春秋時代目次(一)

春秋時代目次

春秋時代に入る前に

春秋時代1 東周平王(一) 東遷 秦封侯 紀元前770年

春秋時代2 東周平王(二) 衛武公 攜王滅亡 前769~750年

春秋時代3 東周平王(三) 曲沃の桓叔 京城の太叔 前749~730年 

春秋時代4 東周平王(四) 鄭の内乱 前729~722年

春秋時代5 東周平王(五) 鄭周対立 前721~720年 

春秋時代6 東周桓王(一) 大義滅親 前719~718年

春秋時代7 東周桓王(二) 曲沃武公即位 前717~715年

春秋時代8 東周桓王(三) 鄭の宋討伐 前714~713年

春秋時代9 東周桓王(四) 魯隠公の死 前712年

春秋時代10 東周桓王(五) 宋の内争 前711~708年

春秋時代11 東周桓王(六) 繻葛の戦い 前707年

春秋時代12 東周桓王(七) 随の季梁 前706年

春秋時代13 東周桓王(八) 速杞の戦い 前705~703年

春秋時代14 東周桓王(九) 鄭の内争 衛宣公の子 前702~700年

春秋時代15 東周桓王(十) 斉の後継者 前699~697年

春秋時代16 東周荘王(一) 魯桓公の死 前696~694年

春秋時代17 東周荘王(二) 衛恵公復位 前693~687年

春秋時代18 東周荘王(三) 斉桓公と管仲 前686~685年

春秋時代19 東周荘王(四) 長勺の戦い 前684~682年

春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年

春秋時代21 東周釐王(二) 晋武公 前679~677年

春秋時代22 東周恵王(一) 楚文王の死 周の内乱 前676~675年

春秋時代23 東周恵王(二) 恵王復位 前674~673年

春秋時代24 東周恵王(三) 田敬仲出奔 前672年(1)

春秋時代25 東周恵王(四) 晋の驪姫 前672年(2)

春秋時代26 東周恵王(五) 魯荘公 前671~670年

春秋時代27 東周恵王(六) 晋の粛清 前669~667年

春秋時代28 東周恵王(七) 晋太子・申生 前666年(1) 

春秋時代29 東周恵王(八) 楚令尹子元 魯臧文仲 前666年(2) 

春秋時代30 東周恵王(九) 斉桓公の山戎遠征 前665~663年 

春秋時代31 東周恵王(十) 魯の内争 前662年 

春秋時代32 東周恵王(十一) 晋の二軍 前661年

春秋時代33 東周恵王(十二) 魯閔公殺害 前660年(1) 

春秋時代34 東周恵王(十三) 衛の滅亡と復国 前660年(2)

春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3) 

春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年

春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年

春秋時代38 東周恵王(十七) 首止の会盟 前655年(1) 

春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2)

春秋時代40 東周恵王(十九) 恵王の死 前654~653年

春秋時代41 東周襄王(一) 洮の会盟 前652年

春秋時代42 東周襄王(二) 葵丘の会 前651年(1) 

春秋時代43 東周襄王(三) 晋献公の死 前651年(2)

春秋時代44 東周襄王(四) 晋恵公即位 前651年(3) 

春秋時代45 東周襄王(五) 斉桓公と封禅 前651年(4) 

春秋時代46 東周襄王(六) 里克と丕鄭の死 前650年

春秋時代47 東周襄王(七) 周内史過と晋恵公 前649年 

春秋時代48 東周襄王(八) 泛舟の役 前648~646年 

春秋時代49 東周襄王(九) 韓原の戦い 前645年(1) 

春秋時代50 東周襄王(十) 戦後の晋と秦 前645年(2) 

春秋時代51 東周襄王(十一) 慶鄭処刑 前645年(3) 

春秋時代52 東周襄王(十二) 斉管仲の死 前645年(4) 

春秋時代53 東周襄王(十三) 斉桓公の死 前644~643年 

春秋時代54 東周襄王(十四) 宋襄公 前642~641年 

春秋時代55 東周襄王(十五) 盂の会 前640~639年 

春秋時代56 東周襄王(十六) 泓水の戦い 前638年

春秋時代57 東周襄王(十七) 晋恵公の死 前637年(1) 

春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2)

春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1) 

春秋時代60 東周襄王(二十) 帰国後の文公 前636年(2)

春秋時代61 東周襄王(二十一) 鄭と周の対立 前636年(3)

春秋時代62 東周襄王(二十二) 周の内争 前636年(4)

春秋時代63 東周襄王(二十三) 周内乱の終結 前635年(1)

春秋時代64 東周襄王(二十四) 介之推 前635年(2)

春秋時代65 東周襄王(二十五) 斉魯の対立 前634年 

春秋時代66 東周襄王(二十六) 晋文公の三徳 前633年 

春秋時代67 東周襄王(二十七) 晋楚の対立 前632年(1)

春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2) 

春秋時代69 東周襄王(二十九) 温の会 前632年(3)

春秋時代70 東周襄王(三十) 介国 前631年 

春秋時代71 東周襄王(三十一) 衛成公復位 前630年(1)

春秋時代72 東周襄王(三十二) 晋秦の不和 前630年(2) 

春秋時代73 東周襄王(三十三) 趙衰の三譲 前629年

春秋時代74 東周襄王(三十四) 秦の東進 前628年

春秋時代75 東周襄王(三十五) 殽の戦い 前627年(1)

春秋時代76 東周襄王(三十六) 箕の戦い 前627年(2) 

春秋時代77 東周襄王(三十七) 楚成王の死 前626年

春秋時代78 東周襄王(三十八) 彭衙の戦い 前625年(1) 

春秋時代79 東周襄王(三十九) 秦の由余 前625年(2) 

春秋時代80 東周襄王(四十) 秦の勝利 前624年 

春秋時代81 東周襄王(四十一) 西戎の覇・秦穆公 前623~622年

春秋時代82 東周襄王(四十二) 秦穆公の死 前621年 

春秋時代83 東周襄王(四十三) 晋霊公即位 前620年 

春秋時代84 東周襄王(四十四) 魯・公孫敖の出奔 前619年

春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年 

春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年 

春秋時代87 東周頃王(三) 士会の帰国 前614年 

春秋時代88 東周頃王(四) 斉の政変 前613年 

 

 

春秋時代 桓公即位と管仲登用

春秋時代 管仲の政治(一)

