春秋時代目次(一)
春秋時代目次
春秋時代2 東周平王(二) 衛武公 攜王滅亡 前769~750年
春秋時代3 東周平王(三) 曲沃の桓叔 京城の太叔 前749~730年
春秋時代7 東周桓王(二) 曲沃武公即位 前717~715年
春秋時代13 東周桓王(八) 速杞の戦い 前705~703年
春秋時代14 東周桓王(九) 鄭の内争 衛宣公の子 前702~700年
春秋時代15 東周桓王(十) 斉の後継者 前699~697年
春秋時代16 東周荘王(一) 魯桓公の死 前696~694年
春秋時代17 東周荘王(二) 衛恵公復位 前693~687年
春秋時代18 東周荘王(三) 斉桓公と管仲 前686~685年
春秋時代19 東周荘王(四) 長勺の戦い 前684~682年
春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年
春秋時代22 東周恵王(一) 楚文王の死 周の内乱 前676~675年
春秋時代28 東周恵王(七) 晋太子・申生 前666年(1)
春秋時代29 東周恵王(八) 楚令尹子元 魯臧文仲 前666年(2)
春秋時代30 東周恵王(九) 斉桓公の山戎遠征 前665~663年
春秋時代33 東周恵王(十二) 魯閔公殺害 前660年(1)
春秋時代34 東周恵王(十三) 衛の滅亡と復国 前660年(2)
春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3)
春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年
春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年
春秋時代38 東周恵王(十七) 首止の会盟 前655年(1)
春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2)
春秋時代40 東周恵王(十九) 恵王の死 前654~653年
春秋時代41 東周襄王(一) 洮の会盟 前652年
春秋時代45 東周襄王(五) 斉桓公と封禅 前651年(4)
春秋時代50 東周襄王(十) 戦後の晋と秦 前645年(2)
春秋時代52 東周襄王(十二) 斉管仲の死 前645年(4)
春秋時代53 東周襄王(十三) 斉桓公の死 前644~643年
春秋時代57 東周襄王(十七) 晋恵公の死 前637年(1)
春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2)
春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1)
春秋時代60 東周襄王(二十) 帰国後の文公 前636年(2)
春秋時代61 東周襄王(二十一) 鄭と周の対立 前636年(3)
春秋時代62 東周襄王(二十二) 周の内争 前636年(4)
春秋時代63 東周襄王(二十三) 周内乱の終結 前635年(1)
春秋時代67 東周襄王(二十七) 晋楚の対立 前632年(1)
春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2)
春秋時代71 東周襄王(三十一) 衛成公復位 前630年(1)
春秋時代72 東周襄王(三十二) 晋秦の不和 前630年(2)
春秋時代75 東周襄王(三十五) 殽の戦い 前627年(1)
春秋時代76 東周襄王(三十六) 箕の戦い 前627年(2)
春秋時代78 東周襄王(三十八) 彭衙の戦い 前625年(1)
春秋時代79 東周襄王(三十九) 秦の由余 前625年(2)
春秋時代81 東周襄王(四十一) 西戎の覇・秦穆公 前623~622年
春秋時代84 東周襄王(四十四) 魯・公孫敖の出奔 前619年
春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年
