2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

第五十五回 華元が子反を脅かし、老人が杜回に対抗する(前編)

第五十五回 華元が床に登って子反を脅かし、老人が草を結んで杜回に対抗する (華元登床劫子反 老人結草亢杜回) *今回は『東周列国志』第五十五回前編です。 楚荘王が群臣を集めて晋を退ける策を議論しました。 公子・側が言いました「楚が関係を善くして…

第五十四回 荀林父が師を亡し、孟侏儒が主を悟らせる(後編)

*今回は『東周列国志』第五十四回後編です。 楚の公子・嬰斉は晋の上軍を攻撃しました。士会は有事を予想しており、最も早くから状況を探って陣を構えていたため、戦いながら退却することができました。 嬰斉が敖山の下まで追撃すると、突然、砲声が轟き、…

第五十四回 荀林父が師を亡し、孟侏儒が主を悟らせる(中編)

*今回は『東周列国志』第五十四回中編です。 魏錡は荀林父が中軍の将であることに嫉妬しており、名声を破りたいと思っていました。荀林父の前では和を請うといいましたが、楚の軍中に至ると自ら決戦を求めて引き返します。 楚将・潘党は魏錡が楚営に来たと…

第五十四回 荀林父が師を亡し、孟侏儒が主を悟らせる(前編)

第五十四回 荀林父が属を放任して師を亡し、孟侏儒が優に托して主を悟らせる (荀林父縦属亡師 孟侏儒托優悟主) *今回は『東周列国志』第五十四回前編です。 晋景公が即位して三年後、楚王が自ら鄭を攻撃したと聞き、鄭を援けることにしました。そこで荀林…

戦国時代 公孫龍 白馬は馬にあらず

東周赧王十七年(前298年)に趙王が弟の勝(公子・勝)を東武城に封じました。勝は平原君と号します。平原君は士を愛したため、常に数千人の食客を抱えていました。 戦国時代77 東周赧王(十五) 鶏鳴狗盗 前298~296年 食客の中に公孫龍という者がおり、「堅…

戦国時代77 東周赧王(十五) 鶏鳴狗盗 前298~296年

今回は東周赧王十七年から十九年までです。 赧王十七年 前298年 癸亥 [一] 『史記・秦本紀』によると、秦の奐(恐らく東周赧王十四年・前301年に登場した庶長・奐)が楚を攻めて八城を取り、楚将・景快を斬りました。 [二] 『史記・秦本紀』はこの年に秦が孟…

戦国時代76 東周赧王(十四) 楚懐王の拘留 前299年

今回は東周赧王十六年です。 赧王十六年 前299年 壬戌 [一] 趙武霊王は呉娃子(孟姚)が産んだ少子・何を溺愛していたため、自分が生きている間に即位させることにしました。 五月戊申(二十六日)、武霊王が東宮で大朝(盛大な朝会)を開き、少子・何に国を…

戦国時代75 東周赧王(十三) 雍氏の戦い 前300年

今回は東周赧王十五年です。 赧王十五年 前300年 辛酉 [一] 『史記・田敬仲完世家』『六国年表』『資治通鑑』によると、この年、秦の涇陽君が質(人質)として斉に行きました。『史記・秦本紀』は前年に書いています。 [二] 秦の華陽君・羋戎(秦宣太后の弟…

戦国時代74 東周赧王(十二) 垂沙の戦いと荘蹻 前301年

今回は東周赧王十四年です。 赧王十四年 前301年 庚申 [一] この年、皆既日食がありました。 『史記・秦本紀』『六国年表』によると、昼なのに夜のように暗くなったようです。 [二] 秦が韓の穰を取りました。 [三] 『資治通鑑』によると、蜀守(郡守)・煇が…

戦国時代73 東周赧王(十一) 秦の内乱 前306~302年

今回は東周赧王九年から十三年です。 赧王九年 前306年 乙卯 [一] 『史記・甘茂伝(巻七十一)』によると、この頃(前年の出来事かもしれません)、楚が韓の雍氏を攻めました。以下、『甘茂伝』からです。 以前、秦が楚を丹陽で破った時(東周赧王三年・前31…