春秋時代 管仲の政治(二)

春秋時代 管仲の政治(三)

春秋時代 管仲列伝 

春秋時代 柯の会盟

春秋時代 覇者 斉桓公(一) 

春秋時代 覇者 斉桓公(二) 

春秋時代 晋太子申生の遠征 

春秋時代 斉桓公と諸侯(一)

春秋時代 斉桓公と諸侯(二)

春秋時代 晋太子申生の死 

春秋時代 百里奚登用

春秋時代 韓原の戦い 岐下の野人 

春秋時代 重耳の帰国(1)

春秋時代 重耳の帰国(2) 

春秋時代 重耳の帰国(3) 

春秋時代 重耳の帰国(4) 

春秋時代 晋文公

春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(前)

春秋時代 重耳の帰国 『史記・晋世家』(後)

春秋時代 城濮の戦い

 

 

西周時代目次

西周時代目次

西周時代に入る前に

西周時代1 建国前(一) 后稷から亜圉まで

西周時代2 建国前(二) 古公亶父以降

西周時代3 武王(一) 即位

西周時代4 武王(二) 

西周時代5 武王(三) 分封

西周時代6 武王(四)

西周時代7 武王(五)

西周時代8 成王(一) 周公摂政 三監の乱 

西周時代9 成王(二) 東都建設 

西周時代10 成王(三) 親政開始

西周時代11 成王(四) 魯の伯禽

西周時代12 成王(五)

西周時代13 成王(六) 成王の死 

西周時代14 康王 成康の治 

西周時代15 昭王 南征失敗

西周時代16 穆王(一) 犬戎征伐 造父

西周時代17 穆王(二) 徐偃王 

西周時代18 穆王(三) 呂刑

西周時代19 恭王

西周時代20 懿王

西周時代21 孝王 

西周時代22 夷王 楚熊渠 

西周時代23 厲王(一) 栄夷公

西周時代24 厲王(二) 国人暴動 

西周時代25 共和(一) 信史時代 諸侯の状況 

西周時代26 共和(二) 共和年間(前841~828年)

西周時代27 宣王(一) 宣王中興(前827~822年)

西周時代28 宣王(二) 魯の後継者(前821~808年)

西周時代29 宣王(三) 魯の内争(前807~796年)

西周時代30 宣王(四) 太原料民 杜伯殺害(前795~782年)

西周時代31 幽王(一)美女・褒姒(前781~775年) 

西周時代32 幽王(二)申侯・犬戎の乱(前774~771年) 

 

周の宗法制度 

西周時代 箕子の『鴻範九等』(前)

西周時代 箕子の『鴻範九等』(後) 

西周時代 『史記・世家』の分封に関する記述 

西周時代 諸侯一覧(1) 

西周時代 諸侯一覧(2) 

西周時代 諸侯一覧(3)

西周時代 諸侯一覧(4) 

西周時代 『尚書・周官』

 

総目次

総目次 – 趣味の中国通史

 

 

東漢時代 曹操

東漢献帝建安二十五年220年)曹操が死にました。

東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)


三国志魏書一武帝紀』裴松之注が『魏書』『傅子』等から曹操に関する記述を引用しているので、以下、紹介します。
 

まずは『魏書』です(『資治通鑑』の曹操に対する評は主にここから抜粋引用しています)

曹操(原文は「太祖」ですが、以下、「曹操」と書きます)は自ら海内を統御して群醜を芟夷(討滅、平定)し、その行軍用師(行軍作戦。軍事行動)はおよそ呉の孫子呉子の兵法)に則り、事に因って奇を設け、敵を欺いて勝ちを制し、変化の様子は神のようだった(因事設奇,譎敵制勝,変化如神)。自ら兵書十万余言を著作し、諸将の征伐は、皆、新書曹操兵法書によって従事した(事を行った)

事に臨んだらまた自らの手で指揮をとり(手為節度)、令に従った者は克捷(勝利)して、教えに違えた者は負敗(敗北)した。虜と対陣したら意思が安閑として(気持ちが安寧静寂で)戦を欲していないようだったが、機が決して勝ちに乗じると、気勢が満ち溢れたので、戦はいつも必ず克ち、軍に幸勝(幸運の勝利)がなかった。
善く人を観察してその能力を知ることができ、偽りによって惑わすのは困難だった(知人善察,難眩以偽)于禁楽進を行陣の間(行軍の中。軍隊)から抜擢し、張遼徐晃を亡虜の内(投降した敵勢力)から取り、皆、天命を援けて功を立て(佐命立功)、名将に列した。その他にも、細微(卑賤な者)から抜擢して牧守に登った者は数え切れない。
これによって大業を刱造(創造)し、文武を並んで施し、御軍して(軍を統率して)三十余年、手から書物を離したことがなく(手不捨書)、昼は武策を講じ、夜は経伝を習い、高地に登ったら必ず(詩を)賦し(登高必賦)、新詩を作るに及んだら、それに管絃の曲を付けて全て楽章と成した(被之管絃皆成楽章)
才力が卓越しており(才力絶人)、手は飛ぶ鳥を射て体は猛獣を捕まえ(手射飛鳥躬禽猛獣)、かつて南皮で雉を射て一日に六十三頭(羽)を獲たこともあった。

宮室を造作(建築)して機械(器具)を繕治(修理制作するに及んでは、法則(計画方法)を為さないことがなく(あらかじめしっかりとした計画を立て)、皆、その意を尽くした(目的通りに完成した)

雅性(元からの性格)は節倹で、華麗を好まなかったため、後宮の衣服は錦繡を使わず、侍御の履(履物)は二采(二彩。複数の色)を使わなかった。帷帳屏風が壊れたら補納(補修)し、茵蓐(敷物。布団)は温を取るだけで縁飾もなかった。

城を攻めて邑を抜き、靡麗(華麗)の物を得たら、ことごとく功がある者に下賜し、賞すべき勲労には千金も惜しまなかったが、功が無いのに施を望む者には分豪(分毫。極めて少ないこと。ここでは「わずかな金額」です)も与えなかった。四方が献御(献上、貢献)したら、群下とこれを共にした。
送終の制(葬儀の制度)や襲称の数(死者に贈る衣服の数)が煩雑かつ無益なのに、世俗がこれを過度にしていると常に思っていたため、あらかじめ自ら終亡の衣服(死後に着る衣服)を制定し、四篋(四箱)だけにした。
 
