東漢時代457 献帝(百三十九) 楊脩 219年(5)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十一] 『資治通鑑』からです。 以前、丞相主簿・楊脩と丁儀兄弟が曹植を魏の後嗣に立てようと謀りました(曹丕が太子になる前の事です)。 『資治通鑑』胡三省注によると、楊脩は漢の丞相主簿で、曹操の官属です。 …

東漢時代456 献帝(百三十八) 関羽の進撃 219年(4)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 孫権が合肥を攻めました。 当時は諸州の兵が淮南を守っていました。 『資治通鑑』胡三省注によると、魏が漢の九江郡を淮南郡に改めま…

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [七] 『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称しました。 沔陽に壇場を設け、兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏…

東漢時代454 献帝(百三十六) 漢中平定 219年(2)

今回は東漢献帝建安二十四年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月、魏王・曹操が衆を挙げて南征を開始しました。長安を出発して斜谷を出ます。軍が要地を遮って漢中に…

東漢時代453 献帝(百三十五) 夏侯淵 219年(1)

今回は東漢献帝建安二十四年です。 東漢献帝建安二十四年 己亥 219年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹仁が宛を屠して(皆殺しにして)侯音を斬り、また樊に駐屯しました。 [二] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑…

東漢時代452 献帝(百三十四) 侯音叛乱 218年(2)

今回は東漢献帝建安二十三年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。 曹操が令を発しました「去冬(昨冬)は天が疫癘(疫病)を降し、民に凋傷(疾病死亡)があり、軍を外で興して墾田が損少(減少)したので、吾(私)は甚だこれを…

東漢時代451 献帝(百三十三) 漢臣の謀反 218年(1)

今回は東漢献帝建安二十三年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十三年 戊戌 218年 [一] 『資治通鑑』からです。 魏王・曹操が丞相長史・王必に兵を管理させ、許中の事を監督させていました(典兵督許中事)。 『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は漢の…

東漢時代450 献帝(百三十二) 陸遜 217年(3)

今回で東漢献帝建安二十二年が終わります。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 蜀の法正が劉備に言いました「曹操は一挙して張魯を降し、漢中を定めましたが、その勢いに乗じて巴・蜀を図らず、夏侯淵、張郃を留めて屯守させ、その身…

東漢時代449 献帝(百三十一) 太子曹丕 217年(2)

今回は東漢献帝建安二十二年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 魏が五官中郎将・曹丕を太子にしました。 以下、『資治通鑑』からです。 魏王・曹操はかつて丁夫人を娶りましたが、丁夫人には子ができず、妾の劉氏が曹昂…

東漢時代448 献帝(百三十) 周泰 217年(1)

今回は東漢献帝建安二十二年です。三回に分けます。 東漢献帝建安二十二年 丁酉 217年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、魏王・曹操が居巣に駐軍しました。孫権は濡須を守ります。 『資治通鑑』…

東漢時代447 献帝(百二十九) 烏桓 南匈奴 216年(2)

今回は東漢献帝建安二十一年の続きです。 [五(続き)] 尚書僕射・毛玠は崔琰の無辜(無罪)に悲傷し、心中で悦びませんでした。 するとある人がまた「毛玠が怨謗している」と報告しました。 曹操は毛玠も逮捕して獄に下します。侍中・桓階や和洽が毛玠のため…

東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)

今回は東漢献帝建安二十一年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十一年 丙申 216年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、魏公・曹操が鄴に還りました。 『三国志・武帝紀』裴松之注からです。 辛未、有司(官員)が太牢(牛…

東漢時代445 献帝(百二十七) 趙儼 215年(7)

今回で東漢献帝建安二十年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです(『資治通鑑』だけでは理解が困難なので、『三国志・魏書二十三・和常楊杜趙裴伝』を一部参照します)。 曹操が韓遂、馬超等の旧兵五千余人を遷して平難将軍(『資治通鑑』胡三省注によ…

東漢時代444 献帝(百二十六) 劉備の巴中進出 215年(6)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [八] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 九月、巴・賨の夷帥(少数民族の首領)・朴胡、杜濩、任約がそれぞれ巴夷や賨民を挙げて朝廷(曹操)に来附(帰順)しました。 朝廷は巴郡を分けて朴胡を巴…

東漢時代443 献帝(百二十五) 合肥の戦い 215年(5)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が公安から帰り、曹操が漢中から帰還してから、孫権も陸口から引き揚げて、途中で合肥を征討しました。 八月、孫権が十万の…

東漢時代442 献帝(百二十四) 隴を得て蜀を望まず 215年(4)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [六] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。 張魯討伐に従っていた丞相主簿・司馬懿が曹操に言いました「劉備が詐力(詐術と暴力)によって劉璋を虜にしましたが、蜀人はまだ附いておらず(帰心しておら…

東漢時代441 献帝(百二十三) 漢中平定 215年(3)

今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。 張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率…

東漢時代440 献帝(百二十二) 荊州分割 215年(2)

今回は東漢献帝建安二十年の続きです。 [四(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)。 しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率…

東漢時代439  献帝(百二十一) 韓遂の死 215年(1)

今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。 東漢献帝建安二十年 乙未 215年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(十八日)、献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。 魏公・曹操の娘(中女・曹節…

東漢時代438 献帝(百二十) 皇后弑殺 214年(6)

今回で東漢献帝建安十九年が終わります。 [十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。 議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操…

東漢時代437 献帝(百十九) 傅幹の諫言 214年(5)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。 『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植…

東漢時代436 献帝(百十八) 劉備の蜀経営(後) 214年(4)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」 成都が攻略されると、士衆は…

東漢時代435 献帝(百十七) 劉備の蜀経営(前) 214年(3)

今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 『三国志・先主伝』裴松之注が魏の出来事を書いています。 劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡し…

東漢時代434 献帝(百十六) 蜀平定 214年(2)

今回は東漢献帝建安十九年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。 呂蒙が孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます…

東漢時代 魏公曹操(4)

曹操が魏公に封じられました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 東漢時代 魏公曹操(3) 裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)。 臣(曹操)は先帝(霊帝)の厚恩…

東漢時代 魏公曹操(3)

献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之注(元は『魏書』の記述)からです。 曹操はこう言いました「九…

東漢時代 魏公曹操(2)

献帝の策命を紹介しています。 東漢時代 魏公曹操(1) 前回の続きです。 「朕が聞くに、先王は明徳を並建し(明徳がある者を並べて封建し)、土地を授けて民を分け与え(胙之以土,分之以民)、その寵章を崇めて礼物を備えた(高貴な爵位を示す礼服の格調を髙…

東漢時代 魏公曹操(1)

献帝建安十八年(213年)、献帝が曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。 「朕(献帝)は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)…

東漢時代 譲県自明本志令(述志令)

献帝建安十五年(210年)、曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。 東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1) ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。 十二月己亥、曹操が令を発しました。 「孤(私)が始めて孝廉に挙げられ…

東漢時代433 献帝(百十五) 韓遂敗走 214年(1)

今回は東漢献帝建安十九年です。六回に分けます。 東漢献帝建安十九年 甲午 214年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。 「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。 今回の…