2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

戦国時代92 東周赧王(三十) 華陽の戦い 前273年(一)

今回は東周赧王四十二年です。二回に分けます。 赧王四十二年 前273年 戊子 [一] 趙と魏が韓の華陽を攻めました。『史記・秦本紀』『趙世家』『魏世家』等の記述とは異なります(前年参照)。 以下、『史記・韓世家』と『資治通鑑』からです。 韓が秦に急を…

戦国時代 屈原

東周赧王三十七年(前278年)に楚の屈原に触れました。 戦国時代91 東周赧王(二十九) 楚都・郢陥落 前278~274年 以下、『史記・屈原列伝(巻八十四)』から抜粋します。 屈原は名を平といい、楚王と同姓です。楚懐王の左徒を勤めました。左徒というのは楚の…

戦国時代91 東周赧王(二十九) 楚都・郢陥落 前278~274年

今回は東周赧王三十七年から四十一年です。 赧王三十七年 前278年 癸未 [一] 秦の大良造・白起が楚を攻撃して都の郢を攻略しました。夷陵(楚王の陵墓)が焼かれます。 楚頃襄王の軍は四散し、再戦できる状態ではなかったため、国都の東に敗走して陳城(旧陳…

戦国時代 田単

田単が斉の相になりました。 戦国時代90 東周赧王(二十八) 荘蹻 前279年(3) 『資治通鑑』が田単の故事を書いているのでここで紹介します。元の話は『戦国策・斉策六』に見られます。 ある日、田単が淄水を渡った時、一人の老人に出会いました。老人は淄水を…

第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(四)

*今回は『東周列国志』第五十八回その四です。 翌日五鼓(午前三時から五時。早朝)、両軍が戦鼓を敲いて兵を進めました。 晋の上軍元帥・郤錡が楚の左軍を攻め、公子・嬰斉に対します。下軍元帥・韓厥が楚の右軍を攻め、公子・壬夫に対します。欒書と士燮…

第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(三)

*今回は『東周列国志』第五十八回その三です。 楚共王が晋営に突然迫って陣を築きました。不意を突かれた晋軍が混乱すると思っています。しかし晋営は静かなままで動きがありません。そこで太宰・伯州犁に問いました「晋兵は営塁を堅く守って動こうとしない…

第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(二)

*今回は『東周列国志』第五十八回その二です。 宋共公が上卿・華元を晋に送って弔問し、併せて新君即位を祝賀しました。 華元は欒書と商議し、晋・楚の講和を成立させようとしました。南北の争いを解消して生民(民衆)を塗炭の苦しみから逃れさせるためで…

第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(一)

第五十八回 秦伯を説得して魏相が医者を迎え、魏錡に報いて養叔が芸を献じる (説秦伯魏相迎医 報魏錡養叔献芸) *今回は『東周列国志』第五十八回その一です。 晋景公が蓬頭(髪を乱した様子)の大鬼(幽霊・妖怪)に襲われ、口から鮮血を吐いて地に倒れた…

第五十七回 巫臣が晋に逃げ、程嬰が孤児を匿う(後編)

*今回は『東周列国志』第五十七回後編です。 趙盾には二人の心腹の門客がいました。一人は公孫杵臼、もう一人は程嬰といいます。 屠岸賈が下宮を包囲した時、公孫杵臼は程嬰と共に難に赴こうとしました。しかし程嬰がこう言いました「彼は君命を偽って討賊…

第五十七回 巫臣が晋に逃げ、程嬰が孤児を匿う(中編)

*今回は『東周列国志』第五十七回中編です。 翌朝、屈巫は一通の表章(国君に提出する文書)を書いて従人に渡し、楚王に届けさせました。屈巫は夏姫と共に晋国に奔ります。 晋景公は楚に大敗したことを恥としていたため、屈巫が来たと聞いて喜んで言いまし…

第五十七回 巫臣が晋に逃げ、程嬰が孤児を匿う(前編)

