春秋時代二

春秋時代148 東周霊王(十一) 魯の三軍編成 前562年(1)

今回は東周霊王十年です。二回に分けます。 霊王十年 前562年 己亥 [一] 魯の季孫宿(季武子)が三軍を編成する計画を叔孫豹(叔孫穆子)に話しました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、叔孫豹に相談したのは魯襄公が幼かったためだけではなく、叔孫氏が代…

春秋時代147 東周霊王(十) 鄭の内争 前563年(2)

今回は東周霊王九年の続きです。 [七] 秋七月、楚の子囊と鄭の子耳が魯の西境を攻撃しました。 両軍は兵を還してから䔥(宋の邑)を包囲します。 八月丙寅(十一日)、䔥が陥落しました。 九月、鄭の子耳が宋の北境を攻撃しました。 魯の仲孫蔑が言いました…

春秋時代146 東周霊王(九) 偪陽攻略 前563年(1)

今回は東周霊王九年です。二回に分けます。 霊王九年 前563年 戉戍 [一] 春、晋侯(悼公)・魯公(襄公)・宋公(平公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)と莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子および斉の世子・光(『史記・斉太公世家』はこの年に公子・光が…

春秋時代145 東周霊王(八) 晋鄭の会盟 前564年(2)

今回は東周霊王八年です。 [七] 冬十月、晋を中心とする諸侯が鄭を攻撃しました。鄭が六月に楚を朝見したからです。 庚午(十一日)、魯の季孫宿(季武子)、斉の崔杼、宋の皇鄖が晋の荀罃と士匄(中軍)に従って鄟門(東門)を攻撃し、衛の北宮括と曹人、邾…

春秋時代144 東周霊王(七) 宋の火災 前564年(1)

今回は東周霊王八年です。二回に分けます。 霊王八年 前564年 丁酉 [一] 春、宋で火災がありました。『春秋』経文には「宋災」と書かれています。「火」は人為的な火事、「災」は天が降した火災といわれているので(東周定王十四年・前593年参照)、今回の火…

春秋時代143 東周霊王(六) 鄭の外交 前565年

今回は東周霊王七年です。 霊王七年 前565年 丙申 [一] 春正月、魯襄公が鄬(前年参照)から晋に行き、朝聘の数(朝見・聘問時に献上する貢物の数)について、晋悼公の指示を聞きました。 [二] 夏、鄭が釐公(僖公)を埋葬しました。 [三] 鄭の群公子は釐公…

春秋時代142 東周霊王(五) 鄭釐公暗殺 前566年

今回は東周霊王六年です。 霊王六年 前566年 乙未 [一] 春、郯子が魯に来朝しました。魯襄公即位後、初めての朝見です(本年は魯襄公七年です)。 [二] 夏四月、魯が郊祭(郊外で行う天の祭り)について三回卜いましたが、どれも不吉と出たため、牲(犠牲の…

春秋時代141 東周霊王(四) 季孫行父 莱滅亡 前568~567年

今回は東周霊王四年です。 霊王四年 前568年 癸巳 [一] 春、魯襄公が晋から還りました。 [二] 当時、周王室は戎族の脅威を受けていました。 周霊王が晋に協力を求めるため、卿士・王叔陳生を晋に派遣しました。しかし晋は王叔陳生を捕えました。 晋の士魴が…

春秋時代140 東周霊王(三) 狐駘の戦い 前569年

今回は東周霊王三年です。 霊王三年 前569年 壬申 [一] 前年、陳が楚に背いて晋と同盟したため、楚の公子・何忌が陳を攻撃しました。 楚軍は年を越えても繁陽に駐軍しています。 春、晋の韓厥(韓献子。中軍の将)が心配して朝廷で言いました「文王は殷(商…

春秋時代139 東周霊王(二) 雞沢の会 前570年

今回は東周霊王二年です。 霊王二年 前570年 辛卯 [一] 春、楚の子重(公子・嬰斉)が呉を攻撃しました。士卒を選抜して鳩茲(呉邑)を攻略し、衡山(呉地)に至ります。 そこで鄧廖に組甲(組甲は精巧にできた甲冑の種類。ここでは恐らく車兵の意味)三百と…

