西漢時代
今回で西漢成帝永始元年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 かつて鄼侯・蕭何の子孫で侯位を継いだ者の中には、子がいなかったり罪を犯した者がいたため、前後して五回、祭祀が途絶えました。しかし高后(呂太后)、文帝、景帝、武帝、宣帝が蕭何の…
今回は西漢成帝永始元年の続きです。 [四] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 六月丙寅(初七日)、趙氏(飛燕)を皇后に立てて、天下に大赦しました。 趙飛燕は皇后に立てられてから寵愛が少し衰えました。妹(『飛燕外伝』では趙合徳)が最も寵幸…
今回は西漢成帝永始元年です。三回に分けます。 西漢成帝永始元年 乙巳 前16年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月癸丑(二十二日)、太官の凌室(氷を貯蔵する部屋)で火災がありました。 戊午(二十七日)、戾后(史良娣。宣帝の祖母)…
今回は西漢成帝鴻嘉四年です。 西漢成帝鴻嘉四年 甲辰 前17年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春正月、成帝が詔を発しました「しばしば有司(官員)に敕し(指示し)、寬大を行うことに務め、苛暴を禁止させたが、今に至っても改められていない。一人に辜…
今回は西漢成帝鴻嘉三年です。 西漢成帝鴻嘉三年 癸卯 前18年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月、天下に大赦しました。 [二] 『漢書・成帝紀』からです。 吏民が爵位を買えるようにしました。爵一級の値を千銭にしました。 [三] 『漢書…
今回は西漢成帝鴻嘉二年です。 西漢成帝鴻嘉二年 壬寅 前19年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、成帝が雲陽、甘泉を行幸しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、甘泉宮は雲陽県にあります。 [二] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からで…
今回は西漢成帝鴻嘉元年です。 西漢成帝鴻嘉元年 辛丑 前20年 [一] 『資治通鑑』からです。 谷永が上奏しました「聖王は名誉(名声)を実効(実際の成果、功績)よりも上にはしませんでした(聖王不以名誉加於実效)。御史大夫は任が重く職が大きいものです…
今回は西漢成帝陽朔三年と四年です。 西漢成帝陽朔三年 己亥 前22年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月壬戌(中華書局の『白話資治通鑑』は「壬戌」を恐らく誤りとしています)、八つの隕石が東郡に落ちました。 [二] 『漢書・成帝紀』…
今回は西漢成帝陽朔二年です。 西漢成帝陽朔二年 戊戌 前23年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春なのに寒冷が続きました。 成帝が詔を発しました「昔、帝堯が羲・和の官を立てた時(帝堯は羲氏と和氏を天地を管理する官に立てました)、四時(四季)の事を…
今回は西漢成帝陽朔元年続きです。 [三(続き)] 王鳳が王商を弾劾して罷免させ、後には定陶王を国に帰らせたため、成帝は王鳳に対して不平を抱えていました。 王章の進言を聴いた成帝はついに感寤(覚醒。悟ること)し、意見を採用して王章に言いました「京兆…
今回は西漢成帝陽朔元年です。二回に分けます。 西漢成帝陽朔元年 丁酉 前24年 『漢書・成帝紀』の注によると、応劭が「当時は陰が盛んで陽が衰えていたため、『陽朔』に改元し、陽気の蘇息を願った」と解説しています。 しかし顔師古はこれを否定し、「朔は…
今回は西漢成帝河平四年です。 西漢成帝河平四年 丙申 前25年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、匈奴復株累若鞮単于が来朝しました。 [二] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 天下の徒(囚徒)を赦しました(大赦しました)。…
今回は西漢成帝河平三年です。 西漢成帝河平三年 乙未 前26年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、楚王・劉囂が来朝しました。 劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。 二月乙亥(十六日)、成帝が詔を発し、劉囂の素行が純茂(善美)なので特別に優…
今回は西漢成帝河平二年の続きです。 [六] 『資治通鑑』からです。 御史大夫・張忠が京兆尹・王尊の暴虐倨慢(驕慢)を弾劾しました。 王尊は罪に坐して免官されます。 しかし吏民の多くが王尊を惜しみ、湖(『資治通鑑』胡三省注によると、湖は県名で京兆に…
今回は西漢成帝河平二年です。二回に分けます。 西漢成帝河平二年 甲午 前27年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春正月、沛郡の鉄官が鉄飛を鋳ました(鉄官冶鉄飛)。 『成帝紀』は「『五行志』に語(記述)がある」と書いています。 以下、『漢書・五行志上…
