#歴史
今回も東周襄王十七年の続きです。 [六] 周襄王が晋文公の即位を認めて太宰・文公(周王の卿士・王子虎)と内史・興(叔興父)を派遣し、文公に国君としての命を下しました。晋は上卿が国境まで出迎え、文公自ら郊外で慰労し、宗廟に館を設け、九牢(牛・羊…
今回は東周襄王十七年の続きです。 [二] 以前、晋公子・重耳の財物は豎(未成年の侍臣)・頭須が管理していました。重耳が出奔した時、頭須は財物を隠して逃走しましたが、暫くして晋国に戻り、重耳が帰国できるように財物を使って画策しました。 文公が即位…
晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。今回で最後です。 東周襄王十六年(前637年)十月(本編では九月)、晋恵公が死にました。 十二月(本編では翌年正月)、秦穆公が重耳を晋に入れます。一行が黄河まで来た時、狐偃が重耳に璧玉を還して言いました「…
重耳の亡命生活を書いています。 重耳が秦に入ると、秦穆公は五人の女性を重耳に娶らせました。晋の太子・圉の妻だった懐嬴もその一人です。 重耳が懐嬴に盥(たらい)を持たせて手を洗いました。新婦が盥を持って新郎に侍るのは婚姻の礼の一環です。 本来、…
晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。『国語・晋語四』を元にしています。 重耳一行が衛から曹に移りましたが、曹共公も礼を用いませんでした。 曹共公は重耳が骿脅(胼脅。肋骨が繋がっている異相)だと聞いていたため、その様子を見てみたいと思いま…
晋の公子・重耳が十九年の亡命生活を経て帰国し、国君の位に即きました。 春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2) 春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1) 本編では『春秋左氏伝(僖公二十四年)』の記述を主な資料として亡命中の様子…
今回から東周襄王十七年です。四回に分けます。 襄王十七年 叔帯元年 前636年 乙酉 [一] 春正月、秦穆公が重耳を晋に送りました。 『韓非子・十過』によると、穆公は革車(兵車)五十乗、畴騎(精鋭騎兵)二千、歩卒五万を動員して重耳を護衛したそうです。 …
今回は東周襄王十六年の続きです。 [七] 晋恵公の死(前回)を聞いて、公子・重耳が帰国します。 今回は『春秋左氏伝(僖公二十三年)』を主な資料にして重耳の亡命生活を書きます。 重耳が蒲にいた時、晋献公が寺人(宦官)・披(勃鞮)を送って重耳を襲い…
今回から東周襄王十六年です。二回に分けます。 襄王十六年 前637年 甲申 [一] 春、斉孝公が宋を攻め、緡(閔)を包囲しました。 宋が斉の盟(東周襄王十二年、前641年)に参加しなかったことを討伐の理由とし、宋が楚に大敗(前年)した混乱を狙って攻撃し…
今回は東周襄王十五年です。 襄王十五年 前638年 癸未 [一] 春、魯釐公が邾を攻めて須句を取り、須句の国君を帰らせました。 [二] 三月、鄭文公が楚に入朝しました。 夏、宋公(襄公)が衛侯(文公)・許男・滕子と共に鄭を攻めました。鄭が楚に従っているた…
今回は東周襄王十三年からです。 襄王十三年 前640年 辛巳 [一] 春、魯が南門を改築しました。南門は「稷門」といいましたが、釐公によって他の門よりも大きくなったため「高門」とよばれるようになりました。農時に影響を与えた工事でした。 [二] 『春秋』…
今回は東周襄王十年からです。 襄王十一年 前642年 己卯 [一] 春正月、宋公(襄公)が曹伯(共公)や衛・邾と共に斉を攻めました。斉の太子・昭を擁立するためです。 三月、斉人は宋を恐れて前年即位した無虧(武孟)を殺しました。無虧には諡号がありません。…
今回は東周襄王九年からです。 襄王九年 前644年 丁丑 [一] 春正月戊申朔、宋に五つの隕石が落ちました 同月、大風のため、六鷁(六羽の水鳥)が逆に飛んで宋都を過ぎました。 周の内史・叔興が宋を聘問した時、宋襄公がこの二事について問いました「これは何…