春秋時代138 東周霊王(一) 虎牢築城 前571年

今回から東周霊王の時代です。 霊王 東周簡王が死んで子の泄心が立ちました。これを霊王といいます。産まれた時から髭が生えていたといわれています。 霊王元年 前571年(庚寅) [一] 春正月、周簡王が埋葬されました。 天子は死後七カ月経ってから埋葬する…

春秋時代137 東周簡王(十九) 彭城の戦い 前572年

今回で東周簡王の時代が終わります。 簡王十四年 前572年 己丑 [一] 春正月、魯襄公が即位しました。この年、四歳です。 [二] 己亥(恐らく「乙亥」の誤り。二十五日)、晋の欒黶、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の甯殖および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人が彭城…

春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2)

今回は東周簡王十三年の続きです。 [五] 二月乙酉朔、晋悼公(周子)が朝廷で正式に即位しました。 『史記・晋世家』から十四歳で即位した悼公の言葉です「大父(祖父)と父は即位することができず、周に難を避けて客死(他国で死ぬこと)した。寡人はもとも…

春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1)

今回は東周簡王十三年です。二回に分けます。 簡王十三年 前573年 戊子 [一] 春正月庚申(初五日)、晋の欒書と荀偃(中行偃)が程滑を翼に派遣して、前年捕えた厲公を殺しました。厲公の在位年数は八年になります。 『史記・晋世家』には、厲公は捕えられて…

春秋時代134 東周簡王(十六) 郤氏討伐 前574年(2)

今回は東周簡王十二年の続きです。 [十四] 晋厲公は贅沢を好み、外嬖(寵愛する大夫。胥童・夷陽五・長魚矯等)も多数いました。 鄢陵の戦い(前年)で晋が大勝したため、慢心した厲公は諸大夫を退けて左右の近臣を抜擢しようとしました。 胥童(胥之昧。之…

春秋時代133 東周簡王(十五) 斉の内乱 前574年(1)

今回は東周簡王十二年です。二回に分けます。 簡王十二年 前574年 丁亥 [一] 春正月、鄭の子駟が晋の虚と滑を侵しました。 衛の北宮括(または「北宮結」。成公の曾孫)が晋を援けるため、鄭を攻めて高氏に至りました。 夏五月、鄭が太子・髡頑と大夫・侯獳…

春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4)

今回で東周簡王十一年が終わります。 [十四] 秋、晋侯(厲公)・魯公(成公)・斉侯(霊公)・衛侯(献公)と宋の華元および邾人が沙隨(宋地)で会見しました。鄭討伐の相談がされます。 これ以前に魯の叔孫僑如(宣伯)が使者を送って晋の郤犨にこう伝えま…

春秋時代131 東周簡王(十三) 鄢陵の戦い(後) 前575年(3)

今回も東周簡王十一年の続きです。 [十二] 六月癸巳(二十八日。前回の内容は二十九日のことです。一日前にさかのぼります)、楚の潘尫の子・潘党と養由基が射術の腕を披露するため、甲(鎧)に矢を射ました。矢は七札(層)を貫きます(当時の革甲は通常、…

春秋時代130 東周簡王(十二) 鄢陵の戦い(中) 前575年(2)

今回は東周簡王十一年の続きです。 [十一] 六月甲午晦(二十九日)、楚が早朝から晋軍に接近して陣を構え始めました。東夷の兵を率いています。 晋の軍吏(将士)が憂いてどう対応するか話しあいました。 すると、公族大夫の士匄(范匄。士燮の子)が小走り…

春秋時代129 東周簡王(十一) 鄢陵の戦い(前) 前575年(1)

今回は東周簡王十一年です。四回に分けます。 簡王十一年 前575年 丙戊 [一] 春正月、魯で雨が降り、木冰(雨や霧が寒冷によって凍り、樹木が白くなること)になりました。 [二] 春、楚共王が武城から公子・成を鄭に派遣し、汝陰の田(汝水南の地)を譲るこ…