写真 四川省 文殊院と杜甫草堂より

本日は土曜日なので、歴史は休憩して写真を紹介します。 四川省成都市の五枚です。(2016年2月11日) 文殊院 杜甫草堂 今後も気が向いたら他の写真も紹介していきます。

写真 香港歴史博物館

ちょっと息抜き。 香港歴史博物館からです。(2016年4月30日) 原始から近現代に渡る香港の歴史を眺めることができました。 大きすぎず、小さいとも感じさせない、ちょうどいい広さです。あまり人もいませんでした。 香港といえばショッピングですが、時には…

第五十三回 楚荘王が陳を復し、晋景公が鄭を救う(後編)

*今回は『東周列国志』第五十三回後編です。 孔寧が帰国して一月も経たないある日、白日に夏徴舒を見ました。夏徴舒は孔寧の命を要求します。孔寧は狂疾を得て自ら池に飛び込み死んでしまいました。 孔寧の死後、儀行父が夢で陳霊公、孔寧と夏徴舒の三人を…

第五十三回 楚荘王が陳を復し、晋景公が鄭を救う(中編)

*今回は『東周列国志』第五十三回中編です。 楚国の使臣が楚荘王の命を奉じて陳に向かいました。陳霊公と辰陵の会盟を約束するためです。しかし陳国に到着する前に乱を聞いて引き返しました。 使臣が楚荘王に報告している時、逃走した孔寧と儀行父も楚に入…

第五十三回 楚荘王が陳を復し、晋景公が鄭を救う(前編)

第五十三回 楚荘王が諫を納れて陳を復し、晋景公が出師して鄭を救う (楚荘王納諫復陳 晋景公出師救鄭) *今回は『東周列国志』第五十三回前編です。 陳霊公と孔寧、儀行父の二大夫が夏姫から贈られた褻衣(下着)を身に着けて、朝堂で卑猥な冗談を言い合っ…

第五十二回 公子宋が逆を構え、陳霊公が朝廷で戯れる(後編)

*今回は『東周列国志』第五十二回後編です。 翌日、霊公が命令を発し、駕車を準備させて微服(庶民の服。お忍び)で株林に遊びに行きました。大夫・孔寧だけが従います。 孔寧は先に夏姫に書信を送り、もてなしの準備をさせました。また、荷華に霊公の意を…

第五十二回 公子宋が逆を構え、陳霊公が朝廷で戯れる(中編)

*今回は『東周列国志』第五十二回中編です。 翌年は鄭襄公元年です。 楚荘王が公子・嬰斉を将に任命して鄭を討伐させ、国君弑殺の理由を問いました。 しかし晋が荀林父を送って鄭を援けたため、楚は兵を陳に移します。 鄭襄公は晋成公に従って黒壤で盟を結…

第五十二回 公子宋が逆を構え、陳霊公が朝廷で戯れる(前編)

第五十二回 公子宋が黿を嘗めて逆を構え、陳霊公が衵を服して朝廷で戯れる (公子宋嘗黿構逆 陳霊公衵服戯朝) *今回は『東周列国志』第五十二回前編です。 鄭の公子・帰生は字を子家といい、公子・宋は字を子公といいます。二人とも鄭国の貴戚の卿です。 …

戦国時代 胡服騎射

東周赧王八年(前307年)、趙武霊王が胡服令を発布しました。 戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年 本編は『資治通鑑』を元にしました。ここでは『史記・趙世家』の記述を紹介します。 趙武霊王は北に向かって中山の地を巡視してから房子に至りまし…

戦国時代 周の出来事

『史記・周本紀』が周に関する記述を書いています。 戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年 いつの事かははっきりしません。以下、列記します。 秦が両周(東西の周)の間に道を借りて(『戦国策・東周策』では「両周の間」ではなく「周に道を借りる」…

戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年

今回は東周赧王八年です。 赧王八年 前307年 甲寅 [一] 春正月、趙武霊王が信宮で大朝(盛大な朝会)を催し、肥義を召して天下の事を議論しました。 大会は五日にわたって開かれました。 [二] 秦の甘茂が韓の宜陽を攻めましたが、五カ月経っても攻略できませ…

戦国時代71 東周赧王(九) 秦の甘茂 前308年

今回は東周赧王七年です。 赧王七年 前308年 癸丑 [一] 秦と魏が応で会しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、応はかつて西周武王の子が封じられた国でした。『春秋左氏伝』に「邘、晋、応、韓は武王の穆(子)」とあります。 [二] 『史記・秦本紀』『韓…

第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(四)

*今回は『東周列国志』第五十一回その四です。 荘王は戦勝を祝うために漸台に群臣を招いて大きな宴を開きました。全ての妃嬪も従います。 荘王が言いました「寡人が鐘鼓を置かなくなって既に六年が経つ。今日、やっと叛臣が首を授け、四境を安靖にさせるこ…

第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(三)

*今回は『東周列国志』第五十一回その三です。 翌朝、鶏が鳴き始めると荘王が大軍を率いて退走しました。 鬥越椒は状況を探って撤退が事実だと知り、兵を率いて追撃を始めます。 楚軍は昼夜休まず疾走して竟陵を越え、更に北上しました。 鬥越椒も一日一夜…

第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(二)

*今回は『東周列国志』第五十一回その二です。 趙盾は桃園の事件をいつも心に留めていました。 ある日、趙盾が歩いて史館を訪ね、太史・董狐に会って簡(史書)を求めました。董狐が史簡を持ってくると、こう明記されていました「秋七月乙丑(恐らく九月乙…

第五十一回 董狐が直筆し、絶纓の大会を開く(一)

第五十一回 趙盾を責めて董狐が直筆し、鬥椒を誅して絶纓の大会を開く (責趙盾董狐直筆 誅鬥椒絶纓大会) *今回は『東周列国志』第五十一回その一です。 晋霊公は趙盾殺害に失敗しましたが、趙盾が晋都・絳城を離れたことを喜びました。まるで村童が師から…

戦国時代70 東周赧王(八) 楚の合従 前309年

今回は東周赧王六年です。 赧王六年 前309年 壬子 [一] 秦が初めて丞相の職を置きました。樗里疾を右丞相に任命します。 樗里疾は秦恵王の弟です。 『資治通鑑』胡三省注によると、樗里疾は渭南の陰郷に住み、そこには大きな樗樹があったため、樗里子と号し…

戦国時代69 東周赧王(七) 張儀の死 前310年

今回は東周赧王五年です。 赧王五年 前310年 辛亥 [一] 秦の張儀が武王に言いました「王のために計るとしたら、もし東方で変事があれば、王は多くの地を得ることができます。臣は斉王が臣を強く憎んでいると聞きました。斉は必ず臣がいる場所を攻撃します。…

戦国時代68 東周赧王(六) 張儀の連衡 前311年(2)

今回は東周赧王四年の続きです。張儀の連衡について書いています。 [二(続き)] 以下、『資治通鑑』からです。 楚を去った張儀は韓に行きました。 張儀が韓王に言いました「韓は地が険しく山が多いので、生産できる五穀は菽(豆類)でなければ麦(雑麦)しか…

戦国時代67 東周赧王(五) 張儀と楚懐王 前311年(1)

今回は東周赧王四年です。二回に分けます。 赧王四年 前311年 庚戌 [一] 蜀相・陳荘が蜀侯を殺しました。 これは『資治通鑑』の記述です。 『史記・秦本紀』には「丹、犂が秦に臣服し、蜀相・壮(または「状」。陳荘。東周慎靚王五年・前316年参照)が蜀侯を…