西漢時代

西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年

今回は西漢哀帝建平三年です。 西漢哀帝建平三年 丁卯 前4年 [一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、広徳夷王・劉雲客の弟・劉広漢を広平王に立てました。 劉雲客は中山靖王・劉勝(景帝の子)の子孫です。中山王の家系が途絶えていたため…

西漢時代293 哀帝(八) 朱博の死 前5年(3)

今回で西漢哀帝建平二年が終わります。 [十一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、渭城西北にある原上(高知。山上の平らな部分)の永陵亭一帯を初陵(皇帝陵)にしました。この陵は義陵と呼ばれます。 郡国の民を初陵に移住させるという命…

西漢時代292 哀帝(七) 赤精子の讖 前5年(2)

今回は西漢哀帝建平二年の続きです。 [七] 朱博と趙玄がまた上奏しました「新都侯・王莽もかつて大司馬となりましたが、尊尊の義(尊重するべき人を尊重する道理)を広めず、尊号を抑貶(抑え貶めること)して孝道を虧損しました(王莾も傅太后が尊号を称す…

西漢時代291 哀帝(六) 鼓妖 前5年(1)

今回は西漢哀帝建平二年です。三回に分けます。 西漢哀帝建平二年 丙辰 前5年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、孛星(異星。彗星の一種)が牽牛に現れました。 牽牛は星宿(星座)の名です。『資治通鑑』胡三省注によると、牽牛宿には六星があり、天の…

西漢時代290 哀帝(五) 馮太后事件 前6年(4)

今回で西漢哀帝建平元年が終わります。 [十] 『資治通鑑』からです。 哀帝が杜業の言を採用して朱博を招きました。 朱博は成帝綏和元年(前8年)に罷免されています。 『漢書・杜周伝(巻六十)』によると、成帝が死んで哀帝が即位してから、杜業が上書しま…

西漢時代289 哀帝(四) 師丹失脚 前6年(3)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 郎中令・泠褒(『資治通鑑』胡三省注によると、古の楽工を泠人といい、そこから泠氏が生まれました。周代に泠州鳩という者がいました。当時は「郎中令」という官名はないはずなので、胡三省…

西漢時代288 哀帝(三) 耿育の上書 前6年(2)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。 [三(続き)] 議郎・耿育が上書しました「継嗣(後嗣)が統(秩序、準則)を失い、適(嫡子)を廃して庶(庶子)を立てるのは、聖人の法が禁じていることであり、古今の至戒(最大の戒め)であると聞いています。しかし太…

西漢時代287 哀帝(二) 成帝の子 前6年(1)

今回は西漢哀帝建平元年です。四回に分けます。 西漢哀帝建平元年 乙卯 前6年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、北地郡に十六の隕石が落ちました。 [二] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 天下に大赦しました。 [三] 『資治通鑑』からです。 司…

西漢時代286 哀帝(一) 西漢哀帝

今回から西漢哀帝の時代です。 孝哀皇帝 定陶恭王・劉康の子で、名を劉欣といいます。成帝の跡を継ぎました。 以下、『漢書・哀帝紀』からです(一部は既述した内容と重複します)。 孝哀皇帝は元帝の庶孫で定陶恭王(劉康)の子です。母を丁姫といいます。 三…

西漢時代285 成帝(四十三) 師丹 前7年(6)

今回で西漢成帝綏和二年が終わります。 [二十一] 『資治通鑑』からです。 大司空・何武の後母(継母)が蜀郡に住んでいました(『資治通鑑』胡三省注によると、何武は蜀郡郫県の人です)。 そこで何武は吏(官吏)を派遣して後母を迎えに行かせました。 とこ…

西漢時代 谷永・劉向の進言

成帝元延元年(前12年)、天変が続いたため、成帝が群臣に意見を求めました。 西漢時代271 成帝(二十九) 天変 前12年(1) 以下、『資治通鑑』から谷永と劉向の進言を紹介します。 北地太守・谷永が言いました「王者が自ら道徳を行い(躬行道徳)、天地に承順…

西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十八] 『漢書・哀帝紀』からです。 哀帝が詔を発しました「朕は宗廟の重(重責)を継承して戦戦兢兢とし、天心を失うことを懼れている。最近、日月に光がなく、五星が行(通常の運行)を失い、郡国で頻繁に地震が起きて…

西漢時代283 成帝(四十一) 傅喜 前7年(4)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十五] 『資治通鑑』からです。 哀帝が未央宮で酒宴を開くことにしました。内者令(『資治通鑑』胡三省注によると少府に属します。宦者が担当し、宮中の布・帳や諸衣物を管理しました)が傅太后のために幕を張り(原文「…

西漢時代282 成帝(四十) 劉秀の『七略』 前7年(3)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。 [十二] 『資治通鑑』からです。 王莽は中塁校尉・劉歆に材行(才能と徳行)があると判断したため、推挙して侍中にしました。劉歆はやがて光禄大夫に遷されて貴幸(顕貴な地位と皇帝の寵信)を得ます。 劉歆は劉秀に改名…

西漢時代281 成帝(三十九) 傅太后 前7年(2)

今回は西漢成帝綏和二年の続きです。 [九] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 四月己卯(中華書局『白話資治通鑑』は「己卯」を恐らく誤りとしています。下述します)、孝成皇帝を延陵に埋葬しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、延陵は扶風に…

