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春秋時代40 東周恵王(十九) 恵王の死 前654~653年

今回で東周恵王の時代が終わります。 恵王二十三年 丁卯 前654年 [一] 春、晋献公が大夫・賈華に屈の公子・夷吾を攻撃させました。夷吾は守りきれないと判断し、屈の人々に再戦を誓って去りました。 夷吾が言いました「兄(重耳)に従って狄(翟)に行くべき…

春秋時代 百里奚登用

秦穆公が賢人・百里奚を得ました。 春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2) ここでは百里奚の登用に関する逸話を二つ紹介します。 まずは『説苑・臣術(巻二)』からです。 秦穆公が塩を買うために賈人(商人)を集めました。ある賈人が五頭の羖羊…

春秋時代 晋太子申生の死

晋の太子・申生が殺されました。 春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年 『国語・晋語二』に詳しく書かれているので、ここで紹介します。 申生が稷桑(東山)から凱旋して五年が経ちました(東周恵王十七年、前660年参照。足掛け五年…

春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2)

今回は東周恵王二十二年の続きです。 [八] 晋献公が虢国(西虢。または黄河南にあるので南虢)を攻撃するため、再び虞国に道を借りようとしました(東周恵王十九年、前658年参照)。 虞の宮之奇が虞公を諫めて言いました「虢は虞の表(表面。外周)です。虢…

春秋時代38 東周恵王(十七) 首止の会盟 前655年(1)

今回は東周恵王二十二年です。二回に分けます。 恵王二十二年 丙寅 前655年 [一] 春正月辛亥朔、冬至(日南至)と重なりました。 魯僖公が太廟で朔(毎月初一日、宗廟に報告する儀式)を行い、宮門前の観台で雲物(雲や風、気、日、月、星)を観察しました。…

春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年

今回も東周恵王の時代です。 周恵王二十一年 乙丑 前656年 [一] 春正月、斉桓公が魯公(釐公)、宋公(桓公)、陳侯(宣公)、衛侯(文公)、鄭伯(文公)、許男(男爵・穆公)、曹伯(伯爵。昭公)と共に蔡を攻撃しました。 蔡は壊滅し、穆公(繆公)は斉に…

春秋時代第一期年表 東周平王

春秋時代第一期の年表です。 『史記・十二諸侯年表』『資治通鑑外紀目録』『今本竹書紀年』『資治通鑑前編挙要』の対比表です。 平王四十九年から『春秋左氏伝』の記述が始まるので、『左伝』の欄を追加して主な内容を記載しました。 今回は東周平王の年表で…

春秋時代 斉桓公と諸侯(二)

斉桓公と諸侯の関係を紹介しました。 春秋時代 斉桓公と諸侯(一) 今回はその続きです。 まずは『国語・斉語』からです。 桓公が言いました「南伐をしたいと思うが、どこの国を主(物資を提供する国)とするべきだろうか。」 管仲が答えました「魯を主にする…

春秋時代 斉桓公と諸侯(一)

斉が狄の攻撃を受けた邢や衛を援けました。 春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年 斉桓公と諸侯の関係について『資治通鑑外紀』が『管子』『国語』を元にいくつかの逸話を紹介しています。以下、列記します。 まずは『管子・覇形…

春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年

今回も東周恵王の時代です。 恵王十八年 壬戍 前659年 [一] 魯釐公(僖公)の元年、季友を相に任命し、汶陽(汶水北)の鄪邑を与えました。季友の子孫は季孫氏(季氏)を名乗ります。 慶父の子孫を孟孫氏(仲孫氏。孟氏)、叔牙の子孫を叔孫氏(叔氏)といい…

春秋時代 晋太子申生の遠征

東周恵王十七年(前660年)、晋の太子・申生が東山の狄を討伐しました。 春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3) 本編では『春秋左氏伝(閔公二年)』を中心に記述しましたが、『国語・晋語二』には少し異なる記述がるのでここで紹介し…

春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3)

今回で東周恵王十七年(前660年)が終わります。 [九] 晋献公が太子・申生に東山の皋落氏(赤狄の一種)を討伐させました。里克が諫めて言いました「太子は冢祀(宗廟の祭祀)と社稷の粢盛(穀物。社稷の祭祀)を奉じ、朝晩、国君の食事を見守るものです。だ…

春秋時代34 東周恵王(十三) 衛の滅亡と復国 前660年(2)

今回は東周恵王十七年(前660年)の続きです。 [六] 十二月、狄(赤翟)が衛国を攻撃しました。 衛懿公は淫乱奢侈だったため、百姓・大臣が帰服しませんでした。また、懿公は鶴を愛し、鶴に軒(大夫以上の乗り物)まで与えるほどでした。 狄が侵入すると甲冑…

春秋時代33 東周恵王(十二) 魯閔公殺害 前660年(1)

今回は東周恵王十七年です。三回に分けます。 恵王十七年 辛酉 前660年 [一] 春正月、斉が陽国(恐らく姫姓)の民を遷し、その地を奪いました。 [二] 虢公が犬戎と戦い渭汭(渭水が曲がる場所)で敗りました。 虢の大夫・舟之僑が「徳がないのに禄を貪ってい…

春秋時代32 東周恵王(十一) 晋の二軍 前661年

今回も東周恵王の時代です。 恵王十六年 庚申 前661年 [一] 春、狄が邢国を攻撃しました。 斉の管敬仲(管仲。敬は諡号)が桓公に言いました「戎狄は豺狼のように貪婪です。諸夏(中原諸国)とは親近な関係にあるので、無視できません。平和に慣れるのは毒と…