春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年
附
東漢時代 曹操
東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)
まずは『魏書』です(『資治通鑑』の曹操に対する評は主にここから抜粋・引用しています)。
曹操(原文は「太祖」ですが、以下、「曹操」と書きます)は自ら海内を統御して群醜を芟夷(討滅、平定)し、その行軍用師(行軍・作戦。軍事行動)はおよそ孫・呉の法(孫子・呉子の兵法)に則り、事に因って奇を設け、敵を欺いて勝ちを制し、変化の様子は神のようだった(因事設奇,譎敵制勝,変化如神)。自ら兵書十万余言を著作し、諸将の征伐は、皆、新書(曹操の兵法書)によって従事した(事を行った)。
宮室を造作(建築)して機械(器具)を繕治(修理・制作)するに及んでは、法則(計画・方法)を為さないことがなく(あらかじめしっかりとした計画を立て)、皆、その意を尽くした(目的通りに完成した)。
雅性(元からの性格)は節倹で、華麗を好まなかったため、後宮の衣服は錦繡を使わず、侍御の履(履物)は二采(二彩。複数の色)を使わなかった。帷帳・屏風が壊れたら補納(補修)し、茵蓐(敷物。布団)は温を取るだけで縁飾もなかった。
漢の世は、安平の人・崔瑗と崔瑗の子・崔寔、弘農の人・張芝と張芝の弟・張昶が並んで草書を善くし、曹操はこれに次いだ。
(曹操は)養性の法を好み、方薬も理解し、方術の士を招き入れた。廬江の人・左慈、譙郡の人・華佗、甘陵の人・甘始、陽城の人・郄倹で至らない者はいなかった。また、野生の葛を一尺も食べる練習をし、しかも少量の鴆酒を飲むこともできた(習啖野葛至一尺亦得少多飲鴆酒)。
漢末の王公は多くが王服を棄てて幅巾(頭巾の一種)を雅とした。そのため袁紹、崔豹の徒は将帥でありながら皆、縑巾(絹の頭巾)を着けた。曹操は天下が凶荒に襲われて資財が乏匱(欠乏)していたため、古に真似て皮弁(皮の冠)を作り、縑帛(絹織物)を裁って帢(簡易な帽子。冠の一種)とし、簡易・隨時の義(簡単便利でその時の目的に応じて使うという道理)に合わせ、色によって貴賤を分けた。これは今(晋代)においても施行されているが、軍容というべきであって、国容(国の正装)ではない。
最後は『曹瞞伝』からです(『資治通鑑』の曹操に対する評はここからも一部を抜粋・引用しています)。
曹操の為人は佻易(軽薄。軽率)で威重がなく、音楽を好み、倡優(役者、芸人)が側にいて常に昼間から夜に達した(常以日達夕)。被服(衣服)は軽綃(軽い絹)を用い、身には自ら小鞶囊(小さな革製の袋)を佩して手巾や細物(こまごまとした物)を入れ、時には帢帽(簡素な冠)をかぶって賓客に会った。
以前、袁忠が沛相になり、法を用いて曹操を治めよう(裁こう)としたことがあった。沛国の人・桓邵も曹操を軽んじていた。
曹操が兗州に居た時、陳留の人・辺譲の言議が曹操を頗る侵した(害した)ため、曹操は辺譲を殺してその家族も滅ぼした(族其家)。袁忠と桓邵は共に交州に避難したが、曹操は太守・士燮に使者を送って全て族滅させた。桓邵が出頭して庭中で拝謝したが、曹操は「跪いたら死を解くことができるのか(跪可解死邪)」と言ってやはり殺してしまった。
東漢時代 魏王曹操
献帝建安二十一年(216年)、魏公・曹操が魏王になりました。
東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)