春秋時代128 東周簡王(十) 宋大夫の出奔 前576年

今回は東周簡王十年です。 簡王十年 前576年 乙酉 [一] 春二月、衛が定公を埋葬しました。 [二] 三月乙巳(初三日)、魯の仲嬰斉(仲遂の子。公孫帰父の弟。嬰斉の子孫は仲氏を名乗りました)が死にました。 [三] 癸丑(十一日)、晋侯(厲公)、魯公(成公)…

春秋時代127 東周簡王(九) 衛献公即位 前577年

今回は簡王九年です。 簡王九年 前577年 甲申 [一] 春正月、莒子・朱(渠丘公)が死にました。子の密州(犂比公)が継ぎます。 楊伯峻の『春秋左伝注(成公十四年)』には、渠丘公の名が「季佗」と書かれています。しかし『世本(秦嘉謨輯補本)』には「季佗…

春秋時代126 東周簡王(八) 絶秦書 前578年(2)

今回は東周簡王八年の続きです。 [四] 夏四月戊午(初五日)、晋厲公が呂相(魏相。魏錡の子)を秦に送って断絶を告げました。この時の文書を「絶秦書」といいます。 「昔、我が献公と貴国の穆公は友好を築いて協力し合い、盟誓によって両国の関係を表明し、…

春秋時代125 東周簡王(七) 叔孫僑如と仲孫蔑 前578年(1)

今回は東周簡王八年です。二回に分けます。 簡王八年 前578年 癸未 [一] 春、晋厲公が郤錡(駒伯)を魯に派遣して出兵を求めました。秦を攻めるためです。 しかしその時の態度が不敬だったため、魯の仲孫蔑(孟献子)が言いました「郤氏は亡ぶだろう。礼とは…

春秋時代124 東周簡王(六) 第一次弭兵の会 前580~579年

今回は東周簡王六年と七年です。 簡王六年 前580年 辛巳 [一] 晋は魯成公が楚に通じていると疑い、帰国を許可しませんでした(前年)。 春三月、魯成公が晋と盟を結ぶことを求めたため、晋は魯成公を帰国させました。 晋厲公が郤犨(または「郤州」。郤豹の…

春秋時代123 東周簡王(五) 晋景公の死 前581年

今回は東周簡王五年です。 簡王五年 前581年 庚辰 [一] 春、晋景公が大夫・糴茷を楚に送りました。前年、楚の大宰・子商が晋を訪問したことへの答礼です。 [二] 衛定公の弟・子叔黒背が鄭を攻撃しました。晋の命による戦いです。 [三] 鄭の公子・班(子如)…

春秋時代122 東周簡王(四) 鄭の背反 前582年

今回は東周簡王四年と五年です。 簡王四年 前582年 己卯 [一] 春正月、杞桓公が魯に入朝し、前年死んだ叔姫の霊柩を受け取って帰国しました。 叔姫は杞桓公に嫁ぎましたが、離縁されて(東周定王二十一年・前586年参照)魯に帰国してから死にました。魯が遺…

春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年

今回は東周簡王三年です。 簡王三年 前583年 戊寅 [一] 春、晋景公が韓穿を魯に派遣して汶陽の田(地)について交渉し、斉への返還を要求しました。 季孫行父(季文子)が宴を設けて私人の立場で言いました「大国の行為に義があるからこそ、盟主になることが…

春秋時代120 東周簡王(二) 晋呉の国交 前584年

今回は東周簡王二年です。 簡王二年 前584年 丁丑 [一] 春正月、魯で鼷鼠(小さい鼠)が郊牛(郊祭の犠牲に使う牛)の角をかじったため、改めて祭祀で使う牛を卜いました。しかしその牛の角も鼷鼠にかじられたため、牛の卜いをあきらめました。 [二] 春、呉…

春秋時代119 東周簡王(一) 晋の遷都 前585年

今回から東周簡王の時代です。 簡王 定王が死んで子の夷が立ちました。これを簡王といいます。 簡王元年 前585年 丙子 [一] 春正月、魯成公が蟲牢の会(前年)から帰国しました。 [二] 鄭悼公が晋に行き、講和の成立を謝しました。子游(公子・偃)が相(儀…