田銀と蘇伯が反したと聞き、軍を率いて還りました(曹操は前年正月に鄴に帰還しました)。 参涼州軍事・楊阜が曹操に進言しました「…

東漢時代430 献帝(百十二) 劉備の進撃 213年(2)

今回は東漢献帝建安十八年の続きです。 [五] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 大雨が降りました(大雨水)。 [六] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 趙王・劉珪を博陵王に遷しました。 趙国を含む冀州が魏国として曹操に封じられたためです。 […

東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)

今回は東漢献帝建安十八年です。四回に分けます。 東漢献帝建安十八年 癸巳 213年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が濡須口に進軍しました。歩騎四十万を号します。 曹操軍は孫権の江西の…

東漢時代428 献帝(百十) 劉備と劉璋 212年(2)

今回は東漢献帝建安十七年の続きです。 [十二] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、曹操が東進して孫権を撃ちました。 董昭が曹操に言いました「古から今まで、人臣の匡世(世を正すこと)において今日ほどの功はなく(曹操ほど功…

東漢時代427 献帝(百九) 建業 212年(1)

今回は東漢献帝建安十七年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十七年 壬辰 212年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が鄴に還りました。 献帝が詔を発して曹操に「賛拝不名(入朝・謁見等の時、会をしきる官員から氏名…

東漢時代426 献帝(百八) 益州 211年(3)

今回で東漢献帝建安十六年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 扶風の人・法正が益州牧・劉璋の軍議校尉になりましたが、劉璋は法正を用いることができませんでした。 『資治通鑑』胡三省…

東漢時代425 献帝(百七) 韓遂・馬超討伐(後) 211年(2)

今回は東漢献帝建安十六年の続きです。 [四(続き)] 韓遂が曹操との会見を請いました。 曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉になり(韓遂の父は高齢で孝廉になったようです)、曹操自身も韓遂と同輩だったため(同時儕輩)、旧交がありました。 二人が馬を並べて言…

東漢時代424 献帝(百六) 韓遂・馬超討伐(前) 211年(1)

今回は東漢献帝建安十六年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十六年 辛卯 211年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、献帝が曹操の世子(太子)・曹丕を五官中郎将に任命し、官属を置いて丞相の副(補佐)にしました。 『資…

東漢時代423 献帝(百五) 士燮 210年(3)

今回で東漢献帝建安十五年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 以前、孫権が呂蒙に言いました「卿は今、道に当たって事を掌握している(権力がある立場にいて政事を行っている。原文「当塗掌事」)。学ばなければならない。」 呂蒙は軍中の多務(多…

東漢時代422 献帝(百四) 周瑜の死 210年(2)

今回は東漢献帝建安十五年の続きです。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表の旧吏士で北軍(曹操軍)に従わされていた者の多くが曹操に叛して劉備に帰順しました。 劉備は周瑜から与えられた地が狭く…

東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1)

今回は東漢献帝建安十五年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十五年 庚寅 210年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 当時は崔琰と毛玠が選挙を管理しており、品行を重視して清正の士を推挙していました(建安十三年・208年参照)。 …

東漢時代420 献帝(百二) 合肥の戦い 209年

今回は東漢献帝建安十四年です。 東漢献帝建安十四年 己丑 209年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、曹操軍が譙に至りました(赤壁から帰還しました)。 軽舟を作り、水軍を治めました。 [二] 『三国志・呉書二・呉主伝』か…

東漢時代419 献帝(百一) 劉備南進 208年(11)

今回で東漢献帝建安十三年が終わります。 [十四] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が上表して劉琦を荊州刺史に任命しました。 また、兵を率いて南下し、四郡を攻略しました。武陵太守・金旋、長沙太守…

東漢時代418 献帝(百) 赤壁の戦い 208年(10)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)]本文に戻ります。 周瑜が進軍して赤壁で曹操と遭遇しました。 当時、曹操の軍衆(軍隊)では既に疾疫(疫病)が発生していました。 初めの交戦では(初一交戦)曹操軍に利がなかったため、曹操は兵を退い…

東漢時代417 献帝(九十九) 劉備と周瑜 208年(9)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)] 本文に戻ります。 この時、劉備は樊口にいました。諸葛亮が呉を訪ねてまだ還らず、しかも曹操軍が東下していると聞いたため、恐懼した劉備は毎日、邏吏(巡邏偵察の官員)を派遣し、水次(水辺、または船…

東漢時代416 献帝(九十八) 孫権の決断 208年(8)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)] 当時、曹操は劉表の衆を得たばかりで、形勢が甚だ盛んだったため、孫権の群臣は曹操が東下しているという噂を聞いて恐れを抱いていました(望風畏懼)。 そこに曹操の書が届きました。孫権にこう伝えます…

東漢時代415 献帝(九十七) 孫権と諸葛亮 208年(7)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月癸未朔、日食がありました。 [十二] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』『三国志・呉書二・呉主伝』本文および裴松之注と『資治通鑑…

東漢時代414 献帝(九十六) 荊州の人材 208年(6)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十(続き)] 曹操が江陵に進軍しました。 荊州の吏民に令を下し、共に更始すること(新しい統治を始めること。原文「與之更始」)を宣言します。 その後、荊州が服従した功を論じ、劉琮を青州刺史に任命して列侯に封じ…

東漢時代413 献帝(九十五) 当陽長坂 208年(5)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十(続き)] 当時、劉備は樊に駐屯していました。 『資治通鑑』胡三省注によると、樊城は襄陽東に位置し、北に漢水が流れています。周の大夫・樊仲山甫の邑でした。 劉琮は曹操に降ることを劉備に告げませんでした(原…

東漢時代412 献帝(九十四) 荊州投降 208年(4)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』の本文と裴松之注および『後漢書・孝献帝紀』『資治通鑑』からです。 劉表には劉琦と劉琮という二子がいました。 劉表が少子…

東漢時代411 献帝(九十三) 孔融の死 208年(3)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [五] 『資治通鑑』からです。 曹操が張遼を長社に駐屯させました。 張遼が出発する時、軍中に造反を謀る者がいました。 夜、営内を驚乱させて火を起こしたため、全軍が混乱に陥ります(一軍尽擾)。 張遼が左右の者に…

東漢時代410 献帝(九十二) 丞相曹操と司馬懿 208年(2)

今回は東漢献帝建安十三年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏六月、漢朝が三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を置きました。 癸巳(初九日)、曹操を丞相にしました。 『資治通鑑』胡三省注が…

東漢時代409 献帝(九十一) 甘寧と黄祖 208年(1)

今回は東漢献帝建安十三年です。十一回に分けます。 東漢献帝建安十三年 戊子 208年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、司徒・趙温が曹操の子・曹丕を招聘しました。 しかし曹操がこう上表しました「趙温は臣の子弟を辟しました(…