朕は不徳によって先祖の弘業(大業)を継承したが(継序弘業)、天下が崩壊して群凶が害毒をほしいままにする時代に遭い(遭率土分崩群兇縦毒)、西から東に移動して辛苦困窮した(自西徂東辛苦卑約)。その際に当たっては、ただ危難に溺れ入り、先帝の聖徳を辱めることだけを恐れた(唯恐溺入于難以羞先帝之聖徳)。しかし皇天の霊に頼り(皇天の霊のおかげで)、君(曹操)に義を持って身を奮わせ(秉義奮身)、神武を迅速に発揮させ(震迅神武)、艱難から朕を防ぎ(捍朕于艱難)、宗廟の安全を保つことができた(獲保宗廟)。華夏(中華)の遺民で気を含む類の者は(息をしている者、生きている者は。原文「含気之倫」)、(曹操の恩恵を)蒙らない者がいない。君の勤(勤労)は稷(后稷。周の始祖)・禹を過ぎ、忠は伊・周(伊尹・周公)と等しいのに、謙譲によってそれ(功績)を覆い隠し(掩之以謙讓)、ますます恭敬な態度をとることでそれを守っている(守之以彌恭)。そのため、以前、初めて魏国を開き、君に土宇(国土)を下賜したが(錫君土宇)、君が命に違えることを懼れ、君が固辞することを考慮したので、暫くは志(意向)を胸に抱きながら意を屈して(懐志屈意)、君を封じて上公にした(封王はせず、公爵にした)。(曹操の)高義を尊んでそれに順じ、そうして勳績(勲功・業績)を待とうと欲したのである(欲以欽順高義須俟勳績)。
やがて韓遂・宋建が南の巴・蜀と結び、群逆が合従し、社稷を危うくさせようと図ると、君はまた将に命じ、龍驤虎奮して(「龍驤」は龍が飛翔すること、「虎奮」は虎が奮い立つことで、武威を発揮することの比喩です)その元首(頭。首)を曝し(梟其元首)、その窟栖(すみか)を屠した(皆殺しにした)。西征するに至ると、陽平の役では自ら甲冑を身につけて険阻(な地)に深入りし、蝥賊(害虫)を取り除き(芟夷蝥賊)、凶醜を消滅させ(殄其兇醜)、西の辺境を平定して(盪定西陲)、万里に旗を掲げ(懸旌万里)、声教(名声と教化)が遠くに振るい(声教遠振)、我が区宇(天地。天下)を安寧にした(寧我区宇)。
唐・虞の盛においては(堯舜の盛時においては)三后(恐らく夏商周の始祖に当たる禹・契・后稷です)が功を樹立し、文・武の興においては(西周文王・武王が興隆した時は)旦・奭が作輔し(周公と召公が補佐の大臣になり)、二祖の成業においては(高祖と光武帝が大業を成した時は)英豪が命を輔佐した(曹操の功績もこれらと同じである)。聖哲の君をもって事を自分の任と為しても(堯・舜等の聖哲な君子が政事を自分の任務・責任としていても)、なお土地を下賜して瑞(諸侯の証しとなる玉)を与えることで功臣に報いたのだ(錫士班瑞以報功臣)。朕のように寡徳で、君に頼ることで救われているのに、賞典(賞賜・典礼)が充分でない者がいるだろうか(豈有如朕寡徳仗君以済而賞典不豊)。(賞典を充分にせず)どのようにして神祇(「祇」も「神」の意味です)に答えて万方(天下)を慰めるのか。
よって今、君の爵を進めて魏王にし、使持節・行御史大夫(符節を持った使者で御史大夫代行)・宗正・劉艾に策璽(任命の策書と印璽)と白茅で包んだ玄土(「玄土」は「黒土」で、北方の領土を象徴します。白茅で包んだ土を与えるのは封侯を意味します。原文は「玄土之社,苴以白茅」ですが、「之社」は省いて「玄土苴以白茅」と解釈しました。「玄土之社」は「北方の土地神」です)、金虎符第一から第五、竹使符第一から第十(「金虎符」と「竹使符」は兵を動員したり徴集する時に使う符です)を奉じさせる(劉艾にこれらを持たせて曹操に授けさせる)。君は王位を正せ。丞相として冀州牧を領すのは今まで通りとする(以丞相領冀州牧如故)。魏公の璽綬・符冊(符節・任命書)を返上せよ。謹んで朕の命に服し、汝の衆をよく考慮していたわり、諸事を克服して安定させ、そうすることで我が祖宗の美命を高揚させよ(敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命)。」
