2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧

第二十四回 召陵で楚大夫を礼款し、葵邱で周天子を奉戴する(一)

第二十四回 召陵で盟して楚大夫を礼款し、葵邱で会して義によって周天子を奉戴する (第二十四回 盟召陵礼款楚大夫 会葵邱義戴周天子) *今回は『東周列国志』第二十四回その一です。 楚の屈完が再び斉陣に向かい、斉侯に直接話をしたいと伝えました。管仲…

戦国時代30 東周烈王(一) 范台の宴 前375~374年

今回から東周烈王の時代です。 烈王 安王の子で名は喜です。 烈王元年 前375年 丙午 [一] 日食がありました。 [二] 韓が鄭を滅ぼしました(『古本竹書紀年』は前年、『今本竹書紀年』は東周安王二十一年・前381年に書いています)。 『史記・鄭世家』による…

戦国時代29 東周安王(五) 姜斉と晋の滅亡 前379~376年

今回で東周安王の時代が終わります。 安王二十三年 前379年 壬寅 [一] 趙が衛を攻撃しましたが、勝てませんでした。 これは『資治通鑑』『史記・六国年表』に記述があります。『史記・田敬仲完世家』には「(田斉が)衛を救う」とあります。 しかし『史記・…

戦国時代28 東周安王(四) 呉起の死 前386~380年

今回は東周安王十六年から二十二年までです。 安王十六年 前386年 乙未 [一] 周安王が斉の大夫・田和に命を下して諸侯にしました。 斉国は姜姓の斉(姜斉)と田氏の斉(田斉)が併存することになります。田和は田斉の太公とよばれます。 『史記・斉太公世家…

戦国時代27 東周安王(三) 魏武侯と呉起 前387年

今回は東周安王十五年です。 安王十五年 前387年 甲午 [一] 秦が蜀を攻めて南鄭(東周貞定王二十八年・前441年参照)を取りました。 これは『資治通鑑』『史記・秦本紀』の記述です。『史記・六国年表』には「蜀が秦の南鄭を取る」とありますが、恐らく誤り…

戦国時代 聶政

東周安王五年(前397年)に刺客・聶政が登場しました。 戦国時代25 東周安王(一) 刺客・聶政 前401~396年 本編では『資治通鑑』の内容を元にしたので、ここでは『史記』を中心に少し詳しく紹介します。 聶政は軹邑・深井里の人です。人を殺したため、仇を避…

戦国時代26 東周安王(二) 前395~388年

今回は東周安王七年から十四年までです。 安王七年 前395年 丙戍 [一] 『史記・六国年表』によると、秦が綿諸(または「繇諸」)を攻めました。 翌年は東周安王八年です。 安王八年 前394年 丁亥 [一] 斉が魯を攻めて最を取りました。 『史記・六国年表』に…

戦国時代25 東周安王(一) 刺客・聶政 前401~396年

今回から東周安王の時代です。在位年数は二十六年にわたりますが、あまり記述がありません。 安王 威烈王が死に、子の安王・驕が立ちました。 安王元年 前401年 庚辰 [一] 秦が魏を攻めて陽孤(または「陽狐」)に至りました。 『資治通鑑』胡三省注が秦国に…

戦国時代 西門豹

本編で西門豹が登場しました。 戦国時代23 東周威烈王(七) 呉起 前405~404年 以下、『戦国策』と『史記』の記述を紹介します。 まずは『戦国策・魏一』からです。 西門豹が魏の鄴令に任命されました。 西門豹が魏文侯に別れを告げに来た時、文侯が言いまし…

戦国時代24 東周威烈王(八) 三晋封侯 前403~402年

今回は東周威烈王二十三年と二十四年です。 威烈王二十三年 前403年 戊寅 本年から『資治通鑑』の記述が始まります(今までも『資治通鑑』の記述を随所で紹介してきましたが、全て本年にまとめて書かれています)。この通史の内容も『資治通鑑』が主になりま…

