2018-01-01から1年間の記事一覧

東漢時代441 献帝(百二十三) 漢中平定 215年(3)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。 張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率…

東漢時代440 献帝(百二十二) 荊州分割 215年(2)

今回は東漢献帝建安二十年の続きです。 [四(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)。 しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率…

東漢時代439  献帝(百二十一) 韓遂の死 215年(1)

今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。 東漢献帝建安二十年 乙未 215年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(十八日)、献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。 魏公・曹操の娘(中女・曹節…

東漢時代438 献帝(百二十) 皇后弑殺 214年(6)

今回で東漢献帝建安十九年が終わります。 [十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。 議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操…

東漢時代437 献帝(百十九) 傅幹の諫言 214年(5)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。 『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植…

東漢時代436 献帝(百十八) 劉備の蜀経営(後) 214年(4)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」 成都が攻略されると、士衆は…

東漢時代435 献帝(百十七) 劉備の蜀経営(前) 214年(3)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 『三国志・先主伝』裴松之注が魏の出来事を書いています。 劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡し…

東漢時代434 献帝(百十六) 蜀平定 214年(2)

今回は東漢献帝建安十九年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。 呂蒙が孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます…

東漢時代 魏公曹操(4)

曹操が魏公に封じられました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 東漢時代 魏公曹操(3) 裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)。 臣(曹操)は先帝(霊帝)の厚恩…

東漢時代 魏公曹操(3)

献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之注(元は『魏書』の記述)からです。 曹操はこう言いました「九…

東漢時代 魏公曹操(2)

献帝の策命を紹介しています。 東漢時代 魏公曹操(1) 前回の続きです。 「朕が聞くに、先王は明徳を並建し(明徳がある者を並べて封建し)、土地を授けて民を分け与え(胙之以土,分之以民)、その寵章を崇めて礼物を備えた(高貴な爵位を示す礼服の格調を髙…

東漢時代 魏公曹操(1)

献帝建安十八年(213年)、献帝が曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。 「朕(献帝)は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)…

東漢時代 譲県自明本志令(述志令)

献帝建安十五年(210年)、曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。 東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1) ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。 十二月己亥、曹操が令を発しました。 「孤(私)が始めて孝廉に挙げられ…

東漢時代433 献帝(百十五) 韓遂敗走 214年(1)

今回は東漢献帝建安十九年です。六回に分けます。 東漢献帝建安十九年 甲午 214年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。 「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。 今回の…

東漢時代432 献帝(百十四) 馬超敗退 213年(4)

今回で東漢献帝建安十八年が終わります。 [十(続き)] 一方、馬超は趙昂の子・趙月を質(人質)に取りました。 趙昂が妻の異(『資治通鑑』胡三省注によると、異は士氏の娘です)に言いました「吾(私)の謀はこのようであり、事は必ず万全だ。月をどうする…

東漢時代431 献帝(百十三) 馬超の反撃 213年(3)

今回も東漢献帝建安十八年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が馬超を追って安定に至りましたが、田銀と蘇伯が反したと聞き、軍を率いて還りました(曹操は前年正月に鄴に帰還しました)。 参涼州軍事・楊阜が曹操に進言しました「…

東漢時代430 献帝(百十二) 劉備の進撃 213年(2)

今回は東漢献帝建安十八年の続きです。 [五] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 大雨が降りました(大雨水)。 [六] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 趙王・劉珪を博陵王に遷しました。 趙国を含む冀州が魏国として曹操に封じられたためです。 […

東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1)

今回は東漢献帝建安十八年です。四回に分けます。 東漢献帝建安十八年 癸巳 213年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が濡須口に進軍しました。歩騎四十万を号します。 曹操軍は孫権の江西の…

東漢時代428 献帝(百十) 劉備と劉璋 212年(2)

今回は東漢献帝建安十七年の続きです。 [十二] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、曹操が東進して孫権を撃ちました。 董昭が曹操に言いました「古から今まで、人臣の匡世(世を正すこと)において今日ほどの功はなく(曹操ほど功…

東漢時代427 献帝(百九) 建業 212年(1)

今回は東漢献帝建安十七年です。二回に分けます。 東漢献帝建安十七年 壬辰 212年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が鄴に還りました。 献帝が詔を発して曹操に「賛拝不名(入朝・謁見等の時、会をしきる官員から氏名…

東漢時代426 献帝(百八) 益州 211年(3)

今回で東漢献帝建安十六年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 扶風の人・法正が益州牧・劉璋の軍議校尉になりましたが、劉璋は法正を用いることができませんでした。 『資治通鑑』胡三省…

東漢時代425 献帝(百七) 韓遂・馬超討伐(後) 211年(2)

今回は東漢献帝建安十六年の続きです。 [四(続き)] 韓遂が曹操との会見を請いました。 曹操は韓遂の父と同じ年に孝廉になり(韓遂の父は高齢で孝廉になったようです)、曹操自身も韓遂と同輩だったため(同時儕輩)、旧交がありました。 二人が馬を並べて言…

東漢時代424 献帝(百六) 韓遂・馬超討伐(前) 211年(1)

今回は東漢献帝建安十六年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十六年 辛卯 211年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、献帝が曹操の世子(太子)・曹丕を五官中郎将に任命し、官属を置いて丞相の副(補佐)にしました。 『資…

東漢時代423 献帝(百五) 士燮 210年(3)

今回で東漢献帝建安十五年が終わります。 [六] 『資治通鑑』からです。 以前、孫権が呂蒙に言いました「卿は今、道に当たって事を掌握している(権力がある立場にいて政事を行っている。原文「当塗掌事」)。学ばなければならない。」 呂蒙は軍中の多務(多…

東漢時代422 献帝(百四) 周瑜の死 210年(2)

今回は東漢献帝建安十五年の続きです。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表の旧吏士で北軍(曹操軍)に従わされていた者の多くが曹操に叛して劉備に帰順しました。 劉備は周瑜から与えられた地が狭く…

東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1)

今回は東漢献帝建安十五年です。三回に分けます。 東漢献帝建安十五年 庚寅 210年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 当時は崔琰と毛玠が選挙を管理しており、品行を重視して清正の士を推挙していました(建安十三年・208年参照)。 …

東漢時代420 献帝(百二) 合肥の戦い 209年

今回は東漢献帝建安十四年です。 東漢献帝建安十四年 己丑 209年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、曹操軍が譙に至りました(赤壁から帰還しました)。 軽舟を作り、水軍を治めました。 [二] 『三国志・呉書二・呉主伝』か…

東漢時代419 献帝(百一) 劉備南進 208年(11)

今回で東漢献帝建安十三年が終わります。 [十四] 『三国志・蜀書二・先主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が上表して劉琦を荊州刺史に任命しました。 また、兵を率いて南下し、四郡を攻略しました。武陵太守・金旋、長沙太守…

東漢時代418 献帝(百) 赤壁の戦い 208年(10)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)]本文に戻ります。 周瑜が進軍して赤壁で曹操と遭遇しました。 当時、曹操の軍衆(軍隊)では既に疾疫(疫病)が発生していました。 初めの交戦では(初一交戦)曹操軍に利がなかったため、曹操は兵を退い…

東漢時代417 献帝(九十九) 劉備と周瑜 208年(9)

今回も東漢献帝建安十三年の続きです。 [十二(続き)] 本文に戻ります。 この時、劉備は樊口にいました。諸葛亮が呉を訪ねてまだ還らず、しかも曹操軍が東下していると聞いたため、恐懼した劉備は毎日、邏吏(巡邏偵察の官員)を派遣し、水次(水辺、または船…