2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

戦国時代117 秦王政(三) 『呂氏春秋』 前239年

今回は秦王政八年です。 秦王政八年 前239年 壬戌 [一] 魏が趙に鄴を譲りました。 [二] 韓桓恵王が在位三十四年で死に、子の安が立ちました。韓国最後の王になります。 [三] 『史記・秦始皇本紀』によると、秦王の弟にあたる長安君・成蟜が軍を率いて趙を攻…

戦国時代116 秦王政(二) 合従の失敗 前243~240年

今回は秦王政四年から七年までです。 秦王政四年 前243年 戊午 [一] 春、秦の蒙驁が魏を攻めて畼と有詭を取りました。 三月、秦が兵を退きました。 [二] 『史記・趙世家』から趙と秦の出来事です。 秦が趙の春平君を招いて拘留しました。 泄鈞(人名)が春平…

戦国時代115 秦王政(一) 趙の李牧 前246~244年

今回から秦王・政の時代です。天下統一に向かって急速に動き始めます。 秦王政 秦王・政は荘襄王の子で、後に天下を統一して始皇帝と称します(天下統一までは「秦王政」と書きます)。 秦王政元年 前246年 乙卯 [一] 秦の蒙驁が秦に背いた晋陽(太原郡。前…

戦国時代114 秦荘襄王(二) 信陵君と安陵君 前247年

今回で秦荘襄王の時代が終わります。 荘襄王三年 前247年 甲寅 [一] 『史記・趙世家』によると、趙が燕と領地を交換しました。趙は龍兌、汾門、臨乗を燕に譲り、燕は葛、武陽、平舒を趙に譲りました。 [二] 『史記・秦本紀』は本年に「秦の蒙驁が趙を攻めて…

戦国時代113 秦荘襄王(一) 東周滅亡 前249~248年

今回から秦荘襄王の時代です。 秦荘襄王 荘襄王は本名を異人といいますが、楚に改名しました。孝文王の中子です。 荘襄王元年 前249年 壬子 [一] 秦荘襄王が正式に即位しました。 『史記・秦本紀』によると、荘襄王も孝文王と同じように善政に勉めます。罪人…

戦国時代112 秦孝文王 魯仲連 前250年

今回は秦孝文王の時代です。一年で終わります。 孝文王 昭襄王の子で、名を柱といいます。 孝文王元年 前250年 辛亥 [一] 『史記・秦本紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月(歳首)己亥(初四日)、秦孝文王が正式に即位しました。 孝文王は善政に勉めまし…

戦国時代111 秦昭襄王(二) 趙・燕の戦い 前254~251年

今回は秦昭襄王五十三年から五十六年です。昭襄王の時代が終わります。 昭襄王五十三年 前254年 丁未 [一] 『史記・秦本紀』によると、天下の諸侯が秦に来賓しました。しかし魏だけが遅れて来たため、秦は将・摎に魏を攻撃させて呉城を取りました。 韓王が秦…

戦国時代 荀子(二)

荀子について『資治通鑑』の記述を元に書いています。前回の続きです。 戦国時代 荀子(一) 孝成王と臨武君が荀子に問いました「将となる者について聞かせてください。」 荀卿が言いました「最も重要な知とは、疑謀(勝敗が定かではない計)を棄てることです…

戦国時代 荀子(一)

本編で荀子が登場しました。 戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年 ここで『資治通鑑』の内容を紹介します。二回に分けます。 かつて趙孝成王の前で荀子と臨武君が兵について論じました。 王が用兵の要を問うと、臨武君が言いました「上は天の時を、下は地…

戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年

前回で周王朝が亡びました。『資治通鑑』は「周紀」が終わって「秦紀」に入ります。 『資治通鑑』胡三省注によると、秦は隴西の谷の名です。秦の祖先・非子が西周孝王のために汧水・渭水の周辺で馬を飼い、附庸に封じられて秦谷を邑としました。附庸というの…

第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(四)

*今回は『東周列国志』第七十二回その四です。 楚将・薳越は皇甫訥を縛って拷問し、供述させてから郢都に送るつもりです。 しかし皇甫訥が弁解して言いました「私は龍洞山下の隠士・皇甫訥です。故人(友人)の東皋公に従って、関を出て東遊するところでし…

第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(三)

*今回は『東周列国志』第七十二回その三です。 伍員が歴陽山に至りました。昭関から約六十里離れています。伍員は深林で休憩し、徘徊するだけで前に進もうとしません。 突然、一人の老父が杖をついて林の中に入って来ました。伍員の容貌が尋常ではないため…

第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(二)

*今回は『東周列国志』第七十二回その二です。 伍員は一日も経たずに宋国に入りました。太子・建を見つけた伍員は頭を抱きかかえて慟哭し、互いに平王の過悪を訴えました。 伍員が問いました「太子は宋君に会いましたか?」 太子・建が答えました「宋国では…

第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(一)

第七十二回 棠公尚が体を棄てて父の難に奔り、伍子胥が微服で昭関を通る (棠公尚捐躯奔父難 伍子胥微服過昭関) *今回は『東周列国志』第七十二回その一です。 伍員は字を子胥といい、監利(地名)の人です。身長は一丈、腰回りは十囲(一囲は一抱え。とて…

第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(四)

