西漢時代

西漢時代265 成帝(二十三) 蕭何の子孫 前16年(3)

今回で西漢成帝永始元年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 かつて鄼侯・蕭何の子孫で侯位を継いだ者の中には、子がいなかったり罪を犯した者がいたため、前後して五回、祭祀が途絶えました。しかし高后(呂太后)、文帝、景帝、武帝、宣帝が蕭何の…

西漢時代264 成帝(二十二) 昌陵廃止 前16年(2)

今回は西漢成帝永始元年の続きです。 [四] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 六月丙寅(初七日)、趙氏(飛燕)を皇后に立てて、天下に大赦しました。 趙飛燕は皇后に立てられてから寵愛が少し衰えました。妹(『飛燕外伝』では趙合徳)が最も寵幸…

西漢時代263 成帝(二十一) 王莽登場 前16年(1)

今回は西漢成帝永始元年です。三回に分けます。 西漢成帝永始元年 乙巳 前16年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月癸丑(二十二日)、太官の凌室(氷を貯蔵する部屋)で火災がありました。 戊午(二十七日)、戾后(史良娣。宣帝の祖母)…

西漢時代262 成帝(二十) 杜鄴 前17年

今回は西漢成帝鴻嘉四年です。 西漢成帝鴻嘉四年 甲辰 前17年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春正月、成帝が詔を発しました「しばしば有司(官員)に敕し(指示し)、寬大を行うことに務め、苛暴を禁止させたが、今に至っても改められていない。一人に辜…

西漢時代261 成帝(十九) 趙飛燕 前18年

今回は西漢成帝鴻嘉三年です。 西漢成帝鴻嘉三年 癸卯 前18年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月、天下に大赦しました。 [二] 『漢書・成帝紀』からです。 吏民が爵位を買えるようにしました。爵一級の値を千銭にしました。 [三] 『漢書…

西漢時代260 成帝(十八) 昌陵邑 前19年

今回は西漢成帝鴻嘉二年です。 西漢成帝鴻嘉二年 壬寅 前19年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、成帝が雲陽、甘泉を行幸しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、甘泉宮は雲陽県にあります。 [二] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からで…

西漢時代259 成帝(十七) 成帝の微行 前20年

今回は西漢成帝鴻嘉元年です。 西漢成帝鴻嘉元年 辛丑 前20年 [一] 『資治通鑑』からです。 谷永が上奏しました「聖王は名誉(名声)を実効(実際の成果、功績)よりも上にはしませんでした(聖王不以名誉加於実效)。御史大夫は任が重く職が大きいものです…

西漢時代258 成帝(十六) 王立 前22~21年

今回は西漢成帝陽朔三年と四年です。 西漢成帝陽朔三年 己亥 前22年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月壬戌(中華書局の『白話資治通鑑』は「壬戌」を恐らく誤りとしています)、八つの隕石が東郡に落ちました。 [二] 『漢書・成帝紀』…

西漢時代257 成帝(十五) 劉向の進言 前23年

今回は西漢成帝陽朔二年です。 西漢成帝陽朔二年 戊戌 前23年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春なのに寒冷が続きました。 成帝が詔を発しました「昔、帝堯が羲・和の官を立てた時(帝堯は羲氏と和氏を天地を管理する官に立てました)、四時(四季)の事を…

西漢時代256 成帝(十四) 王章と馮野王 前24年(2)

今回は西漢成帝陽朔元年続きです。 [三(続き)] 王鳳が王商を弾劾して罷免させ、後には定陶王を国に帰らせたため、成帝は王鳳に対して不平を抱えていました。 王章の進言を聴いた成帝はついに感寤(覚醒。悟ること)し、意見を採用して王章に言いました「京兆…

西漢時代255 成帝(十三) 王鳳専横 前24年(1)

今回は西漢成帝陽朔元年です。二回に分けます。 西漢成帝陽朔元年 丁酉 前24年 『漢書・成帝紀』の注によると、応劭が「当時は陰が盛んで陽が衰えていたため、『陽朔』に改元し、陽気の蘇息を願った」と解説しています。 しかし顔師古はこれを否定し、「朔は…

西漢時代254 成帝(十二) 王商失脚 前25年

今回は西漢成帝河平四年です。 西漢成帝河平四年 丙申 前25年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、匈奴復株累若鞮単于が来朝しました。 [二] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 天下の徒(囚徒)を赦しました(大赦しました)。…

西漢時代253 成帝(十一) 『別録』『七略』 前26年

今回は西漢成帝河平三年です。 西漢成帝河平三年 乙未 前26年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、楚王・劉囂が来朝しました。 劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。 二月乙亥(十六日)、成帝が詔を発し、劉囂の素行が純茂(善美)なので特別に優…

西漢時代252 成帝(十) 夜郎の叛乱 前27年(2)

今回は西漢成帝河平二年の続きです。 [六] 『資治通鑑』からです。 御史大夫・張忠が京兆尹・王尊の暴虐倨慢(驕慢)を弾劾しました。 王尊は罪に坐して免官されます。 しかし吏民の多くが王尊を惜しみ、湖(『資治通鑑』胡三省注によると、湖は県名で京兆に…

西漢時代251 成帝(九) 鉄飛 前27年(1)

今回は西漢成帝河平二年です。二回に分けます。 西漢成帝河平二年 甲午 前27年 [一] 『漢書・成帝紀』からです。 春正月、沛郡の鉄官が鉄飛を鋳ました(鉄官冶鉄飛)。 『成帝紀』は「『五行志』に語(記述)がある」と書いています。 以下、『漢書・五行志上…

