2018-01-01から1年間の記事一覧

東漢時代416 献帝(九十八) 孫権の決断 208年(8)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)] 当時、曹操は劉表の衆を得たばかりで、形勢が甚だ盛んだったため、孫権の群臣は曹操が東下しているという噂を聞いて恐れを抱いていました(望風畏懼)。 そこに曹操の書が届きました。孫権にこう伝えます…

東漢時代415 献帝(九十七) 孫権と諸葛亮 208年(7)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月癸未朔、日食がありました。 [十二] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』『三国志・呉書二・呉主伝』本文および裴松之注と『資治通鑑…

東漢時代414 献帝(九十六) 荊州の人材 208年(6)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十(続き)] 曹操が江陵に進軍しました。 荊州の吏民に令を下し、共に更始すること(新しい統治を始めること。原文「與之更始」)を宣言します。 その後、荊州が服従した功を論じ、劉琮を青州刺史に任命して列侯に封じ…

東漢時代413 献帝(九十五) 当陽長坂 208年(5)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十(続き)] 当時、劉備は樊に駐屯していました。 『資治通鑑』胡三省注によると、樊城は襄陽東に位置し、北に漢水が流れています。周の大夫・樊仲山甫の邑でした。 劉琮は曹操に降ることを劉備に告げませんでした(原…

東漢時代412 献帝(九十四) 荊州投降 208年(4)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』の本文と裴松之注および『後漢書・孝献帝紀』『資治通鑑』からです。 劉表には劉琦と劉琮という二子がいました。 劉表が少子…

東漢時代411 献帝(九十三) 孔融の死 208年(3)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [五] 『資治通鑑』からです。 曹操が張遼を長社に駐屯させました。 張遼が出発する時、軍中に造反を謀る者がいました。 夜、営内を驚乱させて火を起こしたため、全軍が混乱に陥ります(一軍尽擾)。 張遼が左右の者に…

東漢時代410 献帝(九十二) 丞相曹操と司馬懿 208年(2)

今回は東漢献帝建安十三年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏六月、漢朝が三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を置きました。 癸巳(初九日)、曹操を丞相にしました。 『資治通鑑』胡三省注が…

東漢時代409 献帝(九十一) 甘寧と黄祖 208年(1)

今回は東漢献帝建安十三年です。十一回に分けます。 東漢献帝建安十三年 戊子 208年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、司徒・趙温が曹操の子・曹丕を招聘しました。 しかし曹操がこう上表しました「趙温は臣の子弟を辟しました(…

東漢時代 諸葛亮登場

献帝建安十二年(207年)に諸葛亮が登場しました。 東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3) ここでは『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』を元に出仕するまでの諸葛亮について書きます。 諸葛亮は字を孔明といい、琅邪陽都の人です。 西漢の司隸校尉・諸葛豊の後…

東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3)

今回で東漢献帝建安十二年が終わります。 [三] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月辛卯(初三日)、孛星(異星。彗星の一種)が鶉尾(十二星次のひとつ)に現れました。 [四] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 乙巳(十七日…

東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2)

今回は東漢献帝建安十二年の続きです。 [二(続き)] 曹操が田疇に命じ、その衆を率いて郷導(道案内)させました。 まず徐無山に上り、軍を率いて盧龍塞を出ます(徐無山は田疇が衆人を率いて守った山で(献帝初平四年・193年参照)、盧龍塞は徐無の北にあ…

東漢時代目録(五)

東漢時代目録(五)です。 東漢時代目録(一) 東漢時代目録(二) 東漢時代目録(三) 東漢時代目録(四) 東漢時代406 献帝(八十八) 烏桓遠征(前) 207年(1) 東漢時代407 献帝(八十九) 烏桓遠征(後) 207年(2) 東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3) 東漢時代409 …

東漢時代406 献帝(八十八) 烏桓遠征(前) 207年(1)

今回は東漢献帝建安十二年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十二年 丁亥 207年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、曹操が淳于から鄴に還りました。 丁酉(初五日)、曹操が功臣を封侯するように上奏し、令を発しました「…

東漢時代 昌言

東漢献帝建安十一年(206年)に仲長統が登場しました。 東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1) 仲長統には『昌言』という著論があり、治乱について述べています。『資治通鑑』胡三省注によると、「昌」は「当」の意味で、「昌言」は「当理の言(理にか…

東漢時代405 献帝(八十七) 八王廃国 206年(2)

今回は東漢献帝建安十一年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。 十月乙亥、曹操が令を発しました「世を治めて衆を御し、輔弼を建立する時(補佐の大臣を選ぶ時)、誡めは面従にある(面従している者に注意するべきだ。原文「誡在…

東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1)

今回は東漢献帝建安十一年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十一年 丙戌 206年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、孛星(異星。彗星の一種)が北斗に現れました。 『資治通鑑』胡三省注が北斗七星の説明をしています。北斗七星…

