今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [十一] 『資治通鑑』からです。 以前、丞相主簿・楊脩と丁儀兄弟が曹植を魏の後嗣に立てようと謀りました(曹丕が太子になる前の事です)。 『資治通鑑』胡三省注によると、楊脩は漢の丞相主簿で、曹操の官属です。 …
今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 孫権が合肥を攻めました。 当時は諸州の兵が淮南を守っていました。 『資治通鑑』胡三省注によると、魏が漢の九江郡を淮南郡に改めま…
今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。 [七] 『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月庚子、劉備が自ら漢中王を称しました。 沔陽に壇場を設け、兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏…
今回は東漢献帝建安二十四年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・蜀書二・先主伝』『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月、魏王・曹操が衆を挙げて南征を開始しました。長安を出発して斜谷を出ます。軍が要地を遮って漢中に…
今回は東漢献帝建安二十四年です。 東漢献帝建安二十四年 己亥 219年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹仁が宛を屠して(皆殺しにして)侯音を斬り、また樊に駐屯しました。 [二] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑…
今回は東漢献帝建安二十三年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注からです。 曹操が令を発しました「去冬(昨冬)は天が疫癘(疫病)を降し、民に凋傷(疾病死亡)があり、軍を外で興して墾田が損少(減少)したので、吾(私)は甚だこれを…
今回は東漢献帝建安二十三年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十三年 戊戌 218年 [一] 『資治通鑑』からです。 魏王・曹操が丞相長史・王必に兵を管理させ、許中の事を監督させていました(典兵督許中事)。 『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は漢の…
今回で東漢献帝建安二十二年が終わります。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 蜀の法正が劉備に言いました「曹操は一挙して張魯を降し、漢中を定めましたが、その勢いに乗じて巴・蜀を図らず、夏侯淵、張郃を留めて屯守させ、その身…
今回は東漢献帝建安二十二年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 魏が五官中郎将・曹丕を太子にしました。 以下、『資治通鑑』からです。 魏王・曹操はかつて丁夫人を娶りましたが、丁夫人には子ができず、妾の劉氏が曹昂…
今回は東漢献帝建安二十二年です。三回に分けます。 東漢献帝建安二十二年 丁酉 217年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 春正月、魏王・曹操が居巣に駐軍しました。孫権は濡須を守ります。 『資治通鑑』…
今回は東漢献帝建安二十一年の続きです。 [五(続き)] 尚書僕射・毛玠は崔琰の無辜(無罪)に悲傷し、心中で悦びませんでした。 するとある人がまた「毛玠が怨謗している」と報告しました。 曹操は毛玠も逮捕して獄に下します。侍中・桓階や和洽が毛玠のため…
今回は東漢献帝建安二十一年です。二回に分けます。 東漢献帝建安二十一年 丙申 216年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、魏公・曹操が鄴に還りました。 『三国志・武帝紀』裴松之注からです。 辛未、有司(官員)が太牢(牛…
今回で東漢献帝建安二十年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです(『資治通鑑』だけでは理解が困難なので、『三国志・魏書二十三・和常楊杜趙裴伝』を一部参照します)。 曹操が韓遂、馬超等の旧兵五千余人を遷して平難将軍(『資治通鑑』胡三省注によ…
今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [八] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 九月、巴・賨の夷帥(少数民族の首領)・朴胡、杜濩、任約がそれぞれ巴夷や賨民を挙げて朝廷(曹操)に来附(帰順)しました。 朝廷は巴郡を分けて朴胡を巴…
今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 劉備が公安から帰り、曹操が漢中から帰還してから、孫権も陸口から引き揚げて、途中で合肥を征討しました。 八月、孫権が十万の…
今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [六] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。 張魯討伐に従っていた丞相主簿・司馬懿が曹操に言いました「劉備が詐力(詐術と暴力)によって劉璋を虜にしましたが、蜀人はまだ附いておらず(帰心しておら…
今回も東漢献帝建安二十年の続きです。 [五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が陽平に至りました。 張魯は漢中を挙げて曹操に降ろうと欲しましたが、弟の張衛が納得しなかったため、張衛と将・楊昂等に衆数万人を率…
今回は東漢献帝建安二十年の続きです。 [四(続き)] 呂蒙が出征して長沙と桂陽に書を送ると、どちらも動静を聞いて帰服しました(望風帰服)。 しかし零陵太守・郝普だけは城を守って降ろうとしません。 荊州の動きを聞いた劉備は自ら蜀を発ち、五万の兵を率…
今回は東漢献帝建安二十年です。七回に分けます。 東漢献帝建安二十年 乙未 215年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(十八日)、献帝が貴人・曹氏を皇后に立てました。 魏公・曹操の娘(中女・曹節…
今回で東漢献帝建安十九年が終わります。 [十七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 献帝は許を都にしてから帝位を守るだけで、左右の侍衛は全て曹氏の人でした。 議郎・趙彦が常に献帝に時策(時勢に対応する計策)を進言したため、曹操…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、魏公・曹操が孫権を撃ちました。少子・臨菑侯・曹植を留めて鄴を守らせます。 『三国志・魏書十九・任城陳蕭王伝』によると、この時、曹操が曹植…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 成都が包囲された時、劉備が士衆にこう約束しました「もし事が定まったら、府庫の百物に孤(私)は関与しない(府庫の財物は自由にしていい。原文「府庫百物孤無預焉」)。」 成都が攻略されると、士衆は…
今回も東漢献帝建安十九年の続きです。 [十一(続き)] 『三国志・先主伝』裴松之注が魏の出来事を書いています。 劉備が蜀を襲った時、丞相掾・趙戩がこう言いました「劉備は成功できないのではないか(其不済乎)。用兵に拙く、いつも戦えば敗れ、奔走逃亡し…
今回は東漢献帝建安十九年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 以前、魏公・曹操が廬江太守・朱光を派遣して皖に駐屯させ、大いに稲田を開かせました。 呂蒙が孫権に言いました「皖田は肥美なので、もしも一度收孰したら、彼(敵)の衆が必ず増えます…
曹操が魏公に封じられました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 東漢時代 魏公曹操(3) 裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)。 臣(曹操)は先帝(霊帝)の厚恩…
献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之注(元は『魏書』の記述)からです。 曹操はこう言いました「九…
献帝の策命を紹介しています。 東漢時代 魏公曹操(1) 前回の続きです。 「朕が聞くに、先王は明徳を並建し(明徳がある者を並べて封建し)、土地を授けて民を分け与え(胙之以土,分之以民)、その寵章を崇めて礼物を備えた(高貴な爵位を示す礼服の格調を髙…
献帝建安十八年(213年)、献帝が曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。 「朕(献帝)は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)…
献帝建安十五年(210年)、曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。 東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1) ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。 十二月己亥、曹操が令を発しました。 「孤(私)が始めて孝廉に挙げられ…
今回は東漢献帝建安十九年です。六回に分けます。 東漢献帝建安十九年 甲午 214年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 春正月、始めて籍田を耕しました(始耕籍田)。 「籍田を耕す」というのは、天子や諸侯が農業を奨励するための儀式です。 今回の…