*今回は『東周列国志』第七十一回その四です。 孟嬴は平王の寵愛を受けましたが、平王が年老いていたため心中不満でした。 平王も自分が相応しい相手ではないことを知っていたため、不満そうにしている孟嬴に理由を問いませんでした。 年を越えて孟嬴が一子…

第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(三)

*今回は『東周列国志』第七十一回その三です。 周景王十九年、呉王・夷昧が在位四年で病にかかりました。危篤に陥ると父や兄の命を改めて宣言して国君の位を弟の季札に譲ろうとします。 しかし季札は辞退してこう言いました「私は位を受けるつもりがないこ…

第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(二)

*今回は『東周列国志』第七十一回その二です。 魯昭公が去ってから、景公が晏嬰を招いて言いました「宴席の場では卿が大言したおかげで斉国の体面を一時的に保つことができた。しかし三傑を継ぐ者を得るのは難しい。どうすればいい。」 晏嬰が答えました「…

第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(一)

第七十一回 晏平仲が二桃で三士を殺し、楚平王が媳を娶って世子を逐う (晏平仲二桃殺三士 楚平王娶媳逐世子) *今回は『東周列国志』第七十一回その一です。 斉景公が平邱から還りました。晋の兵威を懼れて一時は歃血の盟を受けましたが、晋に遠大の謀がな…

東周列国志目録(下)

『東周列国志』の目録(下)です。 東周列国志目録(中) 第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(一) 第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(二) 第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(三) 第八十一回 美人の計で西施を…

第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(四)

*今回は『東周列国志』第七十回その四です。 話は晋に移ります。 晋が虒祈宮を建築してから、諸侯は晋の志が苟安(目先の安寧)にしかないと窺い知り、二心を持つようになりました。 新たに即位した晋昭公は先人の業を修復したいと考えます。その頃、斉侯が…

第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(三)

*今回は『東周列国志』第七十回その三です。 この頃、蔡公は鬥成然、朝呉、夏齧等の諸将を率いて乾谿の霊王を攻めようとしていました。 途中で鄭丹と倚相の二人に会います。二人は楚王の状況を詳しく報告し、こう言いました「侍衛は既に離散し、(王は)一…

第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(二)

*今回は『東周列国志』第七十回その二です。 子干と子晳が自分の衆を率いて蔡公と合流しました。 朝呉は観従を陳に駆けさせます。 陳公に会うために昼夜兼行した観従は、道中で陳人・夏齧に会いました。夏徵舒の玄孫で、観従とは以前から面識があります。 …

第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(一)

第七十回 三兄を殺して楚平王が即位し、斉魯を脅かして晋昭公が盟を尋ねる (殺三兄楚平王即位 劫斉魯晋昭公尋盟) *今回は『東周列国志』第七十回その一です。 周景王十二年、陳・蔡を滅ぼした楚霊王は許、胡、沈、道、房、申という六つの小国を荊山の地に…

第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(四)

*今回は『東周列国志』第六十九回その四です。 晏嬰が朝門まで来ると外で十余人の官員が待っていました。それぞれ峨冠博帯(高い冠と太い帯。礼服)という姿で、整然と二列に並んでいます。 晏嬰は楚国の豪傑だと判断し、急いで車を降りました。 楚の官員達…

第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(三)

*今回は『東周列国志』第六十九回その三です。 楚共王には寵妾がおり、五人の子が生まれました。長子を熊昭といい、即位して康王になりました。次子は囲で霊王です。即位後、虔に改名しました。三子は比で、字を子干といいます。四子は黒肱で、字を子晳とい…

第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(二)

*今回は『東周列国志』第六十九回その二です。 即日、蔡侯が車を発して申に至り、霊王に謁見しました。 霊王が言いました「この地で別れてから既に八年になる。貴君の豊姿(優雅な様子。立派な姿)が以前と変わらないのは喜ばしいことだ。」 蔡侯が言いまし…

第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(一)

第六十九回 楚霊王が挾詐して陳蔡を滅ぼし、晏平仲が巧辯によって荊蛮を服す (楚霊王挾詐滅陳蔡 晏平仲巧辯服荊蛮) *今回は『東周列国志』第六十九回その一です。 陳哀公は名を溺といい、元妃・鄭姫が偃師という子を生みました。偃師は世子に立てられます…

戦国時代109 東周赧王(四十七) 周王朝滅亡 前256年

今回で東周赧王の時代が終わります。 赧王五十九年 前256年 乙巳 [一] 秦の将軍・摎が韓を攻めて陽城と負黍を取り、四万を斬首しました。 また、趙を攻めて二十余県を取り、九万を斬首したり捕虜にしました。 これは『史記・秦本紀』と『資治通鑑』の記述で…

戦国時代108 東周赧王(四十六) 呂不韋と華陽夫人 前257年(2)

今回は東周赧王五十八年の続きです。 [八] 秦の太子・柱の妃(夫人)を華陽夫人といいます。『資治通鑑』胡三省注によると、華陽は恐らく湯沐邑の名で、それが号になりました。 華陽夫人には子ができませんでした。 太子には夏姫という妾もおり、異人という子…

戦国時代107 東周赧王(四十五) 白起の死 前257年(1)

今回は東周赧王五十八年です。二回に分けます。 赧王五十八年 前257年 甲辰 [一] 十月(歳首)、秦が武安君・白起を罷免し、爵位を奪って士伍に落とし、陰密に遷しました。 [二] 『史記・秦本紀』によると、秦の張唐が鄭を攻めて攻略しました。 張唐は前年に…