次は『傅子』からです。
曹操は婚姻における奢僭(分を越えて奢侈な様子)に心を痛めたため(愍嫁娶之奢僭)、公女が人に嫁ぐ時は、全て皁帳(黒い帳)を使い、従婢も十人を越えなかった。
 
次は『張華博物志』からです。

漢の世は、安平の人崔瑗と崔瑗の子寔、弘農の人張芝と張芝の弟昶が並んで草書を善くし、曹操はこれに次いだ。

桓譚、蔡邕は音楽を善くし、馮翊の山子道、王九真、郭凱等は囲棊囲碁を善くしたが、曹操はこれらの能力が全て同等だった(埒能)

曹操は)養性の法を好み、方薬も理解し、方術の士を招き入れた。廬江の人左慈、譙郡の人華佗、甘陵の人甘始、陽城の人郄倹で至らない者はいなかった。また、野生の葛を一尺も食べる練習をし、しかも少量の鴆酒を飲むこともできた(習啖野葛至一尺亦得少多飲鴆酒

 
再び『傅子』からです。

漢末の王公は多くが王服を棄てて幅巾(頭巾の一種)を雅とした。そのため袁紹、崔豹の徒は将帥でありながら皆、縑巾(絹の頭巾)を着けた。曹操は天下が凶荒に襲われて資財が乏匱(欠乏)していたため、古に真似て皮弁(皮の冠)を作り、縑帛(絹織物)を裁って(簡易な帽子。冠の一種)とし、簡易隨時の義(簡単便利でその時の目的に応じて使うという道理)に合わせ、色によって貴賤を分けた。これは今(晋代)においても施行されているが、軍容というべきであって、国容(国の正装)ではない。

 

最後は『曹瞞伝』からです(『資治通鑑』の曹操に対する評はここからも一部を抜粋引用しています)

曹操の為人は佻易(軽薄。軽率)で威重がなく、音楽を好み、倡優(役者、芸人)が側にいて常に昼間から夜に達した(常以日達夕)。被服(衣服)は軽綃(軽い絹)を用い、身には自ら小鞶囊(小さな革製の袋)を佩して手巾や細物(こまごまとした物)を入れ、時には(簡素な冠)をかぶって賓客に会った。

いつも人と談論する時は戯れたり風刺をして全く隠すことがなく(原文「戲弄言誦尽無所隠」)、歓悦大笑したら頭を杯と机の間にうずめ(頭沒杯案中)、肴膳(料理)で巾幘(頭巾)をすっかり汚してしまうこともあった。その軽易(軽率)な様子はこのようであった。
しかし法を用いたら峻刻(厳酷)で、諸将で計画(計策)が自分より勝っている者がいると、法によって誅殺してしまい、故人(旧知)でも旧怨があったら余すことがなかった(見逃さなかった)。刑を用いて殺す時はいつも対面して涙を流し、悲痛のため嘆息したが(垂涕嗟痛)、結局活かすことはなかった。

以前、袁忠が沛相になり、法を用いて曹操を治めよう(裁こう)としたことがあった。沛国の人桓邵も曹操を軽んじていた。

曹操が兗州に居た時、陳留の人辺譲の言議が曹操を頗る侵した(害した)ため、曹操は辺譲を殺してその家族も滅ぼした(族其家)。袁忠と桓邵は共に交州に避難したが、曹操は太守燮に使者を送って全て族滅させた。桓邵が出頭して庭中で拝謝したが、曹操は「跪いたら死を解くことができるのか(跪可解死邪)」と言ってやはり殺してしまった。

かつて兵を出した時、麦の中を通ったことがあった。そこで曹操が令を発した「士卒は麦を傷つけてはならない。犯した者は死刑に処す(士卒無敗麦,犯者死)。」
騎士は皆、馬から下り、麦をもって互いに渡しあった(原文「付麦以相付」。麦の茎をもって道を開き、後ろの者に渡しながら前に進んだのだと思います)
この時、曹操の馬が飛び跳ねて麦の中に入ってしまった(騰入麦中)曹操は主簿に命じて罪を議させた(判断させた)。主簿は「『春秋』の義(道理)によれば、尊位には罰を加えないものです(以春秋之義,罰不加於尊)」と答えたが、曹操はこう言った「法を制定したのに自らそれを犯したら、どうして下を統率できるか(何以帥下)。しかし孤(私)は軍の帥(将帥)となったので、自らを殺すわけにはいかない。自ら刑を行うことを請う(請自刑)。」
そこで曹操は剣をとって髪を切り、それを地に置いた。
また、ある幸姫が昼寝に従ったことがあった。曹操は幸姫を枕にしてその上に卧せ(膝枕をさせたのだと思います。原文「枕之卧」)、こう告げた「暫くしたら私を起こせ(須臾覚我)。」
しかし姫は曹操が臥せて安んじているのを見て、すぐには起こさなかった。
曹操は自分で目を覚ましてから、姫を棒殺してしまった。
以前、賊を討った時、廩穀(食糧)が不足したため、曹操は秘かに主者(担当者)に如何するか聞いた。
主者が「小斛(小さい容器)を使えば(規定の量を)満足させることができます(可以小斛以足之)」と答えると、曹操は「善し(善)」と言った。
しかし後に軍中で兵達が「曹操が衆を欺いている」と言うようになった。そこで曹操は主者に「特に君の死を借りて衆人を抑えるつもりだ。そうしなければ解決できない(特当借君死以厭衆,不然事不解)」と言うと、斬って首を取り、それを曝して標札に「小斛を用いて官穀を盗んだので、軍門でこれを斬った(行小斛盗官穀,斬之軍門)」と書いた。
曹操の酷虐変詐(残虐暴虐で欺瞞)な様子は全てこの類であった。
 




東漢時代 魏王曹操

献帝建安二十一年216年)、魏公曹操が魏王になりました。

東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)


