秦楚漢附

西漢時代 揚雄の上書

哀帝建平四年(前3年)、匈奴単于が入朝の許可を求めましたが、哀帝は拒否しました。 西漢時代297 哀帝(十二) 匈奴の入朝 前3年(3) 黄門郎・揚雄が諫めて言いました「臣が聞くに、『六経』の治とは、乱が起きる前に治めることを貴び(貴於未乱)、兵家の勝と…

西漢時代 王嘉の上書

西漢哀帝建平三年(前4年)、王嘉が丞相になりました。 西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年 当時は政治が苛急(厳酷)で、郡国の守相の変動が激しかったため、王嘉が上書しました。以下、『資治通鑑』からです。 「臣が聞くに、聖王の功は人を得ることに…

西漢時代 賈譲の治水策

西漢成帝綏和二年(前7年)に賈讓が黄河の治水に関する上奏をしました。 西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5) 以下、『資治通鑑』からです。 待詔・賈譲が上奏しました「治河(黄河の治水)には上・中・下の策があります。古の者が国を建てて民を住…

西漢時代 梅福の上書

成帝永始三年(前14年)、元南昌尉で九江の人・梅福が上書しました。 西漢時代269 成帝(二十七) 祭祀の恢復 前14年 以下、『資治通鑑』を元に上書の内容を書きます。 「昔、高祖は、善言を採用する様子がまだ及ばないようであり(いくら善言を採用してもまだ…

西漢時代 谷永の諫言

成帝永始二年(前15年)、谷永が涼州刺史になり、報告のために京師に来ました。 西漢時代266 成帝(二十四) 班伯 前15年(1) 報告が終わって涼州刺史部に帰ろうとした時、成帝が尚書を送り、谷永に話したいことがあったら自由に述べるように命じました。 谷永…

西漢時代 賈捐之の進言

西漢元帝初元二年(前47年)、元帝が珠厓討伐を考えましたが、賈捐之が反対しました。 西漢時代222 元帝(五) 蕭望之の死 前47年(3) 以下、『漢書・厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)』(本文と注釈)からです。 元帝初元元年、珠厓が反したため、漢…

西漢時代 聖主得賢臣頌

西漢宣帝神爵元年(前61年)に王褒の『聖主得賢臣頌』に触れました。 西漢時代199 宣帝(二十三) 王吉 前61年(1) 『漢書・厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)』に全文が収録されていますが、ここでは『資治通鑑』から簡略された内容を紹介します。 王…

西漢時代 張湯

西漢武帝元朔三年(前126年)に張湯が廷尉になりました。 西漢時代103 武帝(二十二) 張騫 前126~125年 ここでは『漢書・張湯伝(巻五十九)』と注釈を元に張湯について書きます。 張湯は杜陵の人で、父は長安丞を勤めました。 ある日、父が外出したため、ま…

西漢時代 淮南王の上書(後)

淮南王・劉安の上書を紹介しています。 西漢時代 淮南王の上書(前) 「南方の地形に詳しくない者は多くが越は人が多くて兵が強いから辺城に難を為せる(漢の辺境を侵略できる)と思っています。淮南が国を全て擁していた時(淮南王国が分割される前)、多くの…

西漢時代 淮南王の上書(前)

西漢武帝建元六年(前135年)、漢が閩越を討伐しました。 西漢時代89 武帝(八) 閩越遠征 前135年(1) この時、淮南王・劉安が出征に反対して上書しました。『資治通鑑』を元に上書の内容を紹介します。二回に分けます。 「陛下が天下に臨み、徳を布いて恵を施…

西漢時代 主父偃等の上書

武帝元朔元年(前128年)、主父偃、厳安、徐楽が上書しました。 西漢時代100 武帝(十九) 韓安国 前128年(2) 『資治通鑑』を元に上書の内容を紹介します。 主父偃が上書して言いました「『司馬法(『司馬穰苴兵法』)』にはこうあります『国が大きくても戦を…

西漢時代 天人三策 対策三(後)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の三回目の対策(回答)の続きです。 冊(質問)にはこうあります。「三王の教えは祖が異なり、どれも不足がある。ある人は…

西漢時代 天人三策 対策三(前)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の三回目の対策(回答)の前半です。 董仲舒が答えました(対曰): 臣は『論語』がこう言っているのを聞きました「始めがあ…

西漢時代 天人三策 策問三

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は武帝の三回目の策問(質問)です。 武帝は三度目の冊(策問)をすることにしました。武帝が言いました(制曰): 「天についてうま…

西漢時代 天人三策 対策二(後)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の二回目の対策(回答)の続きです。 今、陛下は天下を併有しており、海内で率服(帰服)しない者はいません。陛下は広く観…