第五十七回 夏姫を娶って巫臣が晋に逃げ、下宮を囲んで程嬰が孤児を匿う (娶夏姫巫臣逃晋 囲下宮程嬰匿孤) *今回は『東周列国志』第五十七回前編です。 晋兵は斉侯を追撃して四百五十里も進み、袁婁という場所で営寨を築いて攻城の準備をしました。 斉頃…

戦国時代90 東周赧王(二十八) 荘蹻 前279年(3)

今回で東周赧王三十六年が終わります。 [六] 趙王が楽毅を尊重して観津に封じました。燕・斉に対する警備が強化されます。 燕恵王が人を送って楽毅に謝罪し、併せて批難してこう伝えました「将軍は誤って伝聞を信じたため、寡人と間隙を生じ、燕を棄てて趙に…

戦国時代89 東周赧王(二十七) 火牛の計 前279年(2)

今回は東周赧王三十六年の続きです。 [三] 燕の楽毅が斉都・臨淄に入ってから、燕軍は安平を攻撃しました。具体的な時間はわかりません。 その時、臨淄の市掾(市を管理する小官)・田単が安平におり、宗人に命じて車轊(馬車の車輪の中央で、車軸が出っ張っ…

戦国時代88 東周赧王(二十六) 澠池の会 前279年(1)

今回は東周赧王三十六年です。三回に分けます。 赧王三十六年 前279年 壬午 [一] 秦の白起が楚を攻めて鄢(または「阝」の右に「焉」)、鄧、西陵を取りました。 鄢は楚都・郢と併称して「鄢郢」とよばれる重要な地です。 この戦いで、鄢では水攻めが行われ…

戦国時代87 東周赧王(二十五) 秦の黔中攻略 前280年

今回は東周赧王三十五年です。 赧王三十五年 前280年 辛巳 [一] 秦の白起が趙軍を破って二万を斬首し、代の光狼城を取りました。 『資治通鑑』胡三省注によると、光狼城は元々代国に属していましたが、趙襄子が代を滅ぼしてから中山国が光狼の地を奪いました…

戦国時代86 東周赧王(二十四) 楚の出来事 前281年

今回は東周赧王三十四年です。 赧王三十四年 前281年 庚辰 [一] 秦が趙を攻めて石城を攻略しました。 [二] 『史記・趙世家』によると、趙王が衛の東陽(旧衛領。この時は趙領)に入り、黄河を決壊させました。南岸は魏の地です。その後、趙軍が魏を攻撃しま…

戦国時代85 東周赧王(二十三) 前282年

今回は東周赧王三十三年です。 赧王三十三年 前282年 己卯 [一] 『史記・趙世家』に「楽毅が趙師を率いて魏の伯陽を攻撃した」とあります。 楽毅は燕の将です。『楽毅列伝(巻八十)』には記述がなく、なぜ楽毅が趙軍を率いたのかわかりません。 東周赧王五…

第五十六回 蕭夫人が客を笑い、逢丑父が君を逃がす(後編)

*今回は『東周列国志』第五十六回後編です。 孫良夫は敗軍をまとめて新築の城内に入り、数日休憩しました。諸将が帰還の指示を請います。しかし孫良夫はこう言いました「元々斉に報いるために来たのに、逆に敗れてしまった。どの面目があって我が主に会える…

第五十六回 蕭夫人が客を笑い、逢丑父が君を逃がす(中編)

*今回は『東周列国志』第五十六回中編です。 当時、魯では卿の東門仲遂も叔孫得臣も死んでおり、季孫行父が正卿として政治を行っていました。斉で笑い者になって帰国してから、怨みに報いることを誓います。 しかし郤克が晋侯に斉討伐を上奏したところ、太…

第五十六回 蕭夫人が客を笑い、逢丑父が君を逃がす(前編)

第五十六回 蕭夫人が台に登って客を笑い、逢丑父が服を変えて君を逃がす (蕭夫人登台笑客 逢丑父易服免君) *今回は『東周列国志』第五十六回前編です。 荀林父が郤雍を用いて盗賊を取り締まりましたが、羊舌職は郤雍が善い終わりを迎えることができないと…