今回は西漢成帝河平元年です。 西漢成帝河平元年 癸巳 前28年 『資治通鑑』胡三省注によると、決壊した黄河の堤防を塞いで河を平定したため改元しました(下述します)。 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、杜欽が犍為の人・王延世を王鳳に推…
今回は西漢成帝建始四年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 南山の群盗・傰宗等、数百人が吏民の害になっていました。 成帝は詔を発して兵千人を動員し、傰宗等の駆逐・逮捕を命じまたが、一年余経っても捕えられません。 ある人が大将軍・王鳳に言い…
今回は西漢成帝建始四年です。二回に分けます。 西漢成帝建始四年 壬辰 前29年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月癸卯(二十六日)、隕石が亳(または「槀」)に四つ落ち、肥累に二つ落ちました。 槀も肥累も県名で真定王国に属します(武帝元鼎三年・前11…
今回は西漢成帝建始三年です。 西漢成帝建始三年 辛卯 前30年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、天下の徒(囚人)を赦しました(大赦しました)。 孝弟(悌)・力田に爵二級を下賜しました。 租賦を納める能力がなく救済を受けている者…
今回は西漢成帝建始二年です。 西漢成帝建始二年 庚寅 前31年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、雍の五畤と陳宝祠を廃しました。全て匡衡の進言によります。 『資治通鑑』胡三省注によると、秦が雍に四畤を造り、白帝、青帝、黄帝、赤…
今回は西漢成帝建始元年の続きです。 [九] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月壬子、成帝が舅(母・王政君の兄弟)の諸吏・光禄大夫・関内侯・王崇を安成侯に封じました。 『漢書・外戚恩沢表』によると、王崇の諡号は共侯です。 『漢書・成帝紀…
今回は西漢成帝建始元年です。二回に分けます。 西漢成帝建始元年 己丑 前32年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月乙丑(初一日)、皇曾祖(皇帝の曾祖父)・悼考廟で火災がありました。 「悼考」は宣帝の父・劉進(史皇孫)を指します。劉…
西漢時代の目録の続きです。 西漢時代目録(上) 西漢時代目録(中) 西漢時代243 成帝(一) 成帝劉驁 西漢時代244 成帝(二) 石顕失脚 前32年(1) 西漢時代245 成帝(三) 外戚王氏 前32年(2) 西漢時代246 成帝(四) 杜欽 前31年 西漢時代247 成帝(五) 匡衡失脚 前30…
今回から西漢成帝の時代です。 孝成皇帝 元帝の太子で名を劉驁、字を太孫といいます。「驁」は良馬を意味します。 以下、『漢書・成帝紀』からです。 成帝の母は王皇后(王政君)で、元帝が太子だった頃、太子宮甲観画堂で劉驁を生みました(宣帝甘露三年・…
今回で元帝の時代が終わります。 [九] 『漢書・元帝紀』と『資治通鑑』からです。 元帝の病が重くなり、寝込んでしまいました。 傅昭儀と山陽王・劉康は常に元帝の左右にいましたが、皇后(王政君)と太子(劉驁)はほとんど謁見の機会がありません。 元帝の…
今回も西漢元帝竟寧元年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 中書令・石顕は以前、姉を甘延寿に嫁がせようとしましたが、甘延寿に断られました。 甘延寿が郅支単于を破って帰還することになった時、丞相や御史は甘延寿が矯制(皇帝の偽の命令を出すこ…
今回は西漢元帝竟寧元年の続きです。 [二] 帰還した呼韓邪単于は王昭君(王嬙。昭君は字)を寧胡閼氏と号しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「胡(匈奴)がこれを得て国が安寧になる」という意味です。 王昭君は一男を産みました。伊屠智牙師といい…
今回は西漢元帝竟寧元年です。四回に分けます。 西漢元帝竟寧元年 戊子 前33年 応劭(『漢書』の注者)によると、呼韓邪単于が辺塞を守ること(保塞)を願い、辺境が安寧を得たので、「竟寧」に改元しました。この場合、「竟」は「境」の意味になります。 し…
今回は西漢元帝建昭四年と五年です。 西漢元帝建昭四年 丙戌 前35年 [一] 『漢書・傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』と『資治通鑑』からです。 春正月、郅支単于の首が京師に届きました。 甘延寿と陳湯が上書しました「臣が聞くに、天下の大義は統一にあります(天…
今回は西漢元帝建昭三年の続きです。 [三(続き)] 郅支単于が使者を送って漢軍に問いました「漢兵は何をしに来たのだ?」 漢軍が答えました「単于は上書して『困戹(困苦)の地に住んでいるので、強漢に帰計(帰順して計を聴くこと)し、身を(漢に)入れて朝見…