西漢時代 天人三策 対策二(前)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の二回目の対策(回答)の前半です。 董仲舒が答えました(対曰): 臣は堯が命(天命)を受けてから、天下のことを憂いとし…

西漢時代 天人三策 策問二

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は武帝の二回目の策問(質問)です。 武帝は董仲舒の一回目の回答を読んで尋常ではないと思い、再び冊(策問。質問)することにしま…

西漢時代 天人三策 対策一(後)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の一回目の対策(回答)の続きです。 臣は『春秋』が語る「一元」の意義を謹んで考察しました(帝王諸侯が即位した年を「一…

西漢時代 天人三策 対策一(前)

『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) 今回は董仲舒の一回目の対策(回答)の前半です。 董仲舒が答えて言いました(対曰): 陛下が徳音を発して明詔を下し、天命と情性を求め…

西漢時代 天人三策 策問一

西漢武帝建元元年(前140年)に董仲舒の「天人三策」について書きました。 西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1) ここでは『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』の本文と注釈を元に武帝と董仲舒による問答の内容を紹介します。九回に分けます。 今回は武帝の一回…

西漢時代 治安策(七)

賈誼による『治安策』の続きです。今回で終わります。 「人主の尊(高貴)は堂(殿堂)と同じで、群臣は陛(階段)、衆庶(庶民)は地のようなものです。だから陛九級(九等。九段)の上は、廉(堂の縁)が地から遠く離れており、堂が高くなっています。陛に…

西漢時代 治安策(六)

賈誼による『治安策』の続きです。 「人の智とは、既に起きた事は見れますが、将来起きる事は見れません。礼とは将来起きる事を禁じるもので、法とは既に起きた事を禁じるものです。だから法の作用は容易に見ることができますが、礼から生まれることを知るの…

西漢時代 治安策(五)

賈誼による『治安策』の続きです。 「夏(王朝)は天子になって十余世経ってから殷(商王朝)に継がれました。殷は天子になって二十余世経ってから周に継がれました。周は天子になって三十余世経ってから秦に継がれました。しかし秦は天子になってから二世で…

西漢時代 治安策(四)

賈誼による『治安策』の続きです。 「天下の形勢は倒縣(倒懸。逆さに吊ること)しています。天子とは天下の首です。なぜなら上にいるからです。蛮夷とは天下の足です。なぜなら下にいるからです。ところが今は匈奴が嫚娒(驕慢侮蔑)な態度で侵掠し、不敬が…

西漢時代 治安策(三)

賈誼による『治安策』の続きです。 「臣が前事を窺い見るに、おおよそは強い者が先に反します。淮陰王(韓信)は楚を治めて最強だったので、最も早く反しました。韓信(韓王・信)も胡(匈奴)に頼っていたので(匈奴の助けがあったので)反しました。貫高も趙…

西漢時代 治安策(二)

賈誼による『治安策』の続きです。諸侯王に対する内容です。 「樹国(立国)においては必ず互いに疑うという形勢ができるものです(国を建てたら天子と諸侯の間で猜疑が生じるものです)。下はしばしば殃(禍)を蒙り、上もしばしば憂い悩むことになります。…

西漢時代 治安策(一)

西漢文帝前六年(前174年)に賈誼の『治安策』に触れました。 西漢時代51 文帝(十四) 中行説 前174年(2) ここでは『漢書・賈誼伝(巻四十八)』の本文および注釈を元に簡訳します。字数の関係で七回に分けます。 当時は匈奴が強大になってしばしば辺境を侵し…

西漢時代 中行説

西漢文帝前六年(前174年)、匈奴に派遣された漢の中行説が単于に帰順しました。 西漢時代51 文帝(十四) 中行説 前174年(2) 『漢書・匈奴伝(巻九十四上)』から中行説と漢の使者のやり取りを紹介します。 漢の使者の中には「匈奴の俗は老人を軽視している(…

西漢時代 張良、四皓と太子

高帝が太子廃立を謀りましたが、四皓が太子を助けました。 西漢時代 高帝(十六) 英布謀叛 前196年(4) 以下、『史記・留侯(張良)世家』から張良と四皓、太子に関する記述です。 高帝は太子・劉盈を廃して戚夫人の子である趙王・劉如意を立てたいと思ってい…

秦楚時代 過秦論(下)

西漢・賈誼の「過秦論』を紹介しています。 秦楚時代 過秦論(上) 秦楚時代 過秦論(中) 今回は下編です。 「過秦下」 秦は諸侯が有す山東三十余郡を兼併し、津関を巡行し(原文「循津関」。「循」は「修」の誤りで、「津関を修築した」という意味かもしれませ…