三国志魏書一武帝紀』裴松之注が献帝の詔を載せているので、ここで紹介します。
 
「古から帝王は号称(称号)が変わり、爵等爵位が同じではないが、元勳を褒崇し(大功がある者を褒め称えて尊重し)、功徳を建立し(功徳がある者を諸侯に建て)、氏姓を光啓(拡大、繁栄)させて、それを子孫に延ばす(及ぼす)ことに至っては、庶姓(異姓)と親(親族。皇族)の間にどうして違いがあるだろう(庶姓之與親豈有殊焉)
昔、我が聖祖(高祖)は命(天命)を受け、創業して基礎を開き(刱業肇基)、我が区夏(中華。国土)を造った。古今の制を鑑み、爵等爵位の差に通じ、山川をことごとく封じて藩屏を立て、異姓親戚を土地に並列させ、国に拠って王にさせた。そのため、天命を保って安んじさせ(保乂天命)、万世にわたる後嗣を安定強固にし(安固万嗣)、代々承平(太平)が続いて臣主(君臣)に事(大事、変事)がなかった(歴世承平臣主無事)
(後に)世祖(光武帝)が中興したが、時には難易がある(時代によって状況は変わる)。そのため数百という長年にわたって(曠年数百)、異姓諸侯王の位がなかった。

朕は不徳によって先祖の弘業(大業)を継承したが(継序弘業)、天下が崩壊して群凶が害毒をほしいままにする時代に遭い(遭率土分崩群兇縦毒)、西から東に移動して辛苦困窮した(自西徂東辛苦卑約)。その際に当たっては、ただ危難に溺れ入り、先帝の聖徳を辱めることだけを恐れた(唯恐溺入于難以羞先帝之聖徳)。しかし皇天の霊に頼り(皇天の霊のおかげで)、君曹操に義を持って身を奮わせ(秉義奮身)、神武を迅速に発揮させ(震迅神武)、艱難から朕を防ぎ(捍朕于艱難)、宗廟の安全を保つことができた(獲保宗廟)華夏(中華)の遺民で気を含む類の者は(息をしている者、生きている者は。原文「含気之倫」)曹操の恩恵を)蒙らない者がいない。君の勤(勤労)は稷(后稷。周の始祖)禹を過ぎ、忠は伊(伊尹周公)と等しいのに、謙譲によってそれ(功績)を覆い隠し(掩之以謙讓)、ますます恭敬な態度をとることでそれを守っている(守之以彌恭)。そのため、以前、初めて魏国を開き、君に土宇(国土)を下賜したが(錫君土宇)、君が命に違えることを懼れ、君が固辞することを考慮したので、暫くは志(意向)を胸に抱きながら意を屈して(懐志屈意)、君を封じて上公にした(封王はせず、公爵にした)曹操の)高義を尊んでそれに順じ、そうして勳績(勲功業績)を待とうと欲したのである(欲以欽順高義須俟勳績)

やがて韓遂宋建が南の巴蜀と結び、群逆が合従し、社稷を危うくさせようと図ると、君はまた将に命じ、龍驤虎奮して(「龍驤」は龍が飛翔すること、「虎奮」は虎が奮い立つことで、武威を発揮することの比喩です)その元首(頭。首)を曝し(梟其元首)、その窟栖(すみか)を屠した(皆殺しにした)。西征するに至ると、陽平の役では自ら甲冑を身につけて険阻(な地)に深入りし、蝥賊(害虫)を取り除き(芟夷蝥賊)、凶醜を消滅させ(殄其兇醜)、西の辺境を平定して(盪定西陲)、万里に旗を掲げ(懸旌万里)、声教(名声と教化)が遠くに振るい(声教遠振)、我が区宇(天地。天下)を安寧にした(寧我区宇)

虞の盛においては(堯舜の盛時においては)三后(恐らく夏商周の始祖に当たる禹后稷です)功を樹立し、文武の興においては西周文王武王が興隆した時は)奭が作輔し(周公と召公が補佐の大臣になり)、二祖の成業においては(高祖と光武帝が大業を成した時は)英豪が命を輔佐した曹操の功績もこれらと同じである)。聖哲の君をもって事を自分の任と為しても(堯・舜等の聖哲な君子が政事を自分の任務責任としていても)、なお土地を下賜して瑞(諸侯の証しとなる玉)を与えることで功臣に報いたのだ錫士班瑞以報功臣)。朕のように寡徳で、君に頼ることで救われているのに、賞典(賞賜典礼が充分でない者がいるだろうか豈有如朕寡徳仗君以済而賞典不豊)(賞典を充分にせず)どのようにして神祇(「祇」も「神」の意味です)に答えて万方(天下)を慰めるのか。

よって今、君の爵を進めて魏王にし、使持節・行御史大夫(符節を持った使者で御史大夫代行)宗正劉艾に策璽(任命の策書と印璽)と白茅で包んだ玄土(「玄土」は「黒土」で、北方の領土を象徴します。白茅で包んだ土を与えるのは封侯を意味します。原文は「玄土之社,苴以白茅」ですが、「之社」は省いて「玄土苴以白茅」と解釈しました。「玄土之社」は「北方の土地神」です)、金虎符第一から第五、竹使符第一から第十(「金虎符」と「竹使符」は兵を動員したり徴集する時に使う符です)を奉じさせる(劉艾にこれらを持たせて曹操に授けさせる)。君は王位を正せ。丞相として冀州牧を領すのは今まで通りとする(以丞相領冀州牧如故)。魏公の璽綬符冊(符節任命書)を返上せよ。謹んで朕の命に服し、汝の衆をよく考慮していたわり、諸事を克服して安定させ、そうすることで我が祖宗の美命を高揚させよ(敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命)。」

 
曹操が上書して三回辞退しましたが、献帝は詔で三回応えて辞退を許しませんでした。

また、献帝は手詔(手書きの詔書曹操に与えました「大聖は功徳を高美とし、忠和を典訓とするので、創業して名を残し、百世にわたって敬慕させることができ(刱業垂名使百世可希)、道を行って制義(制宜。状況に適した方法を制定すること)し、その力行(努力と実践)を模範とさせさせることができ(行道制義使力行可效)、それによって勳烈(功績)が無窮になり、美光が卓越するのである(休光茂著)。稷契は元首(堯舜)の聡明を上に戴き、周(周公召公)(文王武王)智用智慧を運用すること)を頼りにし、確かに庶官(諸官)を経営したので、仰いだら嘆息し、俯いたら思念するが(稷契や邵に対して感嘆敬慕するが。原文「仰歎俯思」)、その対(回答。封爵時の受け答え)がどうして君のよう(謙譲・恭敬の様子)であっただろう(其対豈有若君者哉)。朕は古人の功があのように美しいことを考え(朕惟古人之功,美之如彼)、君の忠勤の績(功績)がこのように盛んであることを思うので(思君忠勤之績,茂之如此)、いつも符に彫刻して瑞を加工したり(鏤符析瑞)、礼命(任命)を冊書に述べようとしており(陳礼命冊)寝ても覚めても感慨して(気持ちがたかぶり。原文「寤寐慨然」)、自ら守文の不徳を忘れるのである(原文「自忘守文之不徳焉」。「守文」は先代の法度を守ることで、ここでの「文」は功臣には封爵するという大聖の制度を指します。「守文之不徳」は「守文における不徳」「守文ができていないという不徳曹操に相応しい爵位を与えていないという不徳)」の意味か、「守文するだけの不徳な身」という意味だと思います。全体の意味は「曹操に王位を与える準備をすることで、気持ちが高揚して、自分が不徳であることを忘れてしまう」といった感じだと思いますが、誤訳かもしれません)。今、君は重ねて朕の命に違え、固辞して懇切だったが、それは朕の心にそい、しかも後世に訓す(教え導く)方法ではない(非所以称朕心而訓後世也)。志を抑えて節を制し、これ以上固辞してはならない(其抑志撙節勿復固辞)。」