今回で東周襄王八年が終わります。 [十五] この年、斉の管仲が病に倒れました。 『管子』の『戒(第二十六)』と『小称(第三十二)』に桓公と管仲の会話が紹介されています。以下、二篇の内容を合わせて簡単に紹介します。 桓公が管仲を訪ねて言いました「…
今回も東周襄王八年の続きです [十二] 十月(晋が用いる夏暦。周暦では十二月)、晋の陰飴甥(呂甥)が秦穆公に会い、王城(秦の地名)で盟を結びました。 穆公が聞きました「晋国は和しているか?」 呂甥が答えました「和していません。小人は国君が犯した…
今回は東周襄王八年の続きです。 [十一] 韓原で秦に敗戦した晋の大夫達は髪を乱したまま営舎を片づけ、恵公に従うため秦軍の後を追いました。 秦穆公が使者を送ってこう伝えました「汝等は何を心配しているのだ。寡人(私)は晋君に従って西に行き、晋の妖夢…
晋と秦が韓原で戦いました。 春秋時代49 東周襄王(九) 韓原の戦い 前645年(1) 本編では『春秋左氏伝(僖公十五年)』と『国語・晋語三』の内容を元にしましたが、『史記・秦本紀』は異なる記述になっているので、ここで紹介します。 秦繆公(穆公)十五年、…
今回は東周襄王八年です。四回に分けます。 襄王八年 前645年 丙子 [一] 春正月、魯釐公が斉に入りました。 [二] 楚が徐国を討ちました。徐が諸夏(中原諸国)に近づいたためです。斉桓公には徐嬴という夫人がおり、斉と徐は婚姻関係にありました。 三月、斉…
今回も東周襄王の続きです。 襄王五年 前648年 癸酉 [一] 春、諸侯が衛の楚丘に郛(外城)を築きました。狄の攻撃に備えるためです。 [二] 三月庚午、日食がありました。 「三月庚午」というのは『春秋(僖公十二年)』の記述です。恐らく「四月庚午朔」の誤…
今回は東周襄王四年です。 襄王四年 前649年 壬申 [一] 孔子が編纂した史書『春秋』はこの年春に「晋が大夫・丕鄭父を殺した」と書いています。丕鄭父は丕鄭のことです。この事件は前年冬に記述しました。 『春秋左氏伝』は「春、晋が丕鄭の乱を魯に報告した…
今回は東周襄王三年です。 襄王三年 辛未 前650年 [一] 春正月、魯釐公(僖公)が斉に入りました。 [二] かつて温の蘇子(温子、温蘇子。『資治通鑑外紀』によると巳姓。西周司寇・蘇忿生の後裔の邑)が王子・頽を擁立しました(東周恵王二年、前675年)。王…
今回で東周襄王二年が終わります。 [八] 当時、周王室はますます衰え、斉・楚・秦・晋が強大になっていましたが、晋は献公の死によって混乱し、秦穆公は辺境にいたため中国(中原)の会盟に参加せず、楚成王は荊蛮の地に勢力を拡大して夷狄としての立場を自…
今回も東周襄王二年の続きです。 [五(続き)] 呂甥が大夫達に言いました「国君が既に死んだが、勝手に新君を立てることはできない。久しく国君がいなければ、諸侯の謀略を招くであろうが、国外の公子を迎え入れても民心が統一しなければ乱を大きくしてしま…
今回は東周襄王二年の続きです。 [五] 九月甲子(晋が使っていた夏暦の九月甲子。周暦では十一月初十日)、晋献公が在位二十六年で死にました。太子・奚斉(驪姫の子)が即位することになります。 しかし晋の里克と丕鄭は公子・重耳を晋に入れようとし、三公…
今回は東周襄王二年です。四回に分けます。 襄王二年 前651年 庚午 [一] 春三月丁丑(十九日)、宋桓公が在位三十一年で死にました。太子・茲父(または「茲甫」)が即位します。これを襄公といいます。 『史記・宋微子世家』によると、襄公は庶兄の目夷を相…
今回から東周襄王の時代です。 襄王 恵王が死んで子の鄭が立ちました。襄王といいます。 襄王元年 前652年 己巳 東周恵王は在位二十四年(前年。前653年)閏十二月に死にました。この年(前652年)は襄王元年になります。『春秋左氏伝』『帝王世紀』とも在位…
今回は東周恵王の時代です。 *全て拡大できます。 これで春秋時代第一期が終わります。
今回は東周釐王時代の年表です。 *全て拡大できます。 次回は春秋時代最後・恵王の年表です。 春秋時代第一期年表 東周恵王
今回は東周荘王時代の年表です。 *全て拡大できます。 次回は東周釐王の年表です。 春秋時代第一期年表 東周釐王
今回は東周桓王の年表です。 *全て拡大できます。 次回は荘王時代の年表です。 春秋時代第一期年表 東周荘王