2018-01-01から1年間の記事一覧
今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。 張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率…
今回は東漢献帝建安二十年の続きです。 [四(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)。 しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率…
今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。 東漢献帝建安二十年 乙未 215年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(十八日)、献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。 魏公・曹操の娘(中女・曹節…
今回で東漢献帝建安十九年が終わります。 [十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。 議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。 『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」 成都が攻略されると、士衆は…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 『三国志・先主伝』裴松之注が魏の出来事を書いています。 劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡し…
今回は東漢献帝建安十九年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。 呂蒙が孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます…
曹操が魏公に封じられました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 東漢時代 魏公曹操(3) 裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)。 臣(曹操)は先帝(霊帝)の厚恩…
献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之注(元は『魏書』の記述)からです。 曹操はこう言いました「九…
献帝の策命を紹介しています。 東漢時代 魏公曹操(1) 前回の続きです。 「朕が聞くに、先王は明徳を並建し(明徳がある者を並べて封建し)、土地を授けて民を分け与え(胙之以土,分之以民)、その寵章を崇めて礼物を備えた(高貴な爵位を示す礼服の格調を髙…
献帝建安十八年(213年)、献帝が曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。 「朕(献帝)は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)…
献帝建安十五年(210年)、曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。 東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1) ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。 十二月己亥、曹操が令を発しました。 「孤(私)が始めて孝廉に挙げられ…
今回は東漢献帝建安十九年です。六回に分けます。 東漢献帝建安十九年 甲午 214年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。 「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。 今回の…
今回で東漢献帝建安十八年が終わります。 [十(続き)] 一方、馬超は趙昂の子・趙月を質(人質)に取りました。 趙昂が妻の異(『資治通鑑』胡三省注によると、異は士氏の娘です)に言いました「吾(私)の謀はこのようであり、事は必ず万全だ。月をどうする…
今回も東漢献帝建安十八年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が馬超を追って安定に至りましたが、田銀と蘇伯が反したと聞き、軍を率いて還りました(曹操は前年正月に鄴に帰還しました)。 参涼州軍事・楊阜が曹操に進言しました「…
今回は東漢献帝建安十八年の続きです。 [五] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 大雨が降りました(大雨水)。 [六] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 趙王・劉珪を博陵王に遷しました。 趙国を含む冀州が魏国として曹操に封じられたためです。 […
今回は東漢献帝建安十八年です。四回に分けます。 東漢献帝建安十八年 癸巳 213年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が濡須口に進軍しました。歩騎四十万を号します。 曹操軍は孫権の江西の…
今回は東漢献帝建安十七年の続きです。 [十二] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、曹操が東進して孫権を撃ちました。 董昭が曹操に言いました「古から今まで、人臣の匡世(世を正すこと)において今日ほどの功はなく(曹操ほど功…
今回は東漢献帝建安十七年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十七年 壬辰 212年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が鄴に還りました。 献帝が詔を発して曹操に「賛拝不名(入朝・謁見等の時、会をしきる官員から氏名…
今回で東漢献帝建安十六年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 扶風の人・法正が益州牧・劉璋の軍議校尉になりましたが、劉璋は法正を用いることができませんでした。 『資治通鑑』胡三省…
今回は東漢献帝建安十六年の続きです。 [四(続き)] 韓遂が曹操との会見を請いました。 曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉になり(韓遂の父は高齢で孝廉になったようです)、曹操自身も韓遂と同輩だったため(同時儕輩)、旧交がありました。 二人が馬を並べて言…
今回は東漢献帝建安十六年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十六年 辛卯 211年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、献帝が曹操の世子(太子)・曹丕を五官中郎将に任命し、官属を置いて丞相の副(補佐)にしました。 『資…
今回で東漢献帝建安十五年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 以前、孫権が呂蒙に言いました「卿は今、道に当たって事を掌握している(権力がある立場にいて政事を行っている。原文「当塗掌事」)。学ばなければならない。」 呂蒙は軍中の多務(多…
今回は東漢献帝建安十五年の続きです。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表の旧吏士で北軍(曹操軍)に従わされていた者の多くが曹操に叛して劉備に帰順しました。 劉備は周瑜から与えられた地が狭く…
今回は東漢献帝建安十五年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十五年 庚寅 210年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 当時は崔琰と毛玠が選挙を管理しており、品行を重視して清正の士を推挙していました(建安十三年・208年参照)。 …
今回は東漢献帝建安十四年です。 東漢献帝建安十四年 己丑 209年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、曹操軍が譙に至りました(赤壁から帰還しました)。 軽舟を作り、水軍を治めました。 [二] 『三国志・呉書二・呉主伝』か…
今回で東漢献帝建安十三年が終わります。 [十四] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が上表して劉琦を荊州刺史に任命しました。 また、兵を率いて南下し、四郡を攻略しました。武陵太守・金旋、長沙太守…
今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)]本文に戻ります。 周瑜が進軍して赤壁で曹操と遭遇しました。 当時、曹操の軍衆(軍隊)では既に疾疫(疫病)が発生していました。 初めの交戦では(初一交戦)曹操軍に利がなかったため、曹操は兵を退い…
今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)] 本文に戻ります。 この時、劉備は樊口にいました。諸葛亮が呉を訪ねてまだ還らず、しかも曹操軍が東下していると聞いたため、恐懼した劉備は毎日、邏吏(巡邏偵察の官員)を派遣し、水次(水辺、または船…