 
以上が献帝の詔です。
 
裴松之注は曹操が魏王になった時の曹操と司馬防(司馬建公)の会話も紹介しています。以下、引用します。

『四体書勢序』では、梁鵠が公曹操(雒陽)北部尉にしましたが、『曹瞞伝』では尚書右丞司馬建公によって曹操が北部尉に)挙げられています。

曹操が王になった時、司馬建公を鄴に招いて共に歓飲し、建公にこう問いました「孤()は今日もまた尉にするべきか(孤今日可復作尉否)?」
建公が言いました「昔、大王を挙げた時はちょうど尉にするのが相応しかったのです(適可作尉耳)。」
魏王は大笑しました。
建公は名を司馬防といい、司馬宣王(司馬懿)の父に当たります。
 

裴松之が司馬防について書いています「司馬彪の『(続漢書序伝』を調べると、建公は(尚書)右丞になっていないが、恐らくそれは間違いだろう(疑此不然)。王隠の『晋書』では、趙王(司馬倫。司馬懿の子)が帝位を簒奪した時、祖(祖父)を尊んで帝にしたいと欲し、博士馬平が議して『京兆府君(司馬防)は昔、魏武帝を挙げて北部尉にしたので、賊が界(領内)を侵さなくなりました』と称えた。このようであるので、(司馬防が尚書右丞になり、曹操を挙げたとする説には)証拠があることになる(如此則為有徵)。」

 




 
 

東漢時代 漢中王劉備(2)

献帝建安二十四年219年)劉備が漢中王の位に即きました。

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)

東漢時代 漢中王劉備(1)

 

劉備が上書して漢帝に言いました「臣は具臣の才(臣下の列に加わるだけの凡庸な才)によって上将の任を負い、三軍を董督(総督)し、外において辞(詔)を奉じていますが、寇難を掃除して王室を靖匡することができず(皇室を安んじて正すことができず)、久しく陛下の聖教を陵遅(衰退)させ、六合(上下と四方。天下)の内が混乱したままで泰平にできないので(否而未泰)、これを憂いて眠りにつけず(原文「惟憂反側」。「反側」は何回も寝返りを打つことで、眠れない様子です)、頭痛を病んだようにうなされています(原文「疢如疾首」。「疢」は「病」、「疾首」は「頭痛」で、直訳すると「頭痛のような病」です。激しい憂慮心痛を表す比喩として使います)

以前、董卓が乱階(乱の発端)を造り、その後、群兇(群凶)が縦横して海内を残剥(破壊搾取)しましたが、陛下の聖徳威霊に頼り(聖徳威霊のおかげで)人と神が共に応じ、あるいは忠義(の士)が奮討し、あるいは上天が罰を降したので、暴虐が並んで倒れて徐々に氷が融けるように消滅しました(暴逆並殪以漸冰消)。しかし曹操だけは久しく梟除(誅滅)されず、国権を侵擅(侵犯専断)し、心を恣にして乱を極めています。臣は昔、車騎将軍董承と曹操討滅を図りましたが(図謀討操)、機事が密ではなかったため、董承は害に陥らされ(殺害され。原文「承見陷害」)、臣(私)は流亡して拠点を失い、忠義を果たせませんでした(播越失拠忠義不果)。その結果、ついに曹操に凶を尽くして逆を極めさせることになり(窮凶極逆)、主后(皇后)が戮殺(殺戮)され、皇子が鴆害鴆毒による殺害)されました。たとえ同盟を糾合し、念が奮力にあっても(力を奮いたいと思っていても)、軟弱で勇武がないので、年を経ても成果がなく(懦弱不武,歴年未效)、常に殞没(死亡。漢帝よりも先に自分が死ぬこと)して国恩に孤負すること(裏切ること)を恐れ、寝ても覚めても長嘆し、朝から夜まで危難に臨んだ時のように心を引き締めています(寤寐永歎,夕惕若厲)