また、献帝は手詔(手書きの詔書)を曹操に与えました「大聖は功徳を高美とし、忠和を典訓とするので、創業して名を残し、百世にわたって敬慕させることができ(刱業垂名使百世可希)、道を行って制義(制宜。状況に適した方法を制定すること)し、その力行(努力と実践)を模範とさせさせることができ(行道制義使力行可效)、それによって勳烈(功績)が無窮になり、美光が卓越するのである(休光茂著)。稷・契は元首(堯・舜)の聡明を上に戴き、周・邵(周公・召公)は文・武(文王・武王)の智用(智慧を運用すること)を頼りにし、確かに庶官(諸官)を経営したので、仰いだら嘆息し、俯いたら思念するが(稷・契や周・邵に対して感嘆敬慕するが。原文「仰歎俯思」)、その対(回答。封爵時の受け答え)がどうして君のよう(謙譲・恭敬の様子)であっただろう(其対豈有若君者哉)。朕は古人の功があのように美しいことを考え(朕惟古人之功,美之如彼)、君の忠勤の績(功績)がこのように盛んであることを思うので(思君忠勤之績,茂之如此)、いつも符に彫刻して瑞を加工したり(鏤符析瑞)、礼命(任命)を冊書に述べようとしており(陳礼命冊)、寝ても覚めても感慨して(気持ちがたかぶり。原文「寤寐慨然」)、自ら守文の不徳を忘れるのである(原文「自忘守文之不徳焉」。「守文」は先代の法度を守ることで、ここでの「文」は功臣には封爵するという大聖の制度を指します。「守文之不徳」は「守文における不徳」「守文ができていないという不徳(曹操に相応しい爵位を与えていないという不徳)」の意味か、「守文するだけの不徳な身」という意味だと思います。全体の意味は「曹操に王位を与える準備をすることで、気持ちが高揚して、自分が不徳であることを忘れてしまう」といった感じだと思いますが、誤訳かもしれません)。今、君は重ねて朕の命に違え、固辞して懇切だったが、それは朕の心にそい、しかも後世に訓す(教え導く)方法ではない(非所以称朕心而訓後世也)。志を抑えて節を制し、これ以上固辞してはならない(其抑志撙節勿復固辞)。」
『四体書勢序』では、梁鵠が公(曹操)を(雒陽)北部尉にしましたが、『曹瞞伝』では尚書右丞・司馬建公によって(曹操が北部尉に)挙げられています。
裴松之が司馬防について書いています「司馬彪の『(続漢書)序伝』を調べると、建公は(尚書)右丞になっていないが、恐らくそれは間違いだろう(疑此不然)。王隠の『晋書』では、趙王(司馬倫。司馬懿の子)が帝位を簒奪した時、祖(祖父)を尊んで帝にしたいと欲し、博士・馬平が議して『京兆府君(司馬防)は昔、魏武帝を挙げて北部尉にしたので、賊が界(領内)を侵さなくなりました』と称えた。このようであるので、(司馬防が尚書右丞になり、曹操を挙げたとする説には)証拠があることになる(如此則為有徵)。」
東漢時代 漢中王劉備(2)
東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)
東漢時代 漢中王劉備(1)
劉備が上書して漢帝に言いました「臣は具臣の才(臣下の列に加わるだけの凡庸な才)によって上将の任を負い、三軍を董督(総督)し、外において辞(詔)を奉じていますが、寇難を掃除して王室を靖匡することができず(皇室を安んじて正すことができず)、久しく陛下の聖教を陵遅(衰退)させ、六合(上下と四方。天下)の内が混乱したままで泰平にできないので(否而未泰)、これを憂いて眠りにつけず(原文「惟憂反側」。「反側」は何回も寝返りを打つことで、眠れない様子です)、頭痛を病んだようにうなされています(原文「疢如疾首」。「疢」は「病」、「疾首」は「頭痛」で、直訳すると「頭痛のような病」です。激しい憂慮・心痛を表す比喩として使います)。
以前、董卓が乱階(乱の発端)を造り、その後、群兇(群凶)が縦横して海内を残剥(破壊・搾取)しましたが、陛下の聖徳・威霊に頼り(聖徳・威霊のおかげで)人と神が共に応じ、あるいは忠義(の士)が奮討し、あるいは上天が罰を降したので、暴虐が並んで倒れて徐々に氷が融けるように消滅しました(暴逆並殪以漸冰消)。しかし曹操だけは久しく梟除(誅滅)されず、国権を侵擅(侵犯・専断)し、心を恣にして乱を極めています。臣は昔、車騎将軍・董承と曹操討滅を図りましたが(図謀討操)、機事が密ではなかったため、董承は害に陥らされ(殺害され。原文「承見陷害」)、臣(私)は流亡して拠点を失い、忠義を果たせませんでした(播越失拠忠義不果)。その結果、ついに曹操に凶を尽くして逆を極めさせることになり(窮凶極逆)、主后(皇后)が戮殺(殺戮)され、皇子が鴆害(鴆毒による殺害)されました。たとえ同盟を糾合し、念が奮力にあっても(力を奮いたいと思っていても)、軟弱で勇武がないので、年を経ても成果がなく(懦弱不武,歴年未效)、常に殞没(死亡。漢帝よりも先に自分が死ぬこと)して国恩に孤負すること(裏切ること)を恐れ、寝ても覚めても長嘆し、朝から夜まで危難に臨んだ時のように心を引き締めています(寤寐永歎,夕惕若厲)。