西漢時代280 成帝(三十八) 成帝の死 前7年(1)

今回は西漢成帝綏和二年です。六回に分けます。 西漢成帝綏和二年 甲寅 前7年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、成帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祭しました。 [二] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月壬子(十三日)、丞相・…

西漢時代279 成帝(三十七) 王莽台頭 前8年(5)

今回で西漢成帝綏和元年が終わります。 [十(続き)] 『資治通鑑』本文に戻ります。 函谷都尉・建平侯・杜業は以前から翟方進と不仲でした。 翟方進が上奏しました「杜業は紅陽侯の書を受け取って請いを聴きました。不敬の罪に当たります,」 杜業は罷免され…

西漢時代278 成帝(三十六) 淳于長の失脚 前8年(4)

今回も西漢成帝綏和元年です。 [十] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 衛尉・侍中・淳于長(王政君の姉の子)は成帝の寵を受けており、大いに信用されていたため、権貴が公卿を圧倒しました。外は諸侯、州牧、郡守と結び、賄賂や賞賜は鉅万(巨万)…

西漢時代277 成帝(三十五) 夏侯藩と匈奴 前8年(3)

今回も西漢成帝綏和元年です。 [六] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋八月庚戌(初九日)、中山王・劉興(孝王)が死にました。 『漢書・諸侯王表』と『漢書・宣元六王伝(巻八十)』によると、劉興の子・劉箕子が跡を継ぎました。 劉箕子は成帝…

西漢時代276 成帝(三十四) 殷周の子孫 前8年(2)

今回は西漢成帝綏和元年の続きです。 [三] 『漢書・成帝紀』『漢書・楊胡朱梅云伝(巻六十七)』と『資治通鑑』からです。 武帝時代に周の後代・姫嘉を周子南君に封じました(武帝元鼎四年・前113年参照)。 元帝時代、周子南君を尊重して周承休侯に改め、位…

西漢時代275 成帝(三十三) 皇太子 前8年(1)

今回は西漢成帝綏和元年です。五回に分けます。 西漢成帝綏和元年 癸丑 前8年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、天下に大赦しました。 [二] 『資治通鑑』からです。 成帝が丞相・翟方進、御史大夫・孔光、右将軍・廉褒、後将軍・朱博…

西漢時代274 成帝(三十二) 劉欣と劉興 前10~9年

今回は西漢成帝元延三年と四年です。 西漢成帝元延三年 辛亥 前10年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月丙寅(初十日)、蜀郡の岷山が崩れました。江(恐らく「岷江」。長江上流の支流です)が三日に渡って塞がれ、江水が涸れてしまいま…

西漢時代273 成帝(三十一) 烏孫 康居 前11年

今回は西漢成帝元延二年です。 西漢成帝元延二年 庚戌 前11年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、成帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祭を行いました。 三月、河東を行幸して后土を祀りました。 成帝は祭祀が終わってから龍門に行遊し、歴観…

西漢時代272 成帝(三十) 折檻 前12年(2)

今回は西漢成帝元延元年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 特進・安昌侯・張禹が平陵肥牛亭の地を求めました。 張禹は成帝が太子だった頃に『論語』を教授しました(成帝河平四年・前25年)。 『資治通鑑』胡三省注によると、張禹はこの地に冢塋(墓…

西漢時代271 成帝(二十九) 天変 前12年(1)

今回は西漢成帝元延元年です。二回に分けます。 西漢成帝元延元年 己酉 前12年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月己亥朔、日食がありました。 [二] 『資治通鑑』からです。 壬戌(二十四日)、王商が再び大司馬・衛将軍になりました。 …

西漢時代270 成帝(二十八) 梁王劉立 前13年

今回は西漢成帝永始四年です。 西漢成帝永始四年 戊申 前13年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、成帝が甘泉に行幸し、泰畤で郊祭を行いました 神光が降って紫殿に集まりました。 天下に大赦しました。 甘泉宮は雲陽県にあるため、雲陽…

西漢時代269 成帝(二十七) 祭祀の恢復 前14年

今回は西漢成帝永始三年です。 西漢成帝永始三年 丁未 前14年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月己卯晦、日食がありました。 成帝が詔を発しました「天災が頻繁に重なり、朕は甚だ懼れている。民の失職を想い、大中大夫・嘉等を臨遣(皇…

西漢時代268 成帝(二十六) 昌陵事件 前15年(3)

今回で西漢成帝永始二年が終わります。 [九] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 成帝が雍を行幸して五畤を祀りました。 『資治通鑑』胡三省注は「成帝建始二年(前31年)、雍の五畤を廃止した。今回、久しく継嗣(後継者)がいなかったため、甘泉・…

西漢時代267 成帝(二十五) 翟方進と孔光 前15年(2)

今回は西漢成帝永始二年の続きです。 [七(続き)] 成帝が張放等と宴を開いた時、長信庭林表がちょうど使いに来ており、班伯と成帝のやり取りを見ました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「長信庭林表」は「長信宮庭の林表」を指します。長信宮は王太后が住…

西漢時代266 成帝(二十四) 班伯 前15年(1)

今回は西漢成帝永始二年です。三回に分けます。 西漢成帝永始二年 丙午 前15年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月己丑(初三日)、大司馬・車騎将軍・安陽侯・王音(敬侯)が死にました。 王氏では王音だけが身を修めて整えており、しば…