今、臣の群寮はこう考えています。昔、『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決め、衆明(多数の賢明な士)を輔翼にする(敦叙九族,庶明勵翼)』とあり、五帝は損益しましたが(五帝はそれぞれ前の時代の制度を修正してきましたが)、この道(『虞書』の道理)は廃しませんでした。周は二代(夏商)に鑑み、諸姫氏を並べて封建しました周監二代並建諸姫)(そのおかげで)実に晋鄭による夾輔(補佐)の福に頼ることができたのです。高祖は龍興(帝王が興隆すること)してから子弟を尊んで王とし、大いに九国を啓き(開き)、その結果、最後は諸呂を斬って大宗を安んじました。今、曹操は直を嫌って正を憎み(悪直醜正)、実に多くの徒を集め(原文は「寔繁有徒」ですが、通常は「実繁有徒」と書きます)、禍心(悪を為す心)を隠し持ち(包藏禍心)、簒盗(の意志)が顕かになっています。既に宗室が微弱になり、帝族に位がないので(官位に就いている皇族もいないので)(臣の群寮は)古式(古の方法)を斟酌(考慮)し、暫時、権宜に則って(原文「依假権宜」。「依假」は暫定的に用いること、「権宜」は臨機応変かつ適切な処置です。ここでは皇帝の許可を待たず、暫定的に適切な処置をするという意味です)、臣(私)を大司馬漢中王に推しました(上臣大司馬漢中王)。臣は伏して自ら三省し、国の厚恩を受けて一方の任を負いながら、力を出しても成果がなく(陳力未效)、獲ているもの(地位官職)が既に度を過ぎているので(所獲已過)、また高位を忝くして(能力がないのに高位に就いて)罪謗(罪や批判)を重ねるべきではないと考えました。しかし群寮が義によって臣に逼迫しました(「群寮が義によって臣に王を称すように要求しました」。または「群寮も逼られているので、義によって臣に迫りました」。原文「群寮見逼迫臣以義」)。臣が退いて思うに、寇賊が誅されず(寇賊不梟)、国難がまだ止まず、宗廟が傾危(転覆の危機)にあり、社稷が墜ちようとしており(消滅しようとしており)(これらの状況が)臣の憂責碎首の負(憂慮自責して命を懸けるべき負担、責任)と成っています。もし権に応じて変に通じることで(原文「応権通変」。臨機応変に適切な対処をすることで)、聖朝を寧靖(安寧)にできるのなら、たとえ水火に赴くとしても、辞すことではなく、敢えて常宜(通常の道義)を考慮して後悔を防ぐつもりです(原文「雖赴水火所不得辞,敢慮常宜以防後悔」。後半は誤訳かもしれません。本来は、「後悔しないために、敢えて通常の道義を考慮せず、臨時の手段として王位に即くつもりです」という意味だと思います)。よって、衆議に順じて印璽を拝受し、そうすることで国威を崇めます。仰いでこの爵号を思うに、位が高く寵が厚く、俯して(伏して)報效(恩に報いて尽力すること)を思うに、憂いが深く責(責任)が重いので、驚き怖れて息をひそめ、深谷に臨んだ時のようです(驚怖累息如臨于谷)。力を尽くして忠誠を捧げ(尽力輸誠)、六師(六軍)を奨厲(奨励)し、群義(諸義士)を率斉(統率)し、天に応じて時に順じ、凶逆を撲討(討伐)することで、社稷を安寧にし、国恩の万分の一だけにでも報いるつもりです(以寧社稷以万分)。謹んで拝章し(「拝章」は上奏文を献上することです)(拝章に使う)(駅馬、駅車)によって授かっていた左将軍宜城亭侯の印綬を上還(返上)します。」

 
 



 

東漢時代 漢中王劉備(1)

献帝建安二十四年219年)劉備が漢中王の位に即きました。

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)


以下、『三国志蜀書二先主伝』からです。
 
秋、群下(群臣)劉備を漢中王に推し、漢帝献帝に上表しました「平西将軍都亭侯馬超、左将軍長史領鎮軍将軍許靖、営司馬龐羲、議曹従事中郎軍議中郎将射援(『三国志・先主伝』裴松之注によると、射援の字は文雄といい、扶風の人です。先祖の本姓は謝といい、北地の諸謝(謝氏諸族)と同族です。始祖の謝服が将軍になって出征した時、天子が「謝服(謝罪して服す)」は令名(美名)ではないと考え、「射服」に改めさせたため、子孫がそれを氏にしました。兄の射堅は字を文固といい、若い頃から美名があったため、公府に招聘されて黄門侍郎になりました。しかし献帝の初期に三輔が飢乱したため、射堅は官を去り、弟の射援と共に南の蜀に入って劉璋を頼りました。劉璋は射堅を長史にしました。劉備劉璋に代わると、射堅を広漢や蜀郡の太守にしました。射援も若い頃から名行(名声品行)があり、太尉皇甫嵩がその才を賢と認めて娘を嫁がせました。その後、蜀の丞相諸葛亮が射援を祭酒にし、更に後に従事中郎にしました。官に就いたまま死にます)、軍師将軍諸葛亮、盪寇将軍漢寿亭侯関羽、征虜将軍新亭侯張飛、征西将軍黄忠鎮遠将軍賴恭、揚武将軍法正、興業将軍李厳等一百二十人が上表します(上言曰)
昔、唐堯は至聖でしたが四凶が朝(朝廷)におり、周成西周成王)は仁賢でしたが四国が作難し(反乱を起こし)、高后呂后が称制して諸呂が竊命し(権勢を盗み)、孝昭西漢昭帝)が幼冲(幼少)で上官が逆謀しました(叛逆を謀りました)。皆、世寵を利用し(皆馮世寵)、国権を借りて行使し(藉履国権)、凶悪を尽くして乱を極め(窮凶極乱)社稷を危うくするところでした社稷幾危)。大舜、周公、朱虚(劉章)、博陸(霍光)がいなければ、流放(追放放逐)禽討(捕縛誅滅)して、安危定傾(危機転覆から救って安定させること)することはできなかったでしょう。伏して思うに、陛下は誕姿(恐らく「立派な姿」です)聖徳によって万邦(全国)を統理(統治)していますが、厄運不造の艱(不運不幸な困難。国が衰退する危難)に遭っています。董卓が始めに難を為して京畿を転覆動乱させ董卓首難蕩覆京畿)曹操が禍を招いて天衡(天子の権威)を盗み行使し曹操階禍竊執天衡)、皇后太子が鴆殺によって害され鴆毒によって殺害され。原文「鴆殺見害」)曹操が)天下を剥乱(騒乱)させて民物(民や物)を残毀(破滅破壊)し、久しく陛下を蒙塵憂厄(流浪と困苦)させ、虚邑(人がいない貧しい村。恐らく許都を指します)に幽処(幽閉)しています。人神(人民と祭祀)に主がなくなり、曹操が)王命を遏絶(阻止隔絶)し、皇極を厭昧して(皇帝、皇権を制御して覆い隠し)、神器(皇権の象徴)を盗もうと欲しています。
左将軍司隷校尉豫荊益三州牧宜城亭侯劉備は朝廷の爵秩を受け、念(思い)は輸力(尽力)によって国難に殉じることにあります。その機兆(先兆。曹操による簒奪の兆し)を見て、赫然(憤怒の様子)として憤発したので、車騎将軍董承と共に曹操誅殺を共謀し(同謀誅操)、国家を安んじて旧都(雒陽)を克寧(安定)させようとしました。しかしたまたま董承の機事(大事)が密ではなかったため(機密が漏れてしまったため)曹操の游魂が長悪(長期の悪事)を遂げられるようにさせ、海内を残泯(破壊破滅)しています。臣等はいつも王室において、大は閻楽の禍(秦末、趙高が閻楽を送って二世皇帝を殺しました。秦二世皇帝三年207年参照)があり、小は定安の変西漢末、王莽が孺子を廃して定安公にしました。新王莽始建国元年9年参照)があることを懼れており、朝から夜まで惴惴(不安な様子)とし、戦慄して息をひそめています(夙夜惴惴戦慄累息)。昔は『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決める(敦序九族)』とあり、周は二代(夏商)に鑑みて(周監二代)同姓を封建し、『詩詩経』がその義(意義道理)を著して長久に年を重ねました(歴載長久)。漢興の初めは、疆土(領土)を割裂し、子弟を尊んで王に立てました尊王子弟)。それによってついに諸呂の難を折り(挫折させ)、太宗の基(文帝の功業の基礎)を成すことができたのです。臣等が思うに、劉備は肺腑の枝葉(皇室の一族)、宗子の藩翰(皇族の子弟で王室を守る重臣であり、心には国家があり、念は乱を静めることにあります(心存国家,念在弭乱)曹操を漢中で破ってから、海内の英雄が名声を聞いて蟻が集まるように帰附しているのに(海内英雄望風蟻附)、爵号が顕かではなく(高くなく)、九錫がまだ加えられていないのは、社稷を鎮衛(守護)して万世に(功績を)光昭(発揚高揚)することにはなりません。
劉備は)(詔)を奉じて外におり、礼命(皇帝の命)が断絶しています。昔、河西太守梁統等はちょうど漢の中興の時に当たりましたが、山河に阻まれており、官位が同じで権力が等しかったため、互いに統率することができませんでした(限於山河位同権均不能相率)。そこで皆が竇融を推して元帥とし、最後は效績(功績)を立てて隗囂を摧破しました(打ち破りました)。今の社稷の難は隴蜀より急です。曹操が外で天下を併呑し、内で群臣を害し(外吞天下,内残群れ寮)、朝廷には蕭墻の危(内乱の危機)があるのに、(天子が)侵略を防ぐ者を設けないのは、心を寒くさせます(禦侮未建可為寒心)。そこで臣等は旧典に則り、劉備を漢中王に封じ、大司馬に拝し(任命し)、六軍を董斉(統率)させ、同盟を糾合して凶逆を掃滅することにしました。漢中広漢犍為をもって国とし、署置(任官配置)は漢初の諸侯王の故典(旧典)に則ります。権宜の制臨機応変な制度、方法)とは、とりあえず社稷を利すのなら、専断も許されるものです(苟利社稷専之可也)。その後、功が成って事が立ったら、臣等は退いて矯罪(勝手に天子の詔を作った罪)に伏します。たとえ死んでも恨みはありません。」
 