春秋時代31 東周恵王(十) 魯の内争 前662年

今回も東周恵王の時代です。 恵王十五年 己未 前662年 [一] 春、魯が小穀に築城しました。小穀は穀ともいい、斉の邑のようです。『春秋左氏伝』は管仲のために穀に城を築いたと書いています。斉桓公が諸侯に命じて築城に協力させたのかもしれません。 [二] …

春秋時代30 東周恵王(九) 斉桓公の山戎遠征 前665~663年

今回も東周恵王の時代です。 恵王十二年 丙辰 前665年 [一] 春、魯が延厩を新造しました。馬厩です。本来、春は馬を放ち、秋に囲むといわれていたため、春に馬厩を造るのは時節にふさわしくないとされました。 [二] 夏、鄭が許を侵しました。 許は楚に従って…

春秋時代29 東周恵王(八) 楚令尹子元 魯臧文仲 前666年(2)

今回は東周恵王十一年の続きです。 [三] 夏四月丁未(二十三日)、邾子・瑣が死に、子の文公・蘧蒢が立ちました。 [四] 楚の令尹・子元(武王の子。文王の弟)が文王夫人(息嬀)を誘おうと思い、宮殿の傍に館を建てて「振万(武舞)」を催しました。 それを…

春秋時代28 東周恵王(七) 晋太子・申生 前666年(1)

今回は東周恵王十一年です。二回に分けます。 恵王十一年 乙卯 前666年 [一] 春三月甲寅(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時三月に甲寅の日はありません)、斉が衛を討伐しました。前年、東周恵王が斉桓公に命じたためです。 衛が敗戦しました。 斉は…

春秋時代 覇者 斉桓公(二)

今回も斉桓公に関する記述を紹介します。前回の続きです。 覇者 斉桓公(一) まずは「麦丘邑人」の故事です。 『韓詩外伝(第十)』『新序 雑事四』等に収録されています。ここでは『新序』の内容を書きます。 桓公が狩猟をして麦丘に来た時、老人に会いまし…

春秋時代 覇者 斉桓公(一)

斉桓公が周王室から正式に覇者の地位を認められました。 春秋時代27 東周恵王(六) 晋の粛清 前669~667年 『資治通鑑外紀』が斉桓公に関する故事をいくつか紹介しています。以下、二回に分けて列記します。 『管子・覇形(第二十二)』から 桓公が言いました…

春秋時代27 東周恵王(六) 晋の粛清 前669~667年

今回も東周恵王の時代です。 恵王八年 壬子 前669年 [一] 春、陳宣公が女叔を魯に送って聘問しました。女叔は陳の卿で、女は氏、叔は字です。 魯と陳の正式な国交はここから始まるようです。 [二] 夏五月癸丑(十二日)、衛恵公が在位三十一年で死に、子の懿…

春秋時代26 東周恵王(五) 魯荘公 前671~670年

今回も東周恵王の時代です。 恵王六年 庚戍 前671年 [一] 春、魯荘公が斉から帰国しました。 [二] 周恵王の臣・祭叔が魯に来聘しました。 [三] 夏、魯荘公が斉に入って社を観ました。社というのは社神の祭祀のことです。民衆は祭祀を利用して男女が出会い、…

春秋時代25 東周恵王(四) 晋の驪姫 前672年(2)

今回は東周恵王五年後篇です。 [八] 晋献公が驪戎(驪山に住む西戎の別種。国君は姫姓の男爵)討伐を占わせると、大夫・史蘇がこう言いました「勝ちますが不吉です(勝而不吉)。」 献公がその理由を聞くと、史蘇はこう言いました「兆(予兆。兆象)は『交わ…

春秋時代24 東周恵王(三) 田敬仲出奔 前672年(1)

今回は東周恵王五年前篇です。 恵王五年 己酉 前672年 [一] 春正月、魯が大赦を行いました。前年、文姜(桓公夫人)が死んだことが大赦の原因かもしれません。 癸丑(二十三日)、文姜を埋葬しました。 [二] 陳宣公には御寇(または「禦寇」)という太子がい…

春秋時代23 東周恵王(二) 恵王復位 前674~673年

今回も東周恵王の時代です。 恵王三年 王頽元年 丁未 前674年 [一] 春二月、魯の桓公夫人・姜氏(文姜)が莒国に入りました。 [二] 鄭厲公が王室の内乱を仲裁しようとしましたが失敗しました。恵王は京師を逐われて出奔中です。 厲公は燕仲父(南燕の国君)…

春秋時代22 東周恵王(一) 楚文王の死 周の内乱 前676~675年

今回から東周恵王の時代です。 恵王 釐王が死に、子の閬(または「毋涼」。『帝王世家』では「涼洪」)が立ちました。これを恵王といいます。 恵王元年 乙巳 前676年 [一] 春、虢公と晋侯(献公)が恵王を朝見し、恵王は醴(麦芽で造った甜い酒)でもてなし…

春秋時代21 東周釐王(二) 晋武公 前679~677年

今回で東周釐王の時代が終わります。 釐王三年 壬寅 前679年 [一] 春、斉桓公、宋桓公、陳宣侯、衛恵公、鄭厲公が前年に続いて再び鄄で会見しました。 斉桓公が諸侯に認められて伯(諸侯の長)となり、始めて天下に霸を称えます。 「春秋五覇」とよばれる覇…

春秋時代 柯の会盟

東周釐王元年(前681年)、柯という場所で斉と魯が会盟しました。『史記』や『管子』はこの会盟における魯の曹劌(曹沫)の活躍を描いています。 春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年 しかし魯国の史書である『春秋』も、その注釈書であ…

春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年

今回から東周釐王の時代です。 釐王 荘王が死んで子の釐王・胡斉が立ちました。 諡号における「釐」は「僖」と同字とされるので、書籍によっては「僖王」と書かれます。例えば『史記』は「釐王」ですが、『春秋左氏伝』は「僖王」です。 また、魯の釐公、斉…