今、臣の群寮はこう考えています。昔、『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決め、衆明(多数の賢明な士)を輔翼にする(敦叙九族,庶明勵翼)』とあり、五帝は損益しましたが(五帝はそれぞれ前の時代の制度を修正してきましたが)、この道(『虞書』の道理)は廃しませんでした。周は二代(夏・商)に鑑み、諸姫氏を並べて封建しました(周監二代並建諸姫)。(そのおかげで)実に晋・鄭による夾輔(補佐)の福に頼ることができたのです。高祖は龍興(帝王が興隆すること)してから子弟を尊んで王とし、大いに九国を啓き(開き)、その結果、最後は諸呂を斬って大宗を安んじました。今、曹操は直を嫌って正を憎み(悪直醜正)、実に多くの徒を集め(原文は「寔繁有徒」ですが、通常は「実繁有徒」と書きます)、禍心(悪を為す心)を隠し持ち(包藏禍心)、簒盗(の意志)が顕かになっています。既に宗室が微弱になり、帝族に位がないので(官位に就いている皇族もいないので)、(臣の群寮は)古式(古の方法)を斟酌(考慮)し、暫時、権宜に則って(原文「依假権宜」。「依假」は暫定的に用いること、「権宜」は臨機応変かつ適切な処置です。ここでは皇帝の許可を待たず、暫定的に適切な処置をするという意味です)、臣(私)を大司馬・漢中王に推しました(上臣大司馬漢中王)。臣は伏して自ら三省し、国の厚恩を受けて一方の任を負いながら、力を出しても成果がなく(陳力未效)、獲ているもの(地位・官職)が既に度を過ぎているので(所獲已過)、また高位を忝くして(能力がないのに高位に就いて)罪謗(罪や批判)を重ねるべきではないと考えました。しかし群寮が義によって臣に逼迫しました(「群寮が義によって臣に王を称すように要求しました」。または「群寮も逼られているので、義によって臣に迫りました」。原文「群寮見逼迫臣以義」)。臣が退いて思うに、寇賊が誅されず(寇賊不梟)、国難がまだ止まず、宗廟が傾危(転覆の危機)にあり、社稷が墜ちようとしており(消滅しようとしており)、(これらの状況が)臣の憂責碎首の負(憂慮・自責して命を懸けるべき負担、責任)と成っています。もし権に応じて変に通じることで(原文「応権通変」。臨機応変に適切な対処をすることで)、聖朝を寧靖(安寧)にできるのなら、たとえ水火に赴くとしても、辞すことではなく、敢えて常宜(通常の道義)を考慮して後悔を防ぐつもりです(原文「雖赴水火所不得辞,敢慮常宜以防後悔」。後半は誤訳かもしれません。本来は、「後悔しないために、敢えて通常の道義を考慮せず、臨時の手段として王位に即くつもりです」という意味だと思います)。よって、衆議に順じて印璽を拝受し、そうすることで国威を崇めます。仰いでこの爵号を思うに、位が高く寵が厚く、俯して(伏して)報效(恩に報いて尽力すること)を思うに、憂いが深く責(責任)が重いので、驚き怖れて息をひそめ、深谷に臨んだ時のようです(驚怖累息如臨于谷)。力を尽くして忠誠を捧げ(尽力輸誠)、六師(六軍)を奨厲(奨励)し、群義(諸義士)を率斉(統率)し、天に応じて時に順じ、凶逆を撲討(討伐)することで、社稷を安寧にし、国恩の万分の一だけにでも報いるつもりです(以寧社稷以万分)。謹んで拝章し(「拝章」は上奏文を献上することです)、(拝章に使う)駅(駅馬、駅車)によって授かっていた左将軍・宜城亭侯の印綬を上還(返上)します。」