こうして沔陽に壇場が設けられました。兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏文)を読み終えてから、劉備に王冠を進めます。
 
 
次回に続きます。

東漢時代 漢中王劉備(2)

 



東漢時代467 献帝(百四十九) 献帝譲位 220年(5)

今回で東漢時代が終わります。
 
[三十] 『資治通鑑』からです。
魏王・曹丕が丞相祭酒・賈逵を豫州刺史に任命しました。
 
当時は天下が安定したばかりで、(地方の政治はまだ混乱しており)刺史の多くが郡を統領できませんでした。
賈逵はこう言いました「州は本来、六條の詔書によって二千石以下を察(監察)した。だからその状(刺史の姿、様子)は皆、厳能(厳正で能力があること)・鷹揚(威武がある姿)で督察(監督観察)の才があると言い、安静・寛仁で愷悌の徳(親しみやすい徳)があるとは言わなかった(故其状皆言厳能鷹揚有督察之才,不言安静寛仁有愷悌之徳也)。今、長吏が法を軽視して(慢法)盗賊が公行(公然と横行)しているが、州はそれを知っても糾さない(正さない)。これで天下がどうしてまた正を取ることができるのだ(天下がどうして正しくなるのだ。原文「天下復何取正乎」)。」
そこで賈逵は、二千石以下で姦悪を庇護して法に則らない者(阿縦不如法者)を全て検挙・上奏して罷免しました。
また、外は軍旅(軍隊)を修め、内は民事を治め、陂田(山田)を興し、運渠を通したため、吏民に称賛されました。
 
魏王・曹丕は「賈逵は真の刺史だ(真刺史矣)」と言って天下に布告し、豫州を法(規範。見本)にさせました。
賈逵には関内侯の爵位を下賜しました。
 
[三十一] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
冬十月癸卯(初一日)、魏王・曹丕が令を発しました「諸将が征伐した際、士卒で死亡した者の中には、まだ收斂(棺に納めること)されていない者もいる。吾()は甚だこれを哀れむ。よって郡国に告げる。槥櫝(棺)を支給して殯斂(死体を棺に納めること)し、その家に送致して(送り届けて)官が設祭をなせ(官が祭品を準備して葬儀を行え)。」
 
[三十二] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
丙午(初四日)曹丕が曲蠡に至りました。
 
[三十三] 『後漢書孝献帝紀』からです。
乙卯(十三日)、皇帝(献帝)が遜位(譲位)して魏王・曹丕が天子を称しました。
 
三国志・蜀書二・先主伝』は「魏文帝が尊号を称し、黄初に改元した」と書き、『三国志・呉書二・呉主伝』は「冬、魏の嗣王曹丕が尊号を称し、黄初に改元した」と書いています。
 
以下、『三国志・魏書二・文帝紀』と『後漢書孝献帝紀』の注および『資治通鑑』から詳しく書きます。
左中郎将・李伏、太史丞・許芝が上表しました「魏が漢に代わるべきだということは、図緯(預言書)において見られ、この事例は甚だたくさんあります(魏当代漢見於図緯,其事衆甚)。」
資治通鑑』胡三省注によると、李伏は『孔子玉板』から、許芝は『春秋漢含孳』『玉板讖』『佐助期』『孝経中黄讖』『易運期讖』から引用しています。
 
群臣がこれを機に上表し、魏王・曹丕に天人の望に順じるように勧めましたが、曹丕は同意しませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、曹丕に即位を進めたのは辛毗、劉曄、傅巽、衛臻、桓階、陳矯、陳群、蘇林、董巴で、司馬懿、鄭渾、羊祕、鮑勛もそれに続きました。
 