戦国時代23 東周威烈王(七) 呉起 前405~404年

今回は東周威烈王二十一年と二十二年です。 威烈王二十一年 前405年 丙子 [一] 斉宣公が在位五十一年で死に、子の康公・貸が立ちました。 当時の斉は完全に田氏が牛耳っています。康公は姜姓最後の斉君となります。 [二] 『史記』『資治通鑑外紀』『資治通鑑…

戦国時代 魏文侯

『資治通鑑外紀』が『呂氏春秋』等から魏文侯に関する故事を紹介しています。 戦国時代22 東周威烈王(六) 魏文侯 前407~406年 本編では書かなかったので、ここでまとめて列記します。 まずは『呂氏春秋・開春論・期賢』からです。 魏文侯が段干木の閭(小巷…

戦国時代22 東周威烈王(六) 魏文侯 前407~406年

今回は東周威烈王十九年と二十年です。 威烈王十九年 前407年 甲戍 [一] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉宣公が鄭人と西城で会しました。 また、斉が衛を攻めて毌丘を取りました。 [二] 『史記・鄭世家』『韓世家』によると、鄭が韓を攻め、韓軍を負黍で…

戦国時代21 東周威烈王(五) 魏の中山遠征 前408年

今回は東周威烈王十八年です。 威烈王十八年 前408年 癸酉 [一] 『史記・魏世家』によると、この年、魏が中山国を攻撃しました。 魏文侯は子撃(文侯の太子)に中山から奪った地を守らせます。趙倉唐が子撃の傅(教育官)になりました。 『資治通鑑前編』は…

戦国時代 魯穆公、子思、公儀休

『資治通鑑外紀』が『孔叢子』等を元に魯穆公と子思(孔伋)、公儀休について書いています。 戦国時代20 東周威烈王(四) 斉の田和 前410~409年 ここでまとめて紹介します。 まずは『孔叢子・雑訓(第六)』からです。 魯穆公が子思を訪れて問いました「寡人…

戦国時代20 東周威烈王(四) 斉の田和 前410~409年

今回は東周威烈王十六年と十七年です。 威烈王十六年 前410年 辛未 [一] 『史記・六国年表』によると日食がありました。 [二] 『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』はこの年に魯元公が死んで穆公・顕(または「衍」)が立ったとしています。 しかし『史記・六国…

戦国時代19 東周威烈王(三) 李悝の平糴法 前413~411年

今回は東周威烈王十三年から十五年です。 威烈王十三年 前413年 戊辰 [一] 『史記・六国年表』によると、秦が晋(恐らく魏)と戦い、鄭下(鄭の城下。鄭国ではなく、鄭という地名だと思われます)で敗れました。 [二] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉宣公…

戦国時代18 東周威烈王(二) 前419~414年

今回は東周威烈王七年から十二年です。 威烈王七年 前419年 壬戌 [一] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦霊公六年)、晋(魏)が少梁に築城したため、秦が少梁を攻撃しました。 『史記・六国年表』は本年、魏が少梁に築城し、翌年、少梁で秦と魏が戦った…

戦国時代17 東周威烈王(一) 晋幽公の死 前425~420年

今回から東周威烈王の時代です。 威烈王 考王が死んで子の威烈王・午が立ちました。 威烈王元年 前425年 丙辰 [一] 秦の庶長・鼂と大臣が秦懐公を包囲したため、懐公が自殺しました。懐公の在位年数は四年です。 懐公には昭子という太子がいましたが早逝しま…

戦国時代16 東周考王(二) 西周国建国 前431~426年

今回で東周考王の時代が終わります。 考王十年 前431年 庚戍 [一] 『史記・楚世家』によると、この年、楚が北伐して莒を滅ぼしました。 『世本』にも莒国は共公の四世後に楚によって滅ぼされたとあります(これに関しては東周貞定王二十四年・前445年にも書…