西漢時代250 成帝(八) 許皇后 前28年

今回は西漢成帝河平元年です。 西漢成帝河平元年 癸巳 前28年 『資治通鑑』胡三省注によると、決壊した黄河の堤防を塞いで河を平定したため改元しました(下述します)。 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、杜欽が犍為の人・王延世を王鳳に推…

西漢時代249 成帝(七) 陳湯 前29年(2)

今回は西漢成帝建始四年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 南山の群盗・傰宗等、数百人が吏民の害になっていました。 成帝は詔を発して兵千人を動員し、傰宗等の駆逐・逮捕を命じまたが、一年余経っても捕えられません。 ある人が大将軍・王鳳に言い…

西漢時代248 成帝(六) 洪水 前29年(1)

今回は西漢成帝建始四年です。二回に分けます。 西漢成帝建始四年 壬辰 前29年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月癸卯(二十六日)、隕石が亳(または「槀」)に四つ落ち、肥累に二つ落ちました。 槀も肥累も県名で真定王国に属します(武帝元鼎三年・前11…

西漢時代247 成帝(五) 匡衡失脚 前30年

今回は西漢成帝建始三年です。 西漢成帝建始三年 辛卯 前30年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、天下の徒(囚人)を赦しました(大赦しました)。 孝弟(悌)・力田に爵二級を下賜しました。 租賦を納める能力がなく救済を受けている者…

西漢時代246 成帝(四) 杜欽 前31年

今回は西漢成帝建始二年です。 西漢成帝建始二年 庚寅 前31年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、雍の五畤と陳宝祠を廃しました。全て匡衡の進言によります。 『資治通鑑』胡三省注によると、秦が雍に四畤を造り、白帝、青帝、黄帝、赤…

西漢時代245 成帝(三) 外戚王氏 前32年(2)

今回は西漢成帝建始元年の続きです。 [九] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月壬子、成帝が舅(母・王政君の兄弟)の諸吏・光禄大夫・関内侯・王崇を安成侯に封じました。 『漢書・外戚恩沢表』によると、王崇の諡号は共侯です。 『漢書・成帝紀…

西漢時代244 成帝(二) 石顕失脚 前32年(1)

今回は西漢成帝建始元年です。二回に分けます。 西漢成帝建始元年 己丑 前32年 [一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月乙丑(初一日)、皇曾祖(皇帝の曾祖父)・悼考廟で火災がありました。 「悼考」は宣帝の父・劉進(史皇孫)を指します。劉…

西漢時代目録(下)

西漢時代の目録の続きです。 西漢時代目録(上) 西漢時代目録(中) 西漢時代243 成帝(一) 成帝劉驁 西漢時代244 成帝(二) 石顕失脚 前32年(1) 西漢時代245 成帝(三) 外戚王氏 前32年(2) 西漢時代246 成帝(四) 杜欽 前31年 西漢時代247 成帝(五) 匡衡失脚 前30…

西漢時代243 成帝(一) 成帝劉驁

今回から西漢成帝の時代です。 孝成皇帝 元帝の太子で名を劉驁、字を太孫といいます。「驁」は良馬を意味します。 以下、『漢書・成帝紀』からです。 成帝の母は王皇后(王政君)で、元帝が太子だった頃、太子宮甲観画堂で劉驁を生みました(宣帝甘露三年・…

西漢時代242 元帝(二十五) 元帝の死 前33年(4)

今回で元帝の時代が終わります。 [九] 『漢書・元帝紀』と『資治通鑑』からです。 元帝の病が重くなり、寝込んでしまいました。 傅昭儀と山陽王・劉康は常に元帝の左右にいましたが、皇后(王政君)と太子(劉驁)はほとんど謁見の機会がありません。 元帝の…

西漢時代241 元帝(二十四) 甘延寿と陳湯の封侯 前33年(3)

今回も西漢元帝竟寧元年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 中書令・石顕は以前、姉を甘延寿に嫁がせようとしましたが、甘延寿に断られました。 甘延寿が郅支単于を破って帰還することになった時、丞相や御史は甘延寿が矯制(皇帝の偽の命令を出すこ…

西漢時代240 元帝(二十三) 王昭君 前33年(2)

今回は西漢元帝竟寧元年の続きです。 [二] 帰還した呼韓邪単于は王昭君(王嬙。昭君は字)を寧胡閼氏と号しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「胡(匈奴)がこれを得て国が安寧になる」という意味です。 王昭君は一男を産みました。伊屠智牙師といい…

西漢時代239 元帝(二十二) 呼韓邪単于入朝 前33年(1)

今回は西漢元帝竟寧元年です。四回に分けます。 西漢元帝竟寧元年 戊子 前33年 応劭(『漢書』の注者)によると、呼韓邪単于が辺塞を守ること(保塞)を願い、辺境が安寧を得たので、「竟寧」に改元しました。この場合、「竟」は「境」の意味になります。 し…

西漢時代238 元帝(二十一) 太子劉驁 前35~34年

今回は西漢元帝建昭四年と五年です。 西漢元帝建昭四年 丙戌 前35年 [一] 『漢書・傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』と『資治通鑑』からです。 春正月、郅支単于の首が京師に届きました。 甘延寿と陳湯が上書しました「臣が聞くに、天下の大義は統一にあります(天…

西漢時代237 元帝(二十) 郅支単于滅亡 前36年(2)

今回は西漢元帝建昭三年の続きです。 [三(続き)] 郅支単于が使者を送って漢軍に問いました「漢兵は何をしに来たのだ?」 漢軍が答えました「単于は上書して『困戹(困苦)の地に住んでいるので、強漢に帰計(帰順して計を聴くこと)し、身を(漢に)入れて朝見…