戦国時代84 東周赧王(二十二) 衛嗣君 前283年(2)

今回は東周赧王三十二年の続きです。 [五] 趙王が楚の「和氏の璧」を得ました。 『資治通鑑』胡三省注が和氏の璧について簡単に紹介しています。 かつて楚の卞和という者が玉璞(加工する前の玉。原石)を得たため、楚厲王に献上しました。ところが、厲王が…

戦国時代83 東周赧王(二十一) 斉襄王即位 前283年(1)

今回は東周赧王三十二年です。二回に分けます。 赧王三十二年 前283年 戊寅 [一] 秦と趙が穰で会しました。 これは『資治通鑑』の記述です。『史記・秦本紀』は「楚王と鄢で会し、また穰で会した」としており、『六国年表』も秦と会したのは趙ではなく楚とし…

戦国時代82 東周赧王(二十) 楽毅の斉討伐 前284年

今回は東周赧王三十一年です。 赧王三十一年 前284年 丁丑 [一] 燕が諸侯と協力して斉を攻撃しました。『資治通鑑』を中心に見ていきます。 燕王が斉討伐のために国内の兵を総動員し、楽毅を上将軍に任命しました。 『資治通鑑』胡三省注に、「上将軍は春秋…

戦国時代81 東周赧王(十九) 桀宋の滅亡 前287~285年

今回は東周赧王二十八年から三十年までです。 赧王二十八年 前287年 甲戌 [一] 秦が趙を攻め、新垣と曲陽を取りました。 これは『資治通鑑』の記述です。胡三省注は「趙」を「魏」としており、『史記・魏世家』にも「秦が魏の新垣と曲陽の城を攻略した」とあ…

戦国時代80 東周赧王(十八) 秦・斉の称帝 前288年

今回は東周赧王二十七年です。 赧王二十七年 前288年 癸酉 [一] 『史記・趙世家』によると、趙の董叔と魏氏が宋を攻め、魏の河陽を得ました(原文「董叔与魏氏伐宋,得河陽於魏。」魏氏は魏国だと思いますが、趙と魏が一緒に宋を攻めたのに、魏の河陽を得た…

戦国時代79 東周赧王(十七) 白起登場 前294~289年

今回は東周赧王二十一年から二十六年までです。 赧王二十一年 前294年 丁卯 [一] 秦が魏を解で破りました。 [二] 『史記・秦本紀』によると、秦の向寿が韓を攻めて武始を取りました。 また、左更・白起が韓の新城を取りました。 『白起列伝(巻七十三)』では…

戦国時代78 東周赧王(十六) 趙の内乱 前295年

今回は東周赧王二十年です。 赧王二十年 前295年 丙寅 [一] 秦の尉錯(国尉・司馬錯)が魏の襄城を攻めました。 これは『資治通鑑』の記述です。『史記・魏世家』は「秦が魏の襄城を攻略した」と書いています。 『資治通鑑』胡三省注によると、襄城は魏と韓…

写真 粽子(ちまき) 端午節

明日は旧暦五月初五日、端午節です。 中国では粽子(ちまき。zong zi/4声。ゾンズ)を食べます。 我が家では昨晩いただきました。 文化や習慣というのは、時代に合わせて変化するものですが、日本が旧暦の習慣を新暦にあてはめているのは、どうも釈然としま…

第五十五回 華元が子反を脅かし、老人が杜回に対抗する(後編)

*今回は『東周列国志』第五十五回後編です。 晋景公は荀林父だけでは潞討伐に失敗するかもしれないと思い、自らも大軍を率いて稷山に駐軍していました。 潞を平定した荀林父は先に稷山に戻って戦利品を献上します。赤狄の地を攻略するために副将・魏顆を残…

第五十五回 華元が子反を脅かし、老人が杜回に対抗する(中編)

*今回は『東周列国志』第五十五回中編です。 楚軍が長期戦の準備をしているという情報は宋城内にも届きました。 華元が宋文公に言いました「楚王には去るつもりがなく、晋の援軍も来ないので、どうしようもありません。臣が楚営に入って子反(公子・側)に…