戦国時代15 東周考王(一) 晋公室の衰弱 前440~432年

今回から東周考王の時代です。 在位年数は十五年にわたりますが、記述する内容が少ないので二回で終わります。 考王 貞定王(定王。貞王)の死後、三子が争い、少弟・嵬が思王を殺して自立しました。これを考王といいます。 『帝王世紀』では考哲王(または…

第十二回 衛宣公が媳を迎え、高渠彌が君を換える(中編)

*『東周列国志』第十二回中編です。 公子・寿はこう考えました「私の兄は本物の仁人だ。しかし今回、兄が盗賊の手によって殺され、父が私を後嗣に立てたら、兄の仁徳を明らかにすることができなくなる。子にとって父がいないわけにはいかない。弟にとって兄…

戦国時代14 東周貞定王(九) 貞定王の死と内乱 前448~441年

今回は東周貞定王二十一年から二十八年です。貞定王の時代が終わります。 貞定王二十一年 前448年 癸巳 [一] 『史記・六国年表』によると、晋の大夫・智寛(智瑤の一族)が邑人を率いて秦に奔りました。 翌年は東周貞定王二十二年です。 貞定王二十二年 前44…

戦国時代13 東周貞定王(八) 晋出公 衛悼公 宋景公 前452~449年

今回は東周貞定王十七年から二十年です。 貞定王十七年 前452年 己丑 [一] 『史記・秦本紀』によると、晋の智開(智瑤の子)と邑人(従属)が秦に出奔してきました。 [二] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋出公が在位二十三年で死にました。 『古本竹書…

戦国時代 晋陽の戦い

本編では『資治通鑑』を中心に晋陽の戦いを紹介しました。 戦国時代10 東周貞定王(五) 晋陽の戦い 前453年(1) 『戦国策・趙策一』にも詳しい記述があります。『資治通鑑』と重複する場所もありますが、以下紹介します。 晋陽の包囲が三年続きました。城中の…

戦国時代12 東周貞定王(七) 刺客豫譲 前453年(3)

今回で東周貞定王十六年が終わります。 [三] 知伯を滅ぼした趙襄子(趙無恤)が豫譲という刺客に襲われました。『戦国策・趙策一』と『資治通鑑』の内容を合わせて紹介します。 豫譲は晋の畢陽の孫です。かつて范氏と中行氏に仕えていましたが、厚遇されなか…

戦国時代11 東周貞定王(六) 趙襄子 前453年(2)

今回は東周貞定王十六年の続きです。 [二] 晋の智氏が亡んでから、その土地が分けられることになりました。『戦国策・韓一』からです。 三晋(趙・韓・魏)が智氏を破り、その地を分けました。 段規が韓王(この時はまだ王を称していませんが、原文のまま訳…

戦国時代10 東周貞定王(五) 晋陽の戦い 前453年(1)

今回は東周貞定王十六年です。三回に分けます。 貞定王十六年 前453年 戊子 [一] 晋では智氏、韓氏、魏氏による晋陽包囲が続いています。『資治通鑑』『趙世家』『戦国策・趙策一』からです。 三家が国人を率いて晋陽を囲み、水攻めを行いました。 『史記・…

戦国時代 晋陽包囲

晋の知氏(智氏)、韓氏、魏氏が趙氏の晋陽を包囲しました。本編では『資治通鑑』と『戦国策』の記述を中心に書きました。 戦国時代9 東周貞定王(四) 晋陽包囲 前456~454年 晋陽包囲に関して『韓非子』等にも記述があるので、ここで紹介します。 まずは『韓…

戦国時代9 東周貞定王(四) 晋陽包囲 前456~454年

今回は東周貞定王十三年から十五年です。 貞定王十三年 前456年 乙酉 [一] 斉平公が在位二十五年で死に、子の積(または「就匝」)が立ちました。これを宣公といいます。 [二] 『資治通鑑前編』はこの年に斉の陳成子が死に、子の盤が立ったとしています(東…