冬十月乙卯(十三日)、漢帝献帝は衆望が魏にあると考え、群臣・卿士を召して高廟で告祠(報告の祭祀)し、行御史大夫御史大夫代行。尚、「行御史大夫」としているのは『資治通鑑』で、『三国志・文帝紀』では「兼御史大夫」、『後漢書孝献帝紀』の注では「太常」、『三国志・文帝紀』の注では「御史大夫事・太常」です・張音に符節を持って璽綬・詔册(皇帝の文書)を奉じさせ、魏に帝位を譲りました(禅位于魏)
 
献帝が冊(詔書)によって曹丕にこう伝えました「ああ、汝、魏王よ(咨爾魏王)、昔、帝堯は虞舜に禅位(譲位)し、舜もまたこれを禹に命じた。天命は常ではなく(不変ではなく)、ただ徳がある者に帰すのだ。漢道は陵遅(衰退)し、代々秩序が失われ(世失其序)、朕の身に(天命が)降り及ぶと(降及朕躬)、大乱によってますます暗くなり(大乱茲昏)、群兇(群凶)が肆逆(放縦謀反)して宇内(天下)が顛覆した。しかし武王の神武に頼って曹操の神武のおかげで)、四方においてこの難から救い(拯茲難於四方)、区夏(中華。中原)を清めることで我が宗廟を保ち安んじることができた(惟清区夏以保綏我宗廟)。予一人(天子の自称)だけが乂(安寧)を得たのだろうか。九服(天下全土)に対して実にその賜(恩恵)を受けさせたのである。今、王(曹丕)は謹んで前緒(先王の事業)を継承し(欽承前緒)、汝の徳を輝かせ(光于乃徳)、文武の大業を拡大し(恢文武之大業)、汝の父の偉業を明らかにした(昭爾考之弘烈)。皇霊が瑞(瑞祥)を降し、人・神が徵(吉兆)を告げ、(天命を)大いに明るくして(衆人が)朕に命(天命)を献言し(原文「誕惟亮采師錫朕命」。「亮采」には「政治を輔佐する」という意味がありますが、前後の内容とつながらないようなので、「亮彩」と解釈して「明るくする」と訳しました。誤りかもしれません。「師錫」は衆人が献言することです)、皆が汝曹丕の度量なら虞舜と同じようになれると言っている(僉曰爾度克協于虞舜)。よって我が『唐典(堯の故事、教え。漢帝は堯の子孫を名乗っていました)』に遵守し、恭しく汝に位を譲ろう(用率我唐典,敬遜爾位)。ああ(於戲)、天の歴数は爾躬(汝の身)にある。誠実に中庸を執れば、天禄(天の福)が永久になる(允執其中,天禄永終)。君は恭しく大礼に順じ、この万国を満足させ(饗茲万国)、そうすることで粛々と天命を受け入れよ(君其祗順大礼,饗茲万国,以粛承天命)。」
 
三国志・文帝紀裴松之注は献帝が天下に向けた詔も載せています。
献帝はこう言いました「朕は位にあること三十二載()になり、天下の蕩覆(転覆)に遭ったが、幸いにも祖宗の霊に頼り、危機からまた存続に転じた(危而復存)。しかし天文を仰瞻し(仰ぎ見て)、民心を俯察するに(俯いて観察するに)、炎精の数(火徳の命数)は既に終わり、運気は曹氏において巡っている(行運在乎曹氏)。そのため、前王(曹操)は既に神武の績を樹立し、今王曹丕もまた明徳を光曜させることでその期(時期)に応じている。これによって、暦数の昭明は(暦数が明らかであることは)誠に知ることができるのである(信可知矣)。大道が行われたら、天下は公のものとなり天下為公、賢と能を選ぶものだ(大道が行われたら天下を私物化することがないので、賢才で能力がある者を選んで天子にするものだ)。だから唐堯は私情によってその子を立てることなく(不私於厥子)(舜に帝位を譲ったので)名が無窮に伝えられた。朕はこれを羨み敬慕するので(羨而慕焉)、今、『堯典』の踵を追い(後を追い)、魏王に位を譲ることにする(禅位于魏王)。」
 
本文に戻ります。
魏王・曹丕は三回上書して辞譲(謙譲・辞退)してから、繁陽故城に壇を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、曹丕は南巡して潁川潁陰県に到ったところでした。曲蠡の繁陽亭に壇が築かれます。その地は許から南七十里の地にあり、東に高さ七丈・方五十歩の台を、南に高さ二丈・方三十歩の壇を造りました。この年、繁陽が繁昌県に改められました。
 
辛未(二十九日)、魏王・曹丕が壇に登って璽綬を受け取り、皇帝の位に即きました。
百官が陪位(同席)します。
儀式が終り、壇を下りてから、天地・嶽瀆(五嶽と四瀆。五嶽は泰・衡・華・恒・嵩。四瀆は江・河・淮・済)の燎祭(祭器や犠牲を柴の上に載せて焼く祭祀)を視て、礼を成して儀礼を終わらせて)帰還しました。
 
漢の延康元年から魏の黄初元年に改元して大赦しました。
こうして漢が滅び、魏王朝が始まります。曹丕は魏文帝とよばれます。
 
尚、曹丕が帝位に即いた日を辛未(二十九日)としているのは『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』で、『三国志・文帝紀』は「庚午」としています。
資治通鑑』胡三省注によると、魏文帝が禅譲を受け入れたことを記念する石碑(受禅碑)があり、そこにも「辛未受禅」と書かれているため、『三国志』の「庚午」は誤りのようです。
 
また、『後漢書・皇后紀下』にこのような記述があります。
魏が禅譲を受けた時、皇后(曹氏。曹操の娘です)に使者を派遣して璽綬を求めました。しかし皇后は怒って与えませんでした。
これが何回も繰り返されてから、皇后は使者を呼んで中に入れ、自ら譴責して璽を軒下に投げ、顔中に涙を流して「天は汝(魏)に福を与えないでしょう(天不祚爾)!」と言いました。
左右に仕える者で皇后を仰視できる者はいませんでした。
資治通鑑』胡三省注は「これは前漢(西漢)の元后の故事である。そもそも、璽綬が曹后の所にあるはずがないので、この説は妄(妄言。道理がないこと)である」と解説しています。

三国志・文帝紀裴松之注が、魏文帝が即位するまでの経緯を更に詳しく書いているので、別の場所で紹介します。

東漢時代 魏文帝即位(1)




次回から三国時代(魏)に入ります。