東漢時代 『申鑒』

東漢献帝建安十年(205年)に祕書監(秘書監)・侍中・荀悦が『申鑒』五篇を作って上奏しました。 東漢時代403 献帝(八十五) 杜畿 205年(2) 『資治通鑑』胡三省注によると、祕書監は桓帝時代に置かれました。秩六百石です。 荀悦は荀爽の兄の子です。 当時、…

東漢時代403 献帝(八十五) 杜畿 205年(2)

今回は東漢献帝建安十年の続きです。 [七] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 九月、百官で特に貧しい者にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。 [八] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 曹操が令を下しました「互いにかばい合って徒党を組むのは、先聖…

東漢時代402 献帝(八十四) 冀州平定 205年(1)

今回は東漢献帝建安十年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十年 乙酉 205年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が南皮を攻めました。 しかし袁譚が出撃し、曹操軍の多くの士卒が死にます。 曹操が攻撃を緩めようとしま…

東漢時代401 献帝(八十三) 徐氏 204年(4)

今回で東漢献帝建安九年が終わります。 [七] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 丹陽の大都督・嬀覧(『資治通鑑』胡三省注によると、舜が嬀汭に住んだため、その後代が嬀を氏にしました)、郡丞・戴員が太守・孫翊(孫権の弟)を殺しまし…

東漢時代400 献帝(八十二) 袁譚背反 204年(3)

今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 九月、曹操が令を下しました「河北は袁氏の難に遭った(罹袁氏之難)。よって今年の租賦を出さないように命じる(今年の租賦を免除する)。」 また、豪強による土地の兼併を制限する法(豪彊兼并之法)を厳重…

東漢時代399 献帝(八十一) 鄴平定 204年(2)

今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 本文に戻ります 夜、袁尚が火を挙げて城中に示しました。城中も火を挙げて応じます。 審配は兵を城北に出し、袁尚と内外で向かい合って包囲を崩そうとしました(欲與尚対決囲)。 しかし曹操に逆撃され、審配…

東漢時代398 献帝(八十) 袁尚討伐 204年(1)

今回は東漢献帝建安九年です。四回に分けます。 東漢献帝建安九年 甲申 204年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が河を渡り、淇水を止めて水を白溝に入れ、糧道を通しました。袁尚を攻撃するためです。 『資治通鑑』胡…

東漢時代397 献帝(七十九) 孫権の征討 203年(3)

今回で東漢献帝建安八年が終わります。 [六(続き)] 曹操が南方から軍を還しました。 冬十月、黎陽に至ります。 袁尚は曹操が北に向かって渡河すると聞き、平原の包囲を解いて鄴に還りました。 袁尚の将・呂曠と高翔が叛して曹操に帰順しました。 『三国志・…

東漢時代396 献帝(七十八) 袁譚講和 203年(2)

今回は東漢献帝建安八年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 秋七月、曹操が令を下しました「喪乱以来十五年が経ち、後生の者が仁義礼譲の風を見ていないので、吾(私)は甚だ悲痛している(甚傷之)。よって郡国にそれぞれ文学を修めさせ…

東漢時代395 献帝(七十七) 曹操北伐 203年(1)

今回は東漢献帝建安八年です。三回に分けます。 東漢献帝建安八年 癸未 203年 [一] 『資治通鑑』からです。 春二月、曹操が黎陽を攻め、袁譚、袁尚と城下で戦いました。 袁譚と袁尚は敗走して鄴に還ります。 『三国志・魏書一・武帝紀』は「春三月、(曹操が…

東漢時代394 献帝(七十六) 曹操と孫権 202年(3)

今回で東漢献帝建安七年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表が劉備に北侵させました。劉備は葉に至ります。 『資治通鑑』胡三省注によると、葉県は南陽郡に属します。春秋時代、楚の葉公・子高の邑でした。 曹操は…

東漢時代393 献帝(七十五) 賈逵 鐘繇 202年(2)

今回は東漢献帝建安七年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋九月、曹操が渡河して袁譚を攻めました。 袁譚は袁尚に急を告げます。 袁尚は審配を留めて鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、共に曹操を防ぎました。 …

東漢時代392 献帝(七十四) 袁紹の後継者 202年(1)

今回は東漢献帝建安七年です。三回に分けます。 東漢献帝建安七年 壬申 202年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月,曹操が譙に駐軍しました。 譙県は沛国に属し、曹操の郷里です。 曹操が令を発しました「吾(私)は義兵を起こし…

東漢時代391 献帝(七十三) 劉璋 張魯 201年(2)

今回は東漢献帝建安六年の続きです。 [四] 『資治通鑑』からです。 曹操が夏侯淵と張遼を派遣し、東海で昌豨を包囲させました(昌豨は献帝建安四年・199年に曹操に叛して劉備に附きました)。 しかし数カ月後に食糧が尽きたため、